鍔音
私が、湯を使っている間、ずっと《羅刹天》さまは窓の外を見据えていた。
交易都市で寝てから、《羅刹天》さまは一度も寝ずにこうして私を護ってくれている。
その献身に応えることが出来ないこの身体が疎ましい。
私は、この旅が始まるまで独りで湯浴みをしたことはなかったとはいえ、逃げる旅路でこうまで時間を取ってしまうのはどうにかならないのだろうか。
服をひとりで着ることには、すぐ慣れる事が出来たというのに、濡れた身体を拭うのは、いつになって
も上手くできないのだ。勿論乾いたタオルで身体を拭く位はちゃんと出来る。難しいのは水分を含んで身体に張り付く長い自分の髪だ。
結局今日も、身体についた水滴を全て拭い取れずにぐずぐずしている内に、見かねた《羅刹天》さまがそっと私の髪を持ち上げた。髪が邪魔で上手く拭けていなかった背中を、そっとタオルで拭ってくれて、丁寧に髪から水分を拭き取り、櫛を入れてくれる。
「ありがとう御座います《羅刹天》さま……」
夜明け色の瞳を見上げながら礼を言うと、ほんの少し眼を細めて頷いてくれる。
そんな些細な事で、私の胸は温かくなり頬が緩んでしまう。
こんな些末な事で手を煩わせて良い人ではないはずなのに。私は普通の人が出来ている事すら出来ないから、きっと《羅刹天》さまはとても苦労しているに違いないのだ。
そう想えば先程温かさを感じた胸が小さく傷んで、このひとに頼るだけしかできていない自分が嫌になる。
せめて、何か一つだけでもこのひとに私は何か差し出せるものがあればいいのに。
私は《羅刹天》さまが用意してくれた寝間着を着ると、暖炉に向かって髪を乾かし始める。
《羅刹天》さまは暖炉にかけてあった薬缶を持つと、さっきまで私が使っていた湯を張った手洗に熱湯を足す。私に背を向けると、素早く巫女服を脱いで躰を清拭すると湯の中に裸身を沈めた。
暖炉の炎が照らすその背中を見つめていると、《羅刹天》さまの新雪の様なきめ細かい肌に、浮かび上がる傷跡がある事に気が付いた。肩口から腰の上辺りまで走った凄まじい傷跡は古傷だとしても、その深さが命に関わるものだと分かるほどのものだ。
「《羅刹天》さま、そのお背中の傷は……?」
思わず私は問いかけてしまっていた。
私を抱えて悪路を歩いている最中か、あるいは私が寝ている間に追っ手や魔物達と戦って負った傷なのだろうかという不安も有った。でも、それ以上に《羅刹天》さまを傷つけた何者かに怒りを感じずに居られなかった。
「誰かに斬られたのは確かなようだが、まだ思い出せていない……私が《羅刹天》と呼ばれる前の傷なのは確かだが」
「……痛みますか?」
赤黒い瘢痕となって、白い肌に浮かび上がる切り傷は、ひどく痛々しく見える。
背を向けたまま《羅刹天》さまはいつもの様に、平然とした様子のまま答えてくれた。
「もう千年近く前の傷だ、痛みなどない。下手人も既に死んでいるだろう」
私は髪を乾かすのを中断し、寝台の端まで這って行って、《羅刹天》さまの背に近づく。
腕を伸ばして傷跡をなぞる様にそっと指で触れると、その肩がぴくりと痙攣し、《羅刹天》さまが困ったような雰囲気で振り返る。
「……驚かせるな」
「ごめんなさい……」
私はあわてて指を引き戻す。
私は後ずさるようにして《羅刹天》さまから離れた。そして、壁を向いて膝に顔を埋める。
夜明け色の眼は怒っていない様子ではあったが、我ながらどうかしていたと反省する。
……それでも、私はこのひとの事を知りたいと思うのだ。
背後で小さく水音がした。
《羅刹天》さまが湯から上がり、身支度を整えている気配を感じ、私はおずおずと視線を向けた。
菫色の瞳が、静かに私を見つめていた。彼女の黒髪はまだ濡れていて、その艶を一層濃いものに染め上げていた。
湯で僅かに紅く染まった肌と相まって、同性で有っても見惚れてしまう程の妖艶な姿が、紅と白で染められた巫女服から零れている。
私は少しでも手伝おうとタオルを持って、先程《羅刹天》さまがしてくれたように両手を使って髪を梳くように拭き始める。あまり上手くできないのは自分でも解っていたが、それでも少しでもこのひとに触れて居たくて懸命に拭う。
《羅刹天》さまは、そんな私を見て僅かに眼を見開くと、目を細めてかすかに口元を緩めた。
私には何故か、今にも泣き出してしまいそうな表情にも見えた。
大雑把に拭うことが出来ると、《羅刹天》さまは私の片方の手首をそっと握った。
そして、それをゆっくりと自分の口元へと運び、とても静かな声音で言った。
「……ありがとう」
ああ、たったそれだけの事なのに。
何故私はこれほど嬉しく思えてしまうのだろう。
王女が妙に私に触れる様になった気がする今日この頃。
別に不快だとか、嫌だとかといった事は無いのだが、年季の入ったコミュ障の私にとってが距離が近すぎる。何がきっかけだったのかはわからない。それとも、今の高貴な身分の姫というのはこういうスキンシップ過多が普通なのだろうか?
