第5話「神の力③ -逃走力-」
その巨大なサソリの威容を持ってすれば、群れを成していたものは霞の如きものであり、これほどの異様に相応しき言葉を当てはめるのならば、怪物、怪獣といった具合のものであろう。
身の丈が人の三倍というのは、あくまで神野から見た高さの事であり、体長という観点から見ればさらにその二倍以上に到達する。とてつもない存在感の前に、手榴弾の残した大穴も、巨体が地を割って現れた拍子にその痕跡を上書きされてしまっていた。果たしてどこまでが先程の大穴であったのか。隆起した土の領域が広がりすぎて、神野には判断がつかない。そも、大部分はオオサソリの腹の下にある。
「参ったなあ……せっかく見つけたのにまた見失っちまった……」
神野の軽口は恐怖の発露を誤魔化すものでしかない。現に、口の端はひきつり、半開きになったそこから漏れ出た声は泣いているかのように震えている。
神野の潤んだ目に映し出される怪物の姿かたち。それは確かにサソリと認識できるものではあったが、あまりにも異常過ぎたのだ。
元来、一本しかないはずの尾は根元から三つに別れ、一旦は空へとそびえ立つものの、中ほどから弧を描き、毒針を有した先端は地に向けられている。神野は咄嗟のことで空中落下していた時の状況を把握できていなかったが、その体を空中へ跳ね上げたのは他でもない、この内一本の仕業だった。
もう一つの特徴であるハサミは対が二つの計四本を有しており、それぞれが意思を持っているかのように奇妙にうごめいている。さらに、頭部には五対十個の単眼らしきものが居座っていて、そのどれもが神野の姿を赤外線を通して捉えていた。口らしき箇所には牙のようなものまで生えており、これがサソリかと、神野は自らの知識を改めざるを得なかった。総じて、神野の感想はたった一つだ。誰か地球防衛軍呼んできてくれ。
当然、その願いが叶うことは無い。神野としてはなんとしてもこの危機を脱したいところであるが、短い時間で考えを巡らせて思い浮かんだのは、相手が常識外れの怪獣であることを当てにした割と投げやりな策だけだった。
「なぁ、ここって夕方まではただの平地だったよな?」
それはつまり、意思の疎通を図ることであり、対話である。
「どうやって隠れてたんだお前。掘り返した跡なんて毛程も無かったぞ。せっかくだから冥土の土産に教えてくれよ」
深緑に光る怪獣が黙々と地面を掘り返して潜っていき、さらにその痕跡を消すために他のサソリ共が土をならしていく様子を想像してしまい、半ば現実逃避気味の神野は奇妙な笑みすら浮かべていた。随分と歪な愛想笑いだったが、それでも精一杯歩み寄ろうとしていたのには違いない。だが、そんな神野の努力も虚しく、大サソリはキィキィと金属音を発しながらゆらゆらと尾を揺らし、ハサミを開閉する威嚇動作をとっている。問いに答える様子は無い。明らかに意思の疎通は不可能で、怪獣を懐柔する余地など微塵もなかった。
ならばどうするか。神野に取り得る手段は一つしかない。戦うは毛頭無謀、交渉は事実無駄、しからば三十六計逃げるが勝ち、という帰結に辿り着くは必然である。だがそれでも、神野の内にある想いがこの場に足を縫い止めさせている。
「あー……ところでさ、俺のシャンプーどこにいったか知らねえ?」
再び問うた神野に返ってきたのは答えではなく、ハサミの一本による斬撃だった。大きく口を開いた鋸刃が細身の体躯を挟み込もうと迫る。
「ひいっ!」
反射的にしゃがみ込んだ神野の頭上で、かち合ったハサミが凄まじい金属音をがなり立てた。きわどいタイミングで神野は命を拾ったが、これが普通の人間ならば頭頂部の毛髪はあえなく削り取られ、一匹の河童が誕生していただろう。いや、それどころか、不自然な噛み合わせで必要以上に重なり合っているハサミの力強さからして、髪の一房でも挟まれてしまえば、体ごと巻き取られ、捻じ切られていたかもしれない。まさに危機一髪。髪があったら死ぬところだった。
とはいえ、五体が無事に済んだところで心はそうもいかない。かろうじて押さえ込んでいた感情が爆発的に加速する。釣られる様に大サソリの動きも速度を増した。
「うっ、うおあああああああーーーッッ!!」
踵を返して脱兎の如く逃げ出した神野の悲鳴に呼応するかのように、四つのハサミが次々と襲いくる。それを回避し続ける神野の逃走は見事としか言い様がなかった。といっても、別段、柳の如く体を揺らして攻撃を受け流すような高等技術を披露しているわけではない。ごく単純に、大サソリの手が届く範囲から離れ続けているだけだ。ただ、その姿勢が素晴らしかった。
