触手接近注意報
Twitterで思い付きで書いてたら、なんか止められなくなって最後まで書き上げてしまったものに、導入部を付け加えたもの。
4時間の間、何やっているのだろうと思いながら書き続けました。
月曜日の朝と言うものは実に憂鬱なものだ。
これから一週間、がっちりと働かなければならないと考えるだけで、頭が痛くなる。
「むにゅ……朝か……」
紗矢乃が目を覚まし時計を見ると、午前七時半を示していた。
のそのそと布団から起き上がり、仕事へ出かける準備をする。
まったく、化粧だの身だしなみだの服装だの、女は大変だ。何でこんな面倒なことをしなければならないのだろう。
そう思いながら化粧をしていると、ふと、今日の予定を思い出した。
「あ、しまった、今日八時半から会議だった!」
時計を見ると、既に八時十五分を示していた。
「ヤバい、遅刻する!」
あわててかばんを持ち、玄関に飛び出す。
ポストを靴を履いて玄関から出ようとした瞬間、ドアのポストに何か入っているのが見えた。
白い一枚の紙切れ。「新規防犯システム夜間使用のお知らせ」と書かれている。
が、どうせ工事か何かで関係ないだろうと思い、そのチラシを玄関の靴箱の上に置いた。
それよりも、時間がない。走っていけば、何とか間に合うか。
紗矢乃は、玄関から出て鍵を閉めると、アパートの廊下を走って行った。
紗矢乃は夜八時に仕事が終わったが、その後同僚と食事に行くことになり、家路についたのは、午後十時だった。
「ずいぶんと遅くなっちゃったな」
電灯で明るく照らされたオフィス街から五分ほど歩くと、すぐに薄暗い住宅街に入る。
そこから少し入ると、静かな住宅街を抜けて、一度少し大きな公園に入った。
平日の夜の公園は、ほとんど人がいない。いくつかの電灯の明かりと、自動販売機の明かりだけが、公園を明るく照らす。
この時間に女性一人で歩くのはどうなのだろう、と思ったがしょうがない。いざとなったら、大声を出して助けを求めよう。
そう思いながら公園を抜けようとすると、ぴちゃり、と水溜りを踏むような音がした。
何だろう、と思って下を向くと、水のようなものが落ちているのが分かった。
今日は雨など降っていないのだが、一体何の水だろう。
その水は、来た方向とは逆の住宅街へ向かうように落ちている。誰かが通った時に、何かの水が落ちたのだろうか。
「まあ、いいか。私には関係ないし」
そう思って、そのまま帰り道へ向かおうとした瞬間だった。
何かの気配がして、ふと後ろを振り向くと、うねうねした、細長いロープのようなものが、こちらに向かってくる。
直後、紗矢乃は直感した。「こいつは危険だ」と。
紗矢乃は逃げた。必死に逃げ出した。
何かを滴り落としながら、うねうねしたものは紗矢乃に迫ってくる。
「これは……触手!? 一体何?」
ポツリポツリとある街灯を頼りに走る。先ほどの水は、こいつから出てきたものか。
磯巾着のものくらいしか見たことがない触手。しかし、遥かに長い。
この触手は、一体何なのだろう。あまりにも急な出来事に、紗矢乃は逃げ出すしかなかった。
もっとしっかり見ておけば、何か対策が打てたかもしれない。しかし、そんな暇など、微塵もなかった。
公園では広すぎる。住宅街の方が、相手を捉えやすい。
まずは住宅街へ。紗矢乃は、夜の道を必死に走る。
公園を抜け、住宅街に入る。どこで迎え撃つか考えていると、正面からもう一本、同じような触手が飛んできた。
住宅街の十字路。逃げ道は、二か所。そのまま逃げてもよいが、どうせ追いかけてくる。ならば。
紗矢乃はかばんからカッターナイフを取り出し、先の刃を一本折った。まったく、会議で使ったカッターがこんなところで役に立つとは。
