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王女と屍鬼

 ぱちぱちと、炉にくべた乾木がはぜる音が響くいていた。


 頬に触れるのは、ふかふかの敷布。

 木造の小屋なのだろう、暖炉から洩れる優しい灯りが辺りを温かく染めていた。


 私は、部屋に一つだけある寝台の上に居ることが分かった。

 ゆっくりと身体を起こすと、意識がはっきりとしてくる。


 私は霜の帝国から逃げ出したのだった。


 しかし、この凍土からの脱出は、私の考えで成し遂げられるほど、容易いことではない事は分かっていた。

 地下遺跡から湧き出る怪物や、アンデッドが跋扈する《悪鬼都市》と、人類の侵入を固く拒む霊峰に囲まれた霜の帝国からは、屈強な兵士でも抜け出すことが難しい。

 ましてや、旅の準備どころか冬の山を超える体力すらない私では、取れる選択肢など知れていた。


 たった一つ残された可能性。

 それは、霜の帝国の精鋭達ですら立ち入ることを許されない《無命の森》を西に抜けて、霊峰が連なる隙間を縫う様にして南に向かう事だけだ。


 故郷へと。

 ただ、必死に歩みを進める私は、すぐに力尽きた。

 乗ってきた馬は、一夜の吹雪で冷たくなった。


 霜の王国の西に広がる《無命の森》此処を守護するは、屍鬼の鬼神《羅刹天》

 かの鬼神は立ち入るもの全てを斬る、恐ろしい守護者だと聴いてはいた。それでも私にはもう時間が無かった。

 春の訪れと共に、私は霜の帝国の皇帝と無理やり婚姻させられることが決まっているのだ。


 霜の皇帝は、故郷から侍女を連れてくることを許さなかった。

 私は、異国の言葉を話す者達だけに囲まれる生活を強いられていた。


 霜の皇帝は、あらゆる国の言葉に通じていた。私の故郷の言葉も。

 ここで一番憎むべき人が、わたしの言葉を一番解する人間なのだ。此処まで露骨だと私にでもわかる

 皇帝は私を徹底的に孤立させ、私が縋りつけるものを自分だけにする気なのだ。


 そうなってしまうならば、かの鬼神に斬られる方がむしろ救いがあると思えた。

 私は私の国の王女として死ねるのだ。霜の帝国の戦利品として、皇帝に奉仕を強要される日々より幾らかマシではないのか。


 でも、現実はより厳しい。

 無命の森に足を踏み入れてすぐに、私の足は止まった。

 雪の上に両手をついてうずくまる。


 立ち上がる力は、とうに無くなっていた。

 森の守護者である《羅刹天》に出会う以前の問題だった。

 凄まじい冷気が、命そのものを冷やしていくよう。

 なるほど、此処は無命の森なのだと理解した。此処には生き物は生存することが出来ない。

 そんなことを思いながら、私は眼を閉じたのだ。







 眼の前では火が燃えている。部屋の中はとても暖かい。

 辺りを見回せば、大弓やグレイヴなど、様々な武具が置かれているのが見えた。

 しかし、家具と言えば小さな卓と椅子があるくらいだった。

 その椅子に、自分の服と腰帯が掛かっている。そこまで認識して、今の自分の格好が気になった。

 気付くと、自分が身につけているのは、綿衣で作られた薄着だった。勿論こんなものは持ち物にない。

 誰かが着替えさせてくれたのは間違いないだろう。


 その時、扉が開いて誰かが部屋に入ってきた。


 ぞっとするほど澄んだ眼をした女性だった。濡羽色の長髪に菫色の眼。そして白と赤の奇妙な服。

 確か遥か東に伝わる女性用の神官服だったはずだ。歳は私より少し上、十六か十七歳位に見える。

 しかし無命の森に居を構える者が、見た目通りの存在であるはずがない。


 ――《羅刹天》だ。


 そもそも、かの鬼神以外がこの森で暮らせる訳もなかった。

 人が持ち得ぬ幽玄の美を纏い、死者の眼を持ち、その影からは底冷えがする程の魔力が幽かに立ち昇っている。

 戦い事の才覚のない私でも分かるほど、人の領域を逸脱した存在であった。


 《羅刹天》が、私を着替えさせてくれたのだろうか?

 殺戮の鬼神が?そう考えた瞬間、背筋に冷たい物が走ったが、なんとなく悍ましい事をされた感じはなかった。

 何というか、噂では血に飢えた悪鬼の様に語られているが、実際に見る《羅刹天》はとても落ち着いた存在に見える


 《羅刹天》は薪の束を床に下ろすと、ゆっくりと私の方へと近づいた。

 足音がしないのは、もうそういう存在なのであると納得する。


「《羅刹天》さま、私のことを助けてくれたのですか?」


 首を横に振った《羅刹天》は、寝台の端に腰をして私の顔を覗き込んだ。

 夜明けの色をした瞳は、何の光も映していない様に思え、見ているとその深淵に呑み込まれてしまう様な錯覚に陥る。

 この美しい鬼神に斬られるなら、それはとても素敵な事の様にすら思われてくる程に。


「お前は、滅びし南の国の王女」


 《羅刹天》は、私が誰か知っているのだ。霜の帝国が手に入れた、南の地の王女だと。

 ああ、だからこのひとは私を斬らなかったのだ。私を皇帝に引き渡すために。

 このひとに霜の帝国へ連れ戻されるのだ、あの冷たい鉄の城に。


 死神にすらそっぽを向かれたのだと気が付くと、いつの間にか溢れだした涙が頬を伝い、寝台へとこぼれ落ちた。

 逃げようにも、無命の森に這う命全ての音を聴く《羅刹天》から逃げられるわけもない。


 私を観察していた《羅刹天》が息を飲む様に動きを止める。

 こちらに向かって伸ばそうとした手が、途中で止まっていた。

 その様子はまるで戸惑っているかのようにすら見えた。


 彼女は逡巡したような仕草の後に、すっかり乾いた私の服と、腰帯を手に取り、それを私に着せた。

 予想もしなかった《羅刹天》の行動に、私は目をまるくする。


 それから何処からか、もこもこしたコートを取り出すとそれを私に被せ、髪を手に取って痛まない様に櫛を入れる。

 終わると、慎重な手つきでひとつひとつ丁寧に、腰帯の留め具をとめていた。

 全てを終えると、彼女はいきなり私を抱き上げ、寝台の上に乗せる。

 優しく上掛けで私をしっかりと包み込むと、夜明け色の眼で私見つめ、静かに言った。


「……何が望みだ」


 何故か私には分かった。それが精一杯の優しさを込めた声だという事が。

 《羅刹天》はたった一言で私の涙を止めてしまったのだ。

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