神野の背後では間断無くハサミがかち合う音が響き続け、時折勢い余ったそれらが地面を突き刺し、鈍い音を響かせている。通常なら、恐怖に駆られて一度や二度振り返ってしまうのが人の性だろう。けれども、神野の足取りはふらつくこともなく、ためらいの欠片も無く、後ろには一切振り向かない。ただ全力で真っ直ぐに走り続けている。いっそ清々しいまでに逃げに徹していた。
そんな風にして鬼ごっこは続く。
しかし、それも長く続かないであろう事は分かりきっていた。もとより、鬼のサイズが違いすぎるのだ。鬼の一歩は神野の十歩か二十歩か、例えるならば象と兎。いくら兎の足が速かろうと、象が戯れにその足を速めるだけで造作も無く踏み殺されるだろう。
が、この兎には知恵がある。亀にも負けない知恵がある。
神野は手の中で冷たい感触を伝えてくる手榴弾を強く握り締めた。起死回生の超攻撃力。それに気付いたとき、その顔には改心の笑みが浮かんでいた。あれだけ自分を恐れさせた爆発物も、今となってはなんと頼もしいことか。文明の力、その素晴らしさを心の底から感じながら、神野は安全ピンを抜き、カウントダウンを開始する。
───三、二、一、
振り向きもせず後ろ手に放り投げた卵型の物体が、大サソリの腹の下にもぐりこむ。
「ゼロッ!!」
神野の叫びとほぼ同時、爆音が鳴り響いて孵化の時は訪れた。破壊の波は大サソリの腹の下で荒れ狂い、触れるもの全てを容赦なく吹き飛ばしていく。二階建ての家屋ほどもある巨大な体躯のサソリですら例外無く、一瞬空に浮かされ、進んでいた勢いのままに小さな放物線を描いた。直後、腹で着地し、ドドドと山崩れの如き地すべり音が奏でられた。
「やったかッ!?」
ここに至ってようやく神野は顔を後ろに向けた。
擱座。そんな言葉が思い浮かび、安堵を覚えた神野は足を止め、顔だけでなく体全体でゆっくりと向き直る。
さしもの規格外の怪物であっても文明の力の前には膝をついてしまって、いや、つくというか、折れている。八足の内、神野から見て左前より三本、右前より二本があり得ない方向へと曲がってしまっていた。ところが、それでも尚大サソリは止まることなく、残った後ろ足とハサミを器用に動かして、ずりずり、ずりずりと巨体を引き摺るようにして酷くゆっくりと、しかし確実に神野へと近づいてきている。足を折ることはできたが、獲物を狙うその意思までもを折ることはできなかったらしい。
「マジかよ……どんだけ硬えんだ」
うへえ、とうめき声が漏れ出ていた。あれほどの爆発でさえ、大サソリの甲殻に対しては大した影響を与えていないようだ。神野の心が再びざわつき始める。
が、それでも十分な攻撃力だったことに変わりはない。少しでも足止めできれば黒の希望を探すには事足りる。逃げる内に随分と巣から離れてしまったようだが、今や巨大怪物の進行速度は神野が歩くのと同じ程度で、この分なら簡単に振り切れそうだ。
早速大サソリを迂回して巣に戻ろうとした神野だったが、ふとその足が止まる。
「そういえばコイツ地面から出てきたよな?下手すると背中に乗せたままなんじゃ……」
確かにその可能性はゼロではない。ゼロではないが、そうそう起こることでもない。怪獣の体は基本的にサソリを踏襲しており、丸みを帯びた胴体となっている。当然、上に何かが乗れば滑り落ちるはずだ。先程まで激しく体を上下させていたこともある。大サソリが地上に現れた際に乗ったままだったとしても、途中で振るい落とされた可能性の方が余程高いだろう。
しかし一般的な人間であれば、一度浮かんだ疑念は中々捨てきれないものだ。神野とて髪無しという異常は持つものの、一般的な人間であることに違いは無い。むしろ髪に関わることであれば、内に抱える疑心暗鬼、そのこだわりは一般を遙かに凌駕する。つまり、気になって気になって仕方が無い。嗚呼、サソリの丸みを帯びた体が俺を狂わせる。
神野は己が心の命じるままに大サソリの後方へと回った。そして、相も変わらずうっすらと緑に光る大サソリの背中をどうにかして確認しようと、あらん限りの力を振り絞って飛び上がった。
ひょっとすると、服を着てない分、動きやすくなっているのか。あるいは空気抵抗を受けない頭皮の影響が大きいのか。いつもよりも軽やかに動く体は、目論見どおり目的の高度に達し、大サソリの背を目視することに成功した。
「あっ」
マジかよ、と心中で神野は呟く。疑念は的中し、緑に発光する尻尾の付け根辺りに小さな黒い塊があるのを見てしまった。しかしそれも一瞬の事である。この暗がりの中では接近して確認しないことには確証も得られない。かといって、相手は手負いの獣。焦りを抱えた神野であっても、不用意に近づくのは出来る限り避けたかった。
