屍鬼
棺の中で私は目を覚ました。
「影楼」
その言葉が、自分の名前だということは覚えているが、それ以外の全てが思い出せない。
自分が誰だったのかも、何故ここにいるのかも分からない。
動かすたびにきしむ身体をゆっくりと揉み解しながら、周囲を見回す。ひとしきり身体の凝りがほぐれると、首からかけられた古びた太陽神の印を外した。死者に太陽神の聖印を添えるのは、《悪鬼都市》に伝わるアンデッド除けのまじないだ。
私が納められた棺を漁り、身なりを整える。棺の中にあった長櫃を開けると、そこには巫女服と一振りの刀があった。黒い下地に黒糸巻の一貫巻。飾り気のない黒鞘に収まった刃を抜けば、それは身体の一部だったかのようにしっくりと馴染む。
刃に映る私の蒼白い肌にほんのりと朱が差す。長い黒髪、そして菫色の眼を持つ、華奢な少女の躰。
これは私だ。そう認識した瞬間、躰の底から力が湧き出してくるのを感じた。
悪鬼の力。
かつて馴染んだ力。これからも必要になるであろう力。
だが、まだ足りない。私は、隣の寝台に横たわる死体とその遺品を漁る。
「その武具と服……全て拝借させて貰う。今のままでは、余りにも足りないのだ」
暴風雪の夜に蘇った私は、死人からその力と衣服を奪い、凍てつく奥津城を後にした。
冬の森を埋め尽くす音。それは、雪の上に雪片が重なっていく音だ。
ひとつひとつは無音に近いその音が、幾千幾万重り合い、森中を埋め尽くす壮大な調べを奏でる。
そして見える光景は、夜であるにもかかわらず、新月の夜以外は明かりが必要ない世界だ。
生物の動く気配のない、静止した世界で唯一動くものが雪であり、奏でる調べもまた雪であった。
《悪鬼都市》から遥か北に存在する不毛の地。此処より北は無限奈落。魔神の一柱《疫病神》カパラの領域であり、いかなる生物も生存することは不可能である。
その無限奈落から溢れ出る瘴気は、生物にとっては猛毒であるが、そもそもこの地には、遥か昔に凍て付いた針葉樹林の死骸が影を創るだけの土地だ。
消えそうに、ゆっくりと、孤影を描く様に。永遠に続くかのように。
それらは、静かに流れる。
雪は凍て付いた針葉樹林の上にただ降り積もり、そして一定量が蓄積すれば、幻の様に溶けて消える。
決して温度による融解が起こるわけではない。文字通り消えるのだ。そして再び天より舞い降りふり積もる。
まさに不毛の天地だ。
《屍鬼》が微睡むに相応しい、始まりも終わりもない場所。
いつしか私は、疫病神の無限奈落と物質界の境界を護る鬼。そう認識されてしまっていた。
実際にはただ、此処に住み着いているだけだったのだが。
二百年程前に《霜の帝国》が私をこの地の守護者である。と宣言してからは、そうなってしまっていた。勝手に守護者であるなどと吹聴されている事も、羅刹天などと呼び拝む聖職者共も、私とこの地にとっては遠い出来事だ。
寄らば斬る。見れば斬る。聴けば斬る。しかし、新月の夜に出会えば斬らない。
別にたいそうな理由ではない。魔神との遭遇を避けるためだ。
新月の夜は魔神の世界。歩く死者である私も、大人しく過ごす。それがこの世界の掟だ。
私は独りで、この地に揺蕩う。
新月の冬の空。真なる闇に浮かぶ白銀の森に足を踏み出す。
侵入した生者の立てる物音を、《屍鬼》が聞き逃すことはない。
常に新雪で満たされるこの地は、特殊な歩行方法を持たない生物には動きにくい。
間もなく私は、凍土に迷い込んだ生き物の足跡を捕捉する
「人類、それも人間……か?」
思ったより小さな足跡だ。子供、それも成人して間もない程度。十五か十六歳辺りだろうか。
外見だけならば、私と同じ程度の年齢であろう。足跡の深さから、この森を抜けるだけの防寒の備えを所持していないと思われた。
放置すれば勝手に死ぬ。死ねば後は、無限奈落から吹く瘴気が、魂と死体を喰らいに来る。私が何かする必要は無い。
放っておくか。しかし、奈落の瘴気に侵入者の死体が喰われれば、この地を彷徨う死体が一つ増えるかも知れない。それはそれで面倒だし、僅かながら憐れにも思える。せめて荼毘に附してやるとしよう。
今日の私は少々淑女的だ。
追っていた足跡が途切れる。
降り続く、粉のような雪片。
私の目の前に何かが倒れている。
予想通り人間の少女だ。黒色熊の毛皮で作られた外套は暖かいが、この極寒の森に耐えうるものではない。フードから零れる黄金の長い髪が、新月の闇の中で雪明かりをうけ、僅かに煌めく。その横顔も、雪と同じ色になっていた。
直ぐにでも私のねぐらまで運び、温めてやらねば命に係わる可能性があるが、そこまでは問題はない。
問題があるとすればそれは
「見たことがある顔だ」
不味い事にこの顔を、私は知っていた。
去年の暮、霜の帝国で行われた冬至祭。わざわざこんな不毛の地の屍鬼に、命懸けで招待状を届けに来た者がいた。
招かれれば行こうという気にもなる。確固たる信念があって此処にいるわけでもなし、呼ばれれば行く程度。国賓席に置物となっているだけではあるが、その時に見た顔だ。
確か、霜の帝国が破った南方の王国の王女だったはずだ。
打ち破った国の最後の王族で、役目は霜の帝国の頂点に座す皇帝の子を産むことだ。
征服したはいいが、遠い国だ。支配する大義名分としてその国の王族の血を引く子が必要、といった感じだったと覚えている。
それが、いまこの森で、雪に埋もれている。
《屍鬼》である私が取るべき行動は、新月の夜でなければ簡単だった。
しかし今日は新月。この王女は幸運なのか不運なのか。
新月に《屍鬼》と出会うのは、魔女の呪いか、それとも魔神の加護か……そこまで考え、首を振る。
魔神が庇護する者だとしたら、霜の帝国の人間程度に捕まるはずもない。
何はともあれ斬らないのであれば、王女が死者になる前に何とかするべきだろう。
新月は今夜だけなのだから。不味そうなら明日以降に斬ればいいだけだ。
手袋を外し、白い頬にそっと指で触れる。温かい、やはりまだ生きている。
王女の小さな体を抱き上げる。黄金の髪にのった粉雪を払ってやりつつ思う。
面倒なことになったな。と