極魔
陽の落ちかけた、薄闇の荒れ野の中、私の腕の中で王女が吐く息は白い。
しかし、既に周囲は、貧弱な人間の命を凍りつかせてしまうほどの冷気ではなくなっている。
腕の中の王女が身動ぎすると、小さく声を上げた。
「あ……海」
無命の森を西に抜け隘路を進むと、この辺りで唯一の不凍港のある交易都市が現れる。
この海域を通る暖かな海流は、大気をも温めるために比較的過ごしやすい場所だろう。
あれから半月は過ぎた。進むときは私の腕に収まりっぱなしとはいえ、いい加減に屋根のある場所で疲れを癒してやるべきだろう。
私の足で半月も進んだのだ。追っ手が何であろうとも、追いつけるはずもないし、当然いるであろう他国に潜っている間諜程度の動きでやれることなど知れている。
何より、私はもう完全に王女を抱えて動くことに慣れた。困ったらとりあえず斬ればいい。
数百年の実績が語る、信頼と安心のスタイルである。
流石に持ったまま入るのはまずいので、この街では王女にも歩いてもらわねばならないが。
それはそれとして、休むにしても、わざわざこんな目立つ都市に来る必要は無い様に思われる。
確かに、行くだけならば霊峰を突っ切って進む方が確実安全である。しかし、王女の故郷は既に霜の帝国の辺境伯が治めている土地。
故郷に連れて行ったが行くあてがない。などという変な笑いが出る結末は《屍鬼》の私でも、ちょっとどうかと思う。
戦争で制圧した地域には、殲滅しきれなかった抵抗組織が残りがちであり、更にそれがそれ以上支配勢力域を増やしてほしくないという、国家的理性を持った第三国から支援されたりしているのはよくある話だ。
王女の故郷が今、どうなっているのか、それを噂程度でも知っておかなければならない。
南の国王、すなわち王女の父上と王太子はそろって城を枕に討死したと聞いている。
彼の地を統べているのは、霜の皇帝の信も厚い、辺境伯とその精鋭の騎士らしい。
要するに、不用意に足を踏み入れれば結局は彼らに捕らえられ、連れ戻されるだけだ。
王女を預けるに足る味方が必要だという事。
もう少し踏み込んでいうと、王女を担いで再興するだけの強力な地盤を提供できる勢力という事になる。
まぁ、この辺りは最悪私が平らげてもいい。元より進んで選んだ悪鬼の道、躊躇いもない。
寄らば斬る。寄らないなら寄って斬る。逃げるなら最初から刃向うんじゃないと斬る。
……もうこれでいいんじゃないかな。
若干ダメな思考に流れつつ、私は交易都市の門を潜ったのだった。
《羅刹天》に手を引かれ、街壁をくぐった瞬間に、目の前に無数の篝火の明かりが溢れた。
日もすっかり落ちたというのに、通りは行き交う人で溢れている。
余りの人の多さに、私は、目を瞠って《羅刹天》を見上げた。
静寂の地を往く時と同じ、揺るがない暁の眼が驚いている私を映し、僅かに細められる。
「此処は交易都市。門番も魔物に対する備えだ。誰でも自由に入ることが出来る」
そう言いながら歩を進める《羅刹天》は、まるで全ての流れを把握しているように、するりと行きかう人の合間を抜けていく。
通りを歩く《羅刹天》は私の手を引いて、自分の庭の様な迷いのない所作で進む。それが少し不思議であった。《羅刹天》は無命の森の守護者。少なくとも二百年はあの森で過ごしていたはずなのに、何故外の世界の事を知っているのだろう?