「ああ、もう、ちくしょうっ!」
なので神野は再び飛んだ。ぴょんぴょんと何度も何度も跳ね飛んだ。やがて、予想外の事に気付く。空気抵抗が極端に減った形状の、つまりはつるっつるの頭皮が月光を反射してスポットライトのように地面を照らしていたのだ。
「これなら!」
などと意気込んだのも束の間、反射光も申し訳程度の明るさで期待するほどの効果は得られないとすぐに気付いてしまい、神野は再び落胆した。ああ、神がいないからこんなにも俺は泣きそうなのか、と神野は心中で嘆く。嘆くのだがやはり諦めはしなかった。飛び上がる度に頭の角度を変え、反射する光を大サソリに当てようと腐心する。
神野はひたらすらに飛んだ。飛び続けた。普段なら既に根を上げている程の運動量を超えても飛んだ。加えて、とてつもない集中力で頭を小刻みにかくかくと振り続けた。
それは傍から見て異様な光景だった。腰ミノだけ巻いた男が露出する局部も意に介さず、荒い息を吐きながら頭と小さな象さんをぶるんぶるん震わせているのだ。とてつもなく気味の悪い上下連動ヘッドバンキングである。加害者が見ていればまず間違いなく頭の心配をしていただろう。二重の意味で。
もっとも、ここで心配すべきは頭ではない。地に足が着いていない人間は往々にして足元をすくわれるものだ。そして、そういった比喩表現を見事なまでに体現するのが神野昇陽という男である。
果たして何度目の跳躍だったか。浮かんだままの神野の足に何かがぶつかり、文字通り足をすくい払われた神野の体は、空中で一瞬のうちに地面と水平になった。
「あ?」
痛みは感じなかった。感じたのは風だった。横向きになったまま足元へと目を向ければ、緑色に光る丸太のような物体が遠くへと過ぎ去っていく。突風を伴う程の勢いで大サソリの尻尾が振るわれたのだ。全力で飛び上がっていたおかげでで運よく足に掠った程度で済んだが、尻尾は全部で三本ある。二撃目が振るわれるであろうことは容易に予想できた。
しかして、その時は訪れる。
「ぐッ!」
腕を組んで即席の防御体制をとったが、巨木のような尻尾の一撃を受け止めることを考えれば気休めに過ぎない。腕と尾が触れ合った瞬間、めきめきと聞いたことの無い音が体内を走って脳に到達する。トラッカに轢かれた時の様に吹き飛ばされながら、これ絶対折れたな、とどこか他人事のように神野は思った。
しかし、命までも失うとは全く思えなかった。どこから来る自信なのか、神野自身でさえ明瞭に分かっていたわけではない。ただ漠然とそう感じていた。それが勘違いで無い事を証明するかのように、体はやはり思い通り軽快に動かせる。
空中で体勢を立て直し、両の足を地面に触れさせる。尾を受け止めた両手も、勢いのままに地面を削っていく足裏からもほとんど痛みを感じない。
即座に組んだ腕を解き、神野は前方を見据えた。残った三本目の尾が凄まじい勢いで迫ってきている。どう回避するか。思案した結果、神野は慣性に身をゆだねた。
後頭部だけは直接叩きつけられないように首に力を入れたまま、背面から地面に倒れこんだ。完全に仰向けに寝転んだ体勢になった所で、目前を巨大な尾が通り過ぎていく。ごおっと風を切る音が耳に残り、やがて異様に波打つ心音に上書きされていった。
「しのぎきった……」
安堵の息を漏らした神野は、小便まで漏らさなくて良かったと別の意味でも安堵していた。命に対する不安がなくとも、恐怖は相変わらず存在していたのだ。さらに言えば、恐怖の存在も相変わらず近くにいる。
慌てて飛び起き、再び神野は大サソリに目を向けた。
大サソリもまた神野に正対し、十個の単眼を向けている。尻尾が振り回されたのは、どうやらその場で回転したせいらしい。
「なんともまあ、器用なことで」
前足が使えない分はハサミを利用したのだろう。現に今も一歩、二歩とまるで人の腕のように扱って神野の方へ近づいてきている。コツを覚えたのか、先程よりも動きは滑らかだ。一方、本物の人の腕である神野のそれも、先程凄まじい衝撃を受けたにも関わらず、意識した通り自由に動いていた。
「はは、俺の腕も負けず劣らず硬えなあ……しかし、実際どうしたもんか」
その言葉を最後に、奇妙な沈黙が生まれた。
再び向き合って見詰め合う一人と一匹の間には凄絶な火花が散っている。片方は捕食を目的に、片方は黒い希望を目的に、引く様子は一切無い。神野は単に対応に苦慮して動けないだけだったが、大サソリもどういうわけか数歩動いたところで停止していた。