どちらでも叩き斬れば、動かなくなるかもしれない。そうしたら、動かなくなった方から逃げる。
いざというときの逃げ道は確保してある。紗矢乃はカッターを構えた
街灯は姿を消したが、満月が雲から現れ、優しくあたりを照らす。その明かりに反応するように、触手の動きが一瞬鈍る。
その隙を逃さぬように、紗矢乃は手に持ったカッターを、紗矢乃から近い背後の触手に向けて思いっきりぶつける。
刃に触れた触手は、そのスピードとともに切り裂かれていく。
切り裂いた先から奇妙な音を発する触手。休む間もなく、後ろを振り返る。
少し距離はあるが、後方からやってきた触手が徐々に接近してくる。
大丈夫だ、このカッターなら触手を切り裂ける。ならば、と紗矢乃は向かってくる触手の加速度を利用し、カッターの刃を触手に突き立てた。
突き立てた刃は、先ほどの触手とほぼ同じ場所、同じ角度で後方からの触手を捕らえた。
加えて、先ほどよりも早いスピードが、カッターの刃にのしかかる。
これなら余裕で切り裂ける。そう思ったが、当てられたカッターの刃は、触手の勢いに負け、そのまま宙へと吹っ飛んで行った。
何故? さっきはいとも簡単に切れたのに。
倒れこむ紗矢乃の前に、仕留め損ねた触手の先がうねうねと唸る。
それを前にして後ずさりをしていると、道路にチャリン、と音がした。
目の前の触手に恐怖しながらも、その音のした方向を見ると、先ほどのカッターの刃が落ちていた。
錆びている!?
まさか、さっき触手を切り裂いたときに?
このうねうねとうなる触手から溢れ出す、怪しい粘液には、金属を腐食させる効果でもあるというのか。
立ち上がって逃げる。それが最善の策だろう。
しかし、後ずさりしながら後方へ逃げようとした紗矢乃は、足をとられて転んでしまった。
気が付けば、先ほど倒した触手の粘液が、道路一面に広がっている。立ち上がろうとしても、この粘液で滑って立ち上がれない。
どうしようもない状況で、再び紗矢乃は粘液にまみれながら、何とか触手から逃れようとする。
こうなったら声を挙げるか。しかし、どういうわけか、この触手、すぐには襲ってこない。
もしかしたら、声がスイッチとなって、急に襲い掛かってくるかもしれない。
絶体絶命。そう思った時だった。
「あれ、紗矢乃、どうしたの? こんなところでぐちょぐちょになって」
十字路の向こうから、女性の声がした。
声がした方向に目を向けると、そこには青いショートパンツに紺色のスーツを来た、ロングヘアのOLが立っていた。
月明かりでよくは見えないが、声で誰かは明らかだった。
「陽子、逃げて! そいつ、危険!」
紗矢乃は自分の状況も忘れ、立っている女性、陽子に向かって大声で叫んだ。
「え、ちょ、何それ?」
触手の存在に気が付いたのか、陽子は後ずさりを始める。
すると、触手の先は紗矢乃ではなく、陽子の方に狙いを定めた。
「ひぃ、来ないでぇぇぇ!」
思いっきり来た方向と反対に逃げる陽子。それを、触手が同等のスピードで追いかけていく。
紗矢乃はそれを見て、ふと思った。
この触手、どこに続いているのだろう。
なんとか粘液が無いところまで移動し、ゆっくりと立ち上がると、道の向こうを見つめた。
この先だ。触手の持ち主は、この先にいる。
紗矢乃は、触手が向かうのとは逆方向に、粘液を避けて走り出した。
途中、鉄の棒のようなものが落ちていたので、それを武器として携帯する。
たとえ粘液に触れれば錆びようとも、一撃くらいは与えられるだろう。
触手の先はまだ見えない。
数十メートル直線を走った途中の丁字路で、右方向に曲がる。その先に人影があり、その両手に触手がつながっていた。
まさか、化け物? こんな都会に、こんなものがいるなんて?
