無命の森
不意に、魔神の気配がした。とてつもなく遠いが、それでも物質界に顕現した魔神には、時間や距離はあまり役に立たない。
既に出立してから半日が経過していた。もうすぐ日が完全に落ちる。
限りなく低い確率とはいえ、一人で歩いているならともかく、人間種である王女を連れている今、輝く闇の中で魔神と遭遇したくはない。
新月は過ぎている以上、遭遇が死を意味するわけではないが、通り過ぎただけで人間種程度を殺す位はやって見せるのが大半だ。
相手は歩く災厄なのだから。
とはいえ、今日の夜は泊まる場所のあてはある。野宿でないなら危険はないはずだ。
《屍鬼》の足なら一日で森を抜け、町まで踏破する事も可能だが、王女には不可能だ。
故に、道程途中に休めそうな場所などは最初から目星をつけていた。
正直な所、彼女が一生懸命此方に速度を合わせようとしているのはよくわかる。
しかしながら、急ぐ旅だ。初動で補足されていないのは運がいいが、此処で距離を稼げなければ厳しい。
結局半刻も経たずに、私はその細い身体に右腕を回して抱き上げる。左手で抱え込むようにすれば、右手を使うのに不便はない。
「ら、《羅刹天》さまっ!?」
「これで善し」
強引に抱き上げたので、王女がかぶったフードがずれた。真っ赤になった王女が、どもりながら抗議の声をあげるので、しっかりフードを被せなおしてやった。
くるくるを表情を変える青い眼が、灰色のフードに隠れる。もこもこした毛皮のコートと相まって、小さな王女の体はあつらえた様にこの腕に収まっている。
私も前衛にしては体格に恵まれている方ではないが、流石に成人するかしないか程度の箱入り娘よりはしっかりしている。
だというのに、何が不満なのか王女が落ち付かないという様に口を開く。
「わ、私は、まだ歩けます。《羅刹天》さまの、お手を煩わすわけには」
いや、無理だろう。
数歩で雪に埋まった足が引き抜けなくなり、罠にかかった小鳥の様にバタバタしていた王女だ。
歩けるというか、埋まれる。というのなら正しい。さて、意地を張られても面倒である。
何せ私はこの位置取りを標準としようと思っているのだ。
保護対象を気にしながら斬り合いとなると、動きにくいことこの上なし。
幸い私の戦闘方法は筋力を余り必要としない。こうしてしっかり持っておけば、片手だけでも使える型を中心に組み立てるだけで十分にやれる。
斬るに善し、守るに善し、旅の移動速度も上がりなお善し。全方位に善しなのだ。
論理では納得してくれそうにない。“斬る”で解決を図れない問題は苦手だというのに。
ここは逆に考えよう。考えるな、感じろ……
明鏡止水の如く澄んだ思考を、流れに抗うことなくそのまま舌に乗せる。
「お前は、抱き心地が良い」
変態か。
思わず心中で一人突っ込みが走るほど意味不明だった。
というか、これのフォローは無理だ。面倒くさい、もうこれを押し通そう。
「は?《羅刹天》さま、それはあの」
「善し、善し」
あやす様に意味のない適当な返事をしつつ、反論を封じる。
話が通じない相手だと呆れれば、諦めるだろう。
むしろ諦めてくれ。
私の祈りが通じたのか、大人しくなった王女にほっとする。
何故なら、もう追っ手の影がこの森に入った事を感知したから。
まぁ、勝手に死ぬだろう。
舞い散る霜の結晶が現れるとき、この森を進めるのは私だけなのだから。
無命の森に入るのは、追っ手である霜の手にとっても生まれて初めてのことだった。
無限に降り続ける雪は、悪路に慣れた霜の手の脚ですら厳しい。
それに加えて、時折吹く風が体力を恐ろしい速度で削り取ってゆく。
霜の手は、密偵として大陸中を飛び回っていたが、その霜の手にすら立ち入れない場所も少なくなかった。
その一つがこの森だ。
雪にも慣れない処か、温室育ちの王女の足では、たった一晩で霜の帝国の首都、鉄の都から遠くまで逃げれるはずもない。