「《羅刹天》さまは交易都市に来たことがあるのですか?」
「無いが、地理は把握している」
淡々とした声音でキッパリと告げられたため、一瞬意味を理解できなかった。
いや、考えてみても普通に理解できなかった。
「……無命の森は、密偵が良く来た」
ポツリと付け足された言葉でやっと理解できた。つまり、他国の密偵が持っていた情報だという事だろう。一兵も配置されていないあの森は、《羅刹天》や特殊な森の様相を理解していない者にとっては、絶好の侵入口に見える。
進行方向から宿の客引きの声が、石畳と煉瓦造りの建物の壁に響き渡ってこだまする。
客引き男の子に、《羅刹天》が近づいた。
「お前の所に決めた。案内しろ」
《羅刹天》がフードを取ると、濡れ羽色の髪と尋常ならざる美貌が明らかになる。
呆けたように見とれる男の子に、《羅刹天》が訝しむ様な鋭い視線を放った。
そうすると、《羅刹天》の美しさは極寒の地の様な氷刃の恐ろしさに変化する。
その腕に抱かれて旅をする間に理解したが、本人はそういった事は気が付いていない様子であった。
単純に、返事が無い事に困っているだけなのだと私は理解できた。
「あの、私達泊まる宿を探しているの。よかったら案内してくれないかしら?」
そう私が言うと、男の子は恥じらうように「ありがとうございます、綺麗なお嬢様」と告げた。
男の子に連れられ、私たちは宿に向かった。
宿は一回が酒場兼食堂となっていた。とても大きく、宿泊客用の受付には幾人もの帳場人が立ち働いている。客がひっきりなしに出入りして、雪国でそれはいいのだろうかと思ってしまうスウィングドアが、忙しくバタバタと音を立てている。
帳場の周りでは、あらゆる国の言葉が飛び交い、混ざり合い、その声がまるで地鳴りのように壁を震わせていた。宿の者も客も、あわただしくて他人のことなど気にかける様子もない。
しかし、時折私にも人々の間から突き刺すような視線が感じられた。
この街には冒険者ギルドがあるのか、旅人というには物々しい武装した人類も出入りしているのだが、その内の何人かは私達……特にフードを取って長い黒髪と素顔を晒している《羅刹天》に鋭い視線を送っていた
確かに同性であっても見惚れる程美しいが、ただ美しいものを見る目という訳ではない事は明らかだった。肝心の本人は向けられる視線に何の感慨も抱いていないのか、完全に無視を決め込んでいたが。
目の前の帳場人は、《羅刹天》の眼を見たのだろう。深淵の闇を覗かせる夜明け色の眼は、人類の闇への根源的な恐怖を想起させる。
この人の腕の中で見ればまた違う印象をもつのだが、と私は少し残念に思う。
「飯はご覧のとおり一階が酒場兼食堂だ。好きに注文してくれ。宿は何がなくなっても、文句は受けない、そら、これが鍵だ」
そういうと帳場の男は金と引き替えに、《羅刹天》に向かって鍵を渡す。
《羅刹天》受け取ると、私の手を引いて、案内人の男の子の後を追い部屋に移動した。
私達は部屋に入り、少ない荷を下ろしていると
「寝る。部屋から出るな」
そう《羅刹天》は言い。外套を脱ぎ散らかして、寝台の上に倒れ込むようにして眠りしこんでしまっていた。半月もの間その腕に抱かれて旅をして、初めて《羅刹天》の寝顔を見た事に、妙な感慨を覚える。
客引きの子供も、その寝顔にじっと見入ってしまっている。眠っている《羅刹天》の漆黒の髪が白いシーツの上に零れ、河となっていた。
私は寝台へと近寄り、《羅刹天》の脱ぎ散らかした外套を畳む。そして、男の子に手伝ってもらい、その華奢な身体を引きずる様にして、寝台の上掛けをめくりそっとを横たえた。
東方の神官服である巫女服から覗く、伸びやかな四肢や白い肌は少し目に毒であったのか、男の子は少し顔を赤くしていた。
お礼を言うと、我に返った様子で男の子は部屋を出て行った。
少年は、部屋の戸口で一度振り返り、寝台に横たわる《羅刹天》にその目を奪われた。
私は《羅刹天》の髪を撫でながら、睨んでみせると、男の子は頬を耳まで赤く染め、急ぎ廊下を走り去っていった。
視線を手元に向けると、まるで死んでいるかのように静謐な寝顔が見える。
ゆっくりと呼吸する胸部の上にそっと触れる。このひとも生きているのだ。
「《羅刹天》さまは、罪作りなひとですね」
冗談めいた言葉を口に乗せると、触れている手が仄かな熱を帯びた。
私はその手を引き寄せ、胸元に寄せて呟いた。
「あなたは、何という名前を持っておられるのでしょうか」
いつの間にか私は《羅刹天》が眠っていた寝台の中に居た。
この上で眠っていたはずの彼女の姿は無い。
どうやらあのまま眠っていまい、起きた《羅刹天》に入れ替わる様にして寝かされていたらしい。
辺りを見回せば、すべすべした不思議な手触りの紙に書かれた書置きがされていた。
「少し出かける。誰が来ても開けずに、部屋から出ない事。食糧はテーブルの上に」
少し古風な表現もあるが、綺麗で事務的な文章はいかにも彼女らしかった。
(私の国の言葉もあのひとは書ける)
そんな事で嬉しくなる自分を不思議に思う。
寝入ってしまう前に触れた手に、仄かに宿った熱がまだそこにあるかのように温かい。
《羅刹天》は何時、出て行ったのだろうか?