混乱しながらも、紗矢乃は持ってきた鉄の棒を構え、その人影に向かって走っていく。
「てめぇ、死ねえぇぇ!」
いつもの言葉遣いとは思えない声を思わず出しながら、紗矢乃は人影に向かって鉄の棒を振り下ろす。
ごつっ、と鈍い音がしたかと思うと、人影はばたりと倒れ込んだ。
「や、やったの?」
息を切らしながら、倒れた人影に近づく。両手の触手も、微動だにしない。
うつ伏せになっているので顔はよくわからない。明らかに紗矢乃よりも身長が高く、背格好からしてどうやら男性のようだ。
若干雲がかかって、月あかりが薄いために、服装までははっきりしないが、カッターシャツにジャージといった、外出用とは言えない服装だ。おまけに、サンダルを履いている。
家から出てきて、この場所でこんなことを? ということは、近所の人なのだろうか。
紗矢乃は、次に両手から生えている触手を見つめる。
無尽蔵と言ってもいいほど触手は伸びてきたが、一体、どのようにして触手を伸ばしたのだろうか。
ここで紗矢乃は、恐ろしいことに気が付いた。
「……! もう一本の触手!」
この人物が放っていた触手は、左右の手で二本。しかし、こちらと反対方向から来た触手が、この人物のものと考えるのは非現実的だ。
両手から触手を放っていた、ということは、倒した触手の持ち主も、もう片方の触手を飛ばしていた可能性が高い。
「陽子が危ない!?」
追いかけられていた触手はやっつけたものの、もしかしたらもう一方の触手にやられている可能性が高い。
紗矢乃は、触手人間を殴った鉄の棒を確認し、先ほど触手と戦った場所まで戻ることにした。
本体を殴ったので、鉄の棒は錆びてないようだ。これなら、武器に使える。
夜の住宅街を、元の道を正確に戻るというのはなかなか大変なことだが、今回は触手が倒れている方向へ向かえばよいだけなので、迷うことはなかった。
触手使いがいた場所からすぐの丁字路を左へ、そして直線数十メートル。
触手が左方向へ向かっている十字路の目の前に、粘液の水溜りがあった。
だが、予想外の出来事が、紗矢乃を恐怖へと突き落とす。
「触手が……ない!?」
粘液の水溜りを残して、確かに倒したはずの触手の残骸が消えていたのだ。
もしかしたら、触手の持ち主が、触手がやられたことに反応して回収したのかもしれない。
幸いなことに、触手が出した粘液の跡は残っている。紗矢乃は、その粘液の跡を追った。
大きな粘液の水溜りを避けるのには苦労したが、大半は道路の中心に垂れていたため、紗矢乃は道路の端の方を走った。
それにしても、あれだけの声を挙げたのに、住宅街の住人は誰一人出てこないとは、一体どういうことなのだろう。
疑問を持ちながらも、紗矢乃は走り続ける。
住宅街を抜け、夜の公園を、粘液の跡を追っていく。
相変わらず、人気のない公園には寂しさを感じる。しかし、今は粘液まみれの自分を見られずに済むのが好都合だ。
伸縮自在の触手使い。きっと、追いつめて見せる。
先ほどの触手の射程は、おそらく数百メートルと言ったところか。そんなに遠くないはずなのだが、今回は結構走っている気がする。
公園を抜け、再び住宅街に入った時、先ほどと似たような人影を見つけた。
見つけた。きっとあいつが犯人だ。
紗矢乃はぐっと鉄の棒を握りしめる。
「そこの奴っ! これまでだぁっ!」
またもや柄にも合わない声を挙げると、紗矢乃は鉄の棒を思いっきり振り上げ、人影の顔面に向かって力いっぱい振り下ろした。
ごつっ、という鈍い音。手応え有り。
念のため、紗矢乃はすっと人影との距離をとる。倒れるまでは、油断できない。
「はぁ、はぁ、や、やった……?」
しゅるしゅると物理法則を無視した触手を出す音は、一向に止む気配がない。
まさか、あれで倒れないなんて……?