そんな益体もない事を考えながら、先日止まった宿を最後に、しばらくの間霊峰の隙間を縫うルートを進み続ける。
そんな時だ。
前方の樹上で砂色の外套が翻った。
私の腕の中で、王女が小さく息をのむ。
私はすでに刀を抜き放ち戦闘態勢に入っているが、《屍鬼》の知覚ですら曖昧にしかその影を捉えることはできなかった。
峻厳な山道に苦も無く降り立った影は、まだ成人して間もない様だった。しかし少しも油断できるはずもない。その首にかかっている霊銀の認識票を見るまでもなく、感じる気配だけで十分警戒に値する相手だと理解できる。
極限まで研ぎ澄まされた剃刀の様な、同時にどこまでも溶けていくかのように、実体が捉えずらい気配。そして懐かしさすら感じる程の香しく、濃密な死の影。
「何か御用かな?ご同輩」
呟く私に応える様に《悪鬼》が腰に下げた双剣の柄頭に手を置いた。
動きやすさを重視した革鎧。フードから覗く藍色の髪と同じ色の覆面をしているため、露出している眼以外はよくわからないが、やはり若い。
明らかな待ち伏せだが、奇襲でもなければ此方が抜刀したというのに、まだ《悪鬼》は抜いていない。
ひょっとすると、単純に道を聞きたかった可能性も微レ存。
「無命の森近くで、商人を殺したかい?《羅刹天》」
少し高いが少年の声だ。まるで覆面鬼、といった絵に描いた様な刺客スタイルの癖に口調は軽い。
というか、《覆面鬼》は割とまっとうな依頼で動いているようだ。無命の森近くで商人と言ったら、久々の辻斬りの時賊に殺されていた奴の事だろう。
つまり《覆面鬼》はわざわざ商人を殺した下手人を追ってきたという事なのだろう。どうせ報酬も微妙だろうに酔狂な奴も居たものだ。
積荷には手を付けてないし、取り敢えず、道を尋ねたかった迷子ではないが、戦闘は避けれそうだ。
隠す理由も無いので、素直に応える事にする。
王女を護りながら同郷の、しかも明らかに《悪鬼》の格を持つ相手と好き好んで戦いたくはない。
私の二つ名を知った上でノコノコと正面から来ている以上、どうせ碌でもない奥の手を持っているに違いないだろう。
「商人の死体なら見た」
言い放ってから気が付いた。不味い、これは誤解される。
腕の中から此方を見上げる王女が寝ていた時の事であるし、王女は証人とはならないだろう。
どうフォローしたものかと悩んでいると、《覆面鬼》は双剣の柄頭から手を放していた。
「解読すると、死体は見たけど殺してはいない。って事でいいかな?」
「そうだ」
私は内心、胸を撫で下ろしながら《覆面鬼》に同意する。
話が分かるやつで良かった。大体悪鬼という存在は頭がおかしいので、取り敢えず殺してから考えよう。みたいな輩が殆どだ。
冷静に考えてみると、私達は人食い巨人達より酷い輩かも知れない。
「ふーん、証拠はある?」
「無い。商人を殺した賊なら斬ったが、急ぐ旅だ……弔う暇もなかった」
「おっけ、その辺りはしょうがないね」
当然の如く追及してくるが、《覆面鬼》自身も私が下手人でないとあたりは付けていた様で、あっさりとしたものだ。重ね重ね話の分かるやつで良かったと思っている私に、更に言葉が投げられる。
「交易都市では派手にやったね」
天気の話の様な、軽い口調のままであったが、それは紛れもなく《覆面鬼》が放った言葉の刃だった。
頭を必死に回転させて、何とか無難な言い訳を思いつく。
「敵を斬るのはおかしい事か?」
「時と場所を考えろって事だよ、ご同輩。ついでに南には行かない事をおすすめするよ」
《覆面鬼》が芝居のかかった仕草で肩を竦める。
私が何か言う前に、腕の中の王女が口を開いていた。
「ど……どうしてですか?」
「霜の帝国の辺境伯は、悪魔と手を結んでいる。大悪魔べモスとやり合う心算ならどうぞ。僕は実家に帰って寝ることをオススメするけど」
「……それは本当か?」
「本当。ただ、霜の帝国ではなく、辺境伯だけとの取引みたいだ」
思わず聞き返す私に頷く《覆面鬼》。何故そんなことを知っているだとか、本当に大悪魔なのかだとか聞きたいことは出てくるが、問いただしたところで意味はないだろう。
大悪魔とは上位魔神の瘴気から産まれた、特別な悪魔の事で非常に手強い存在だ。
私の認識が正しいなら、大陸の危機と見なされる位に手強い。
悪魔の時点で既に国家規模の対策チームが必要とされている位である。大悪魔ともなれば、歴史に名を残す英雄位には強くなくてはお話にならない。
そんな大物が王女の故郷を掌握しているという事は、まず間違いなく棺桶が大量生産される様な事態が進行しているという事だ。当初の最終目的である王女を託せる組織を見つけても、大悪魔を排除しない限りは決して生き延びれないであろう。
人類が勝てる相手ではない。
ハードルが大幅に上がったと認識せねばならないだろう。
この旅が私の最後の旅になるかも知れない。
「ならば、私も全力で闘わねばなるまい」
此方を見る《覆面鬼》の視線に、若干呆れの成分が混じり始めた。
私自身も愚かだという事は疑いようもないと認めるが、もう私はこの手を放す気はない。
だったら、もう仕方がないではないか。
「本気みたいだね。イカれてる頭にお土産をもう一つ上げるよ」
「有り難く頂戴しよう」
「南の王国の元首都は大悪魔の勢力圏だけど。王女様の味方になりそうな奴らは、海寄り……遷都前の旧都に集まってる。上手く接触するんだね」
そういうと《覆面鬼》は砂色の外套を翻し、樹木の影に姿を消した。
得難い情報をポンポン景気よく投げつけてくれたが、敵対勢力の危険度が跳ね上がった辺り喜んでいいのか悪いのか。
旅の終わりは、どうにも平穏に終わりそうにないらしい事だけは確かだった。