部屋の暖炉の火は、奇妙な真っ黒になった木材が炎に降れている部分だけ赤熱し、柔らかい熱を放射している。
夜であっても交易都市は騒がしく、どれほど夜が更けたのか部屋の中からではわからない。
その時、柔らかな音が聞こえてきた。
吟遊詩人が歌う物語だろうか?
「孤独な鬼がいた
ふと自分がなんのためにここにいるのか考えた
鬼は旅を始めた
人とは違う、鬼として生まれた意味を見つけるために
七つの山を越えて四つの海を渡り、五つの大陸を踏破した
世界には沢山の脅威があった。強く孤独な鬼は、沢山の脅威を滅ぼしながら
世界の最果てにまで、独りきりで歩いていった
世界の最果てに辿り着いても、答えは見つからなかった
鬼は真っ黒な空を見上げた
空は輝く闇が煌めいていた
鬼は悲しくなった、私の命の証とは何だ
気がつくと鬼の周りには何も無かった
鬼はまた旅を始めた
自分の家に帰るために
もうきっと自分の家が無い事を知りながら
家は旅立った時のままだった
緑に呑まれることもなく
刻の風化に朽ちることもなく
家には明かりが点いていた
鬼が旅の途中で救った人々が、鬼の家をまもってくれていた
――答えはあった。いま、ここに
もう孤独ではなくなった鬼は、子供の様に泣きながら家に帰って行った」
胸が締め付けられるような、それでいて温かくなる様な不思議な物語の余韻に浸っていると、ふと頭の冷静な部分が囁いた。
何故、南の国の言語で唄われているのだろう?
心がざわつく。通りの喧噪が部屋の静けさを際立たせ、私の感じた違和感をどうしようもなくかき立てる。いつの間にか耳の痛くなる様な静けさが部屋を包んでいる事に気が付いた。外の音が遠のいていく。
《羅刹天》の書き付けを握る自分の手が、小さく震えている事に気が付いた。息が苦しくなる。
「……おや、意外に鋭いところがありますね」
周囲の闇の中から、淡々とした女性の声が響いてくる。
私は得体のしれない恐怖に身を震わせることしかできない。
「だ、誰?」
「姿を見せても?」
反射的な誰何の声に、丁寧な返答が帰ってくると少しだけ私は冷静さを取り戻す。
相手が何者なのかはわからないが、害意は感じない。
頷くと、暖炉が照らす柔らかな光の中に、滲むように少女が姿を現す。
年齢は私より少し下位だろうか?どこか野暮ったい長袖に、地味なスカート。膝上まである紺靴下。
《羅刹天》と同じ黒く艶やかな髪は三つ編みとなって揺れている。その背に非実態の八翼。合計十六枚もの蒼白い羽が広がる。
ゆっくりと緋色の眼が開けられる。知っている、私は眼の前の存在が何者なのか知っていた。
恐らく、人類で目の前の存在を知らないものはいないだろう。
魔神序列第二位、《塔の魔神》
最上位魔神の一柱にして、この世界の創世に関わった極魔
理屈抜きに分かる。彼女こそがそうなのだと。
「こんばんは。夜分遅く失礼します」
「は、はい」
魔神との会話は常に死が付き纏うとされる。はずれを引けばそこで終わり。
そう知っていても、何故か混乱は小さかった。先程の唄の余韻がまだ残っているかのように、何処か現実味が薄い。
「さて、先程の唄が聴こえたようですが、実は唄にしていない最後の結末があります。それが何かお判りでしょうか?」
「最後の結末……?」
魔神の謎かけの様な言葉に首を傾げると、何処か《羅刹天》に似た闇を湛える緋色の眼を瞬かせ、ほんの少しだけ空気を和らげた。
「定命の者にはピンと来ないかも知れませんね」
定命の者とは、寿命を持つ生き物を指す事は知っている。という事は、先程の物語には定命を持たない存在が混じっている事を示唆しているのだろうか?
登場人物は鬼と鬼が助けた人々だけ。しかし鬼という存在は私が知る魔物であるなら死なない存在ではないし、寿命もそう人間と変わらない。
不意に脳裏に《羅刹天》の姿が閃いた。そうだ、あのひとは数百年以上生きている。
あの人は旅の終わりに無命の森に住処を構えた。何もないあの不毛の地に……
「影楼を泣かさないでください」
そういうと《塔の魔神》の姿は消え、周囲の違和感も消えていく。
私は呆然としたまま、その言葉の意味を理解できずにいた。