恐ろしくなって後ずさりを始める紗矢乃。その瞬間、ガチャッという妙な音が響いた。
よく見ると、人影から伸ばしていた触手が無い。
「え、ま、まさか!?」
となると、先ほどの触手の伸縮音は、触手を収納する音だったのか。
そんなことを考えながら人影の方を見ると、触手の手の方向がこちらに向いていた。
「え、ちょ、ちょっと待ってよ!」
言うが早いか、先ほど見た触手が、紗矢乃に襲い掛かって来た。
「いやぁぁぁぁ!」
再び開始される、触手との鬼ごっこ。
とにかくどこかに隠れようと、住宅街に紛れ込む。
いくつもの十字路が組み合わされた住宅街。触手の射程範囲に限界があるなら、適当に曲がっていけば逃げられる。そう思い、ジグザグに逃げ惑う。
しかし、誘導ミサイルのごとく、触手は紗矢乃を追いかける。
どうしたら逃げられる? 夜の道、十字路の多い住宅街、触手の性質。今までのことを思い返す。
「……! そうだ!」
紗矢乃は何かを思い出すと、まずは十字路で左へと曲がった。
そして、足元にあった石を手に取り、すかさず反対方向に向けて投げた。
触手は音に反応している。これで、反対方向に行ってくれれば。
十字路から少し離れ、紗矢乃は様子を見る。
すると、触手は思った通り、紗矢乃とは反対方向へと向かって行った。
「ふぅ、なんとか逃げ切れた……か」
紗矢乃は右手で額の汗をぬぐうと、触手が戻ってこないうちに帰ろうとした。
しかし、反対方向に向こうとした瞬間、目の前に触手の先端の姿が現れた。
「え、ウソ、何で?」
音に反応するというのは、勘違いだったのか? 再び紗矢乃は触手から逃げた。
あれで逃げられないということは、もう手段はないということだろうか。
まてよ、あの触手、どのくらい伸びるのだろうか。無限ということはあるまい。
ともすれば、このまま逃げ続ければ、そのうち触手も尽きるはず。
いや、もしかしたらその前にこちらの体力が尽きるかもしれない。
「ん、まって、住宅街って……」
ふと何かを思いついた紗矢乃は、十字路を右に曲がって逃げた。
さらに見えた十字路を右へ。そしてさらに見えた十字路を右へ。
その道を直進する。
「見えたっ!」
月明かりだけが頼りの住宅街。その先には、右方向へ曲がる触手の姿。
紗矢乃は、さらに触手が進んでいる右側の道へと走っていく。ここは、先ほど紗矢のが石を投げた場所だ。
さらに触手が向かう右方向へ。粘液が垂れていて走りにくいが、何とか粘液が落ちていない場所を、触手を避けて走る。
こうして右折を繰り返すと、触手が二重になっている姿が見える。
そこをさらに右へ。二重の触手はさすがに避けづらいが、なんとか飛び越えて走る。
こうしてぐるぐると住宅の周りをまわり続ければ、いつか触手が絡まり、動けなくなるはず。
三重、四重と増えていく触手。まだ一向にスピードを落とす気配はない。
「この触手、上限ってのがないの? それとも、なんか途中で切れたりするの?」
誰も聞いていない文句を発しながら、壁をぬめぬめと動く触手を避け、紗矢乃は走る。内側だけを這ってくれているせいで、粘液が垂れずに済む。
もう少し、もう少しで絡まって動けなくなるはず。
そう思って、六週目に入った時だった。
「きゃっ!?」
今まで避けていた場所まで粘液の滴りが広がり、それに足を取られて紗矢乃は転んでしまった。
同時に、手に持っていた鉄の棒を手放してしまう。
なんとか鉄の棒まで手を伸ばし、立ち上がろうとして後ろを振り向いた瞬間、目の前に触手の先端の姿が見えた。
「え、ウソ、せっかくここまで頑張ったのに!?」
ゆっくりと後ずさるも、下は粘液。触手の先端がゆっくりと迫ってくる。
何度ももがくが、粘液で摩擦抵抗が減ってうまく動けない。
迫りくる触手。動けない体。唯一持っていた武器は、遥か向こう。