馬を奪ったとしても、街道を使えば誰かの眼に必ず止まる。それでも姿がかき消すようになくなったからには、この森に入ったのだとしか考えられない。
急がなければ。
無命の森には恐るべき守護者《羅刹天》がいた。
そして彼女は、霜の帝国の人間ですら容赦なく斬り捨てる。
冬至祭の知らせを持って森に入った使者の、書状と首を持って城に現れた《羅刹天》の姿は未だ目に焼き付いている。
この世のものとは思えぬ幽玄の美を纏った、華奢な少女であった。
彼女はあたりの騒乱に動じることなく、自ら斬り殺した死者の首をランタンの様に掲げ、霜の皇帝にこういったのだ。
「招きに応じ、来た。これが証だ」
凄惨な程澄んだ夜明け色の眼が忘れられない。彼女は人間如きの生き死になど頓着しないのだと、見ただけで理解できる。
その首には、総合で小さな国が帰るほどの賞金がかかっているが、かけた国が全て残っていないという笑えない逸話まである。
数百年もの間、賞金首やら冒険者やら、差し向けられた特殊部隊やら精鋭騎士を、全て殺の一文字で応えた悪鬼なのだ。
そして、森に何があるのか。どこに凍らぬ水場があり、《無限奈落》への入り口がどこに在るのか。
《羅刹天》が、どこに居を構えているのか。
それを知るのも、《羅刹天》のみなのだ。
無命の森に、《羅刹天》の許し無しに入るなどは無謀なこと。
此処は常に死地なのだ。
それでも、この森に入ることが出来るのは自分だけだ。霜の手には、そのことも分っていた。
今の時代、数々の逸話を知る、高位冒険者が《羅刹天》に挑む愚を犯すことはない。
《悪鬼都市》の今もなお、最強の悪鬼である彼女は、悪魔すら斬る。
列強諸国すら恐れる悪鬼の領域に挑むなど、自殺志願者か自分以外存在しないだろう。
今回ばかりは、生きては帰れまい。霜の手は覚悟を決めていた。
これが最後の任務になるという事を。
気が付けば、私は眠りに落ちていた。
私を包む暖かい揺り籠は、揺ぎ無い調べの様な安心感を与えてくれる。
悪鬼を名乗り、血煙けぶる修羅場を歩んできたはずの《羅刹天》の胸はとても温かい。
私が目を醒ましたことに気が付き、僅かに眼を細めると、そっと伸ばされた白魚の様な指が頬を撫でる。
……羅刹天さま、と。私の唇が形を結ぶ。
「何が望みだ」
私が何かの用で名前を呼んだのだと解釈した《羅刹天》が、菫色の眼をこちらに向けた。
まるで幼子が母の名を呼ぶかのように、勝手に唇が呼んでしまったのだという事も告げれずにぐずぐずしていると、《羅刹天》は何かを読み取ったかのように頷く。
そして何処からか、焼き固められ、薄紫のクリームを挟んだ長方形のビスケットを私に差し出す。
物を食べたいという気は起きなかったが、口元に差し出されたそれから漂う、香ばしさと甘い香りに誘われる様に口にする。
美味しい。何故か凍っていない、酸味の少ないベリーで作られたクリームと、ライトミールの様な素材で作られたビスケット生地が食欲を刺激する。
もそもそと食べ終えると、不凍の魔法がかかっている革の水筒が差し出される。
飲み終えて礼を言うと、何処か満足そうに《羅刹天》は頷き、再び視線を輝く闇に向けるのだった。
空も森も、大地も、見えるものは何もない。世界は銀色に光り輝いていた。
銀の光に幻惑される視界の中で、《羅刹天》と私だけがしっかりと確かめれるものだった。
「霧氷の刻という。空気中の水蒸気が昇華する事で起こる……らしいが、私も聴いただけだ。要は、視覚以外の知覚方法を使えば良い」
《羅刹天》は銀の闇を恐れることなく、新雪のみが覆う大地を、滑る様に容易く踏破していく。
流れる銀の世界に目を丸くしている私を「善し、善し」とまるで赤子をあやす様に腕を揺する。
そうされると、この森に辿り着くまでの疲労がまだ抜けきっていない事が理解でき、同時に瞼が下がってくる。
抗う事が出来ない温もりに包まれ、私は再び目を閉じたのだった。