もうこれまでだ。このぬめぬめした触手にからめられたら、おそらくめちゃくちゃにされてしまう。
自分の人生は終わった。このぬめりけとともに。
紗矢乃は観念したように、ゆっくりと目を閉じた。
数秒、数十秒。何も起こらない。
そして一分が経っただろうか。紗矢乃はゆっくりと目を開けた。
そこには触手の先端。それは変わらない。
だが、触手は近寄ってくる気配がない。動こうとしても動けない。そんな感じである。
「え、もしかして……」
紗矢乃はゆっくりと移動し、粘液のない場所までたどり着くと、滑らないように立ち上がる。
やはり、触手は襲ってこない。
そのまま、鉄の棒が落ちている場所まで歩いていく。が、やはり触手は襲ってこない。
鉄の棒を手に取ったところで、紗矢乃は確信した。
作戦は、成功したのだ。
「や、やったの……?」
まともに見れなかった触手の先端をよく見ると、やはり苦しそうに細くなったり太くなったりしている。
壁に這っている五重の触手も、まったく動けないといった様子だ。
ざまあみろ。そう思いながら、紗矢乃は触手とは反対方向へと走って行った。
やっと帰れる、と思ったが、その前にやることがある。
触手の持ち主の退治。これだけは忘れてはならない。
怒り心頭に、走る足に力が入る。
こんなにべとべとにしやがって。この服、高かったんだぞ、と心の中で怒りながら、住宅街を抜けていく。
公園には、やはり誰もいない。うねうねとうなる触手だけが、公園の道を邪魔していた。
怒りに任せて無抵抗の触手を殴りたかったが、粘液で錆びてしまうと困る。現に、持っている部分は錆びかけていた。
怒りを抑えて公園を抜ける。
そして、触手の先を追うと、まだ人影が残っていた。
あれだけきつく巻かれているのならば、回収することも不可能だろう。
人影はかなり焦っているようで、何度も左手をうねうねと動かしていた。
そのたびに触手が動いて驚くが、なんてことはない。もはや、触手など敵ではない。
人影に向かって、全力ダッシュ。紗矢乃は、鉄の棒を振り上げた。
「こぉんのくっそやろうがぁぁぁ!」
今までなかった最高の汚い言葉を浴びせながら、紗矢乃は人影の頭めがけて鉄の棒を振り下ろす。
ごつっ、という鈍い音がしたが、そんなことは構わず、何度も何度も殴りつける。
「許さない! べとべとにしたこと、あの世で後悔しなさい!」
紗矢乃を止める者は誰もいない。気の住むまで殴り続ける。
警察が来るなら、それもよい。むしろ、警察が来て、早く止めてくらいだ。
理性などとっくに崩壊している。今紗矢乃にあるのは、破壊衝動のみ。
顔面、脇腹、足、そして触手を出す手。すべてを、所かまわず殴る。
殴り続けて何分、いや十分以上が過ぎただろうか。
さすがに殴り疲れて、紗矢乃は手にしていた鉄の棒を落とした。
目の前には、原型が無くなったのではないかと思うほどの人間の体。
顔面はぐちゃぐちゃで、内臓なんかも飛び出しており、誰もが吐き気を催す光景。
もはや、動く気配すらない。
終わった。すべて終わったのだ。
長かった、触手との戦闘。
紗矢乃は、後ろに一歩後ずさったあと、その場に崩れるように倒れた。
「これで、これでやっと帰れるんだ……」
倒れこんでふと公園の方を見ると、よく見た顔があった。陽子だ。
「さ、紗矢乃……?」
「陽子、よかった、無事だったんだね……」
何とか最後の気力を振り絞り、紗矢乃は起き上がる。
ふと陽子の方をみると、後ろの方に二人、人影が見える。
よく見ると、それは警察のようだった。誰かが呼んでくれたのだろう。
これで、本当に終わった。
隣には、ぐちゃぐちゃになった、おそらく死体となった人間がいるが、この際だ。正当防衛と主張しよう。
現に、こいつが出した触手のせいでひどい目に遭ったのだ。証拠の触手もあることだし、きっとこれで通用する。
紗矢乃が立ち上がると、警察は紗矢乃よりも先に倒れている人間を見て言った。
「えっと、これは君がやったのかね?」
ややぽっちゃりとした警官が、紗矢乃のを見つめる。
「あ、はい。でも、これは正当防衛で……」
「なんてことをしてくれたんだ!」
「え?」
思いがけない警察の言葉に、紗矢乃はぽかんと口を開けた。
「なんてことって」
紗矢乃も反論を試みる。
「彼がどういう人間か、知っててやったのか?」
ぽっちゃりとした警官が、完全に怒りモードで紗矢乃に迫ってきた。
「そ、そんなの知りません! ただ、そこの触手に襲われたから、二度とできないようにしようとしただけです!」
紗矢乃は語気を荒げて警官に言い放つ。
「紗矢乃、えっと、この触手、別に襲おうと思って紗矢乃に近づいたわけじゃないみたい」
興奮している紗矢乃に、陽子が近づいて言った。
「あんなに追い掛け回されて、襲われると思わないわけないじゃない!」
味方だと思っていた陽子まで、何を言うのだ、と紗矢乃はさらに興奮する。
「……あの、刑事さん、やっぱりこれ、知ってなきゃこうなるんじゃないですか? 私はたまたま、何も手を出さなかったですけど」
陽子は、もう一人の細い警察に言った。
「まあ、確かにテスト段階なのだが、それにしてもここまでやる人なんていないと思ってたからね」
陽子と警察のやり取りに紗矢乃は顔をしかめる。
「な、何なんですか一体、この触手が何だっていうんですか!」
ますます混乱する紗矢乃。
「とりあえず、説明するから、落ち着こうか」
そういうと、ぽっちゃりとした警官は、公園の自動販売機までジュースを買いに行った。
気が付けば、時刻は十一時を超えていた。
パトロールカー五台に救急車が二台、先ほどの触手人間のところにやって来て、ぼこぼこにされた触手人間を収容する。
同時に、長く伸びた触手も、何人かの警官の手によって回収されていた。
紗矢乃は、その妙な光景を公園のベンチで見ていた。
「ほれ、これでも飲んで」
ぽっちゃりとした警官が、紗矢乃にコーヒーを手渡す。
どうも、と言って紗矢乃がそれを受け取ると、プルタブを開けて一口飲んだ。
「で、あの触手人間って、一体何なのですか?」
先ほどよりは興奮が収まった様子だが、まだ紗矢乃の怒りは収まっていないようだ。
「あれは、だね。深夜徘徊している人間を捕獲するための、我々が開発した触手クローンなのだよ」
「は? 触手クローン?」
警官の説明に、紗矢乃は面食らって言葉が出なかった。危うく、缶コーヒーを落としそうになる。
「大丈夫かね?」
警官が、紗矢乃の缶コーヒーを抑える。
「最近、深夜に起こる犯罪が多くてね。ひったくりや誘拐、強盗や強姦なんかがね。それで、深夜にうろついている人間を、この触手クローンを使って捕獲しようというわけだ」
そういうと、警官は自分の手に持っていた缶コーヒーを開け、一口飲んだ。
「この触手に捕まった人間を事情聴取して、仕事や塾の帰りなんかであれば、そのまま住所を聞いて帰す。そうでなければ、すぐに警察で取り調べをする。そうやって、深夜の犯罪を無くそうというわけだ」
「でも、捕獲する人間って、犯罪者かただ帰ってる人か、わかりませんよね?」
紗矢乃が反論を試みる。
「それについては、あまり詳しくは言えないんだが」
警官は、一度言葉を切ってコーヒーに口をつけた。
「ただ帰るだけだったり、散歩するだけだったりする人間と、犯罪をしようとしてうろつく人間の足音は、実は違うんだ。その違いを、触手で聞き分けているわけだ」
なるほど、それで音に敏感だったわけか。
「ただ捕獲するだけなら、べとべとした粘液なんて、いらなかったのに」
「それは捕獲しやすくするためさ。我々が開発した特殊な粘液でね。ほら、もう乾いているだろ?」
「え? あ、本当だ」
気が付けば、先ほどまでべとべとした服が、既に乾いている。
「いやでも、金属を錆びさせるって、危ない薬品使ってるんじゃないですか?」
紗矢乃は、錆びたカッターの刃を思い出した。
「多分、薬品中に金属を腐食させる成分が含まれてたんだろう。金属は避けて通るようにしてたからね。まあ、人体には影響ないから、安心しなさい」
安心しなさい、と言われてもあまり納得はいってない。紗矢乃は、コーヒーを飲みながらもふくれっ面をしていた。
「そういうわけで、今回は触手クローンを使った実験を、この区域で行ったわけだよ。ほら、こういうチラシが入ってなかったかい?」
そういうと、警官は一枚のチラシを広げた。
「これは……あっ」
紗矢乃は、それを見ながら今朝のことを思い出した。
いつも玄関のポストはチェックするが、不要な案内やダイレクトメールだと、どうせ家にいないからと無視して放置する癖があった。
「新規防犯システム夜間使用のお知らせ」と書かれたチラシ。今日の朝、確かにポストから取り出して、玄関に置いたものだった。
そこには、「防犯システム作動中、ぬめぬめした触手が通りますので、ご注意ください」と書かれていた。
そうか、住宅街の住人は、これで知っていたのか。通りで、騒いでも誰も出てこないはずだ。
紗矢乃は、チラシを持ったままはぁ、とため息をついた。
「さて、君への処分だが」
ぽっちゃりした警官は一気に缶コーヒーを飲み干すと、近くのくずかごに入れて立ち上がった。
「あの触手クローンは、現在日本に三台しかない貴重なものなのだ。それを、そのうち二台も破壊してくれたのだから、かなり長い期間刑務所に入ってもらうことになるかな」
「へ?」
紗矢乃の顔がぽかんとなる。
「だって、私、知らずにあんなことを……」
「確かに、こちらがまったく情報を与えていなかったのなら、こちらに非があるのだろうが、今回はチラシでの注意、放送での注意、さらに会社にも報告をしているのだよ?」
「え、そんな、会社?」
「昼休みに、そういうお知らせは来なかったのかね? オフィス街に勤務してるなら、連絡があったはずだけど」
「その時間なら、寝てましたよ!」
「どちらにせよ、これだけの注意をしたにも関わらず、大変なものを壊してしまったのだから、言い逃れはできないね」
そういうと、警察は手錠を手にした。
「と、言うわけで、牧田紗矢乃さん、あなたを器物損壊の現行犯で逮捕します」
そういうと、警察は紗矢乃の手を取り、手錠をかけた。
「え、そんな、陽子、陽子も何か言ってよ!」
両手に手錠をかけられ、二人の警察に連行される紗矢乃。
「紗矢乃、ごめん。私には何もできない」
「そんな、あれは正当防衛なの! 陽子、助けてよ!」
紗矢乃の叫びが、深夜の公園に広がるが、その声は誰一人として心には響かない。
静かな風が吹くと、紗矢乃が落とした汗の一粒を吹き飛ばしていった。
翌日、触手クローンが破壊されたせいで、実験中止のチラシが、陽子たちの住む区域で投函された。
「紗矢乃、大丈夫かな」
そのチラシを見ながら、陽子は帰りの道を歩いていた。
幾重にも十字路が繰り返される住宅街。その迷路のような道路を、陽子は暗い夜道を一人歩く。
こつこつという足音。が、陽子は途中でその足音が二つになったことに気が付いた。
街灯が少ない住宅街。ほぼ月明かりしか、光源のない闇の世界。
振り返ってはいけない。そう思いながらも、陽子はその足音の正体を探るために、振り返ってしまった。
そこには、見知らぬ黒ずくめの男。そして、片手にはきらりと光る刃物。
男がそれを振り上げた瞬間、陽子は目をつぶって思った。
こんな時に、あの触手が助けに来てくれれば。
書いてる途中で落ちを作ったので、まさかこういう風になるとは思っていませんでした。こんな防犯システムはいやだ、的な。
最近は触手人間に思考回路をやられているようです。触手うねうね。




