第2話「神の所在」
見渡す限りの地平線が広がる大地に佇み、素っ裸の男が一人困惑していた。
見るからに虚脱した様子で地平線の彼方に視線を投げかけ、呟く。
「どうしろってんだ……」
それは何度目の呟きだったのだろう。動くことさえ忘れ、ただ呆然と立ち尽くす。いつのまにか雨も止み、雲の合間からは太陽が見え始めていた。だが、空と違って男の現状に光が射す兆しは欠片も無かった。
「意味わかんねぇ……」
ぽたり、とあごの先から抜け毛と共に雫が落ち、足元の水溜りに波紋を作った。心ここに在らず。いや、在るには在るが、それを収める置き場がないと言ったところか。宙ぶらりん。例えるなら今の男の状況は波紋に揺られている抜け毛である。
それは比喩というだけではなく、事実でもあった。実際に揺れていたのだ。男はただ突っ立っていただけだが、確実に揺れていた。というかふらついていた。ふにゃふにゃと、風に吹かれる毛の如く。
「……地震?」
男の言葉は事態を表すには適当ではない。地震ではなく、地鳴り、である。それも地が揺れるほどの。音のする方向へと首を向けてみれば、地平線の彼方に煙の様な靄がかかっているのが見えた。そして、それは凄まじい勢いで近づいてくる。
しかしそれでも男はただ呆然と突っ立っていた。揺れに適応し、バランスが取れるようになったからとはいえ、いくらなんでも動じなさ過ぎだった。
そうやって時間を無為に潰し、男がその土煙の正体が車のような物だとはっきり肉眼で確認した瞬間、体は宙を舞っていた。その姿、まさに宙ぶらりん。空にたゆたう抜け毛の如し。
「どうしろってんだ……」
体ごと吹き飛ばされる程の衝突を受けたというのに、一体どこにそんな余裕があるのか、男は空中でまたもそう呟いた。
「あっ、なんか轢いちゃった?ヤバイなぁ。つい、居眠りしてしまった……」
そして男の言葉に合わせるように車の中で響いた言葉は物騒極まりなかった。だが、男の身に起こったことはその言葉が全てとも言える。ぶっちゃけ、車に轢かれて跳ね飛んだのだ。車、といってもそれは現代日本の車とは大分様子の異なる変な乗り物だった。
否、変というにはいささか言葉が過ぎる。現代日本で見慣れたもの、とは言い難いが同じような形状のものは存在していた。その名を、トラクターと言う。それでも変という言葉を当てはめるならば、それは性能によるものが大きい。農家の多い地域にお住まいの方はご存知の通り、トラクターと言うものは馬力はあるものの走行速度は極端に遅い。公道で前を走るトラクターに焦れ、対向車線にはみ出して追い抜いた経験のある者も多いだろう。だが、先ほど男を跳ね飛ばしたトラクターの速度は一般的なそれに比して凄まじく速い。それは吹き飛ばされる形で男自身が証明していた。いまだ男の体は中空にあるが、一体何メートルとばされているのやら。砲丸投げなら世界新記録が出そうである。
一方、トラクターは吹き飛んだ男を追い抜きつつも急制動をかけてしばらく進んだ所に止まる。だが、地鳴りは止んでいない。察するにエンジン音らしいが、いくらなんでもうるさ過ぎだと男は思った。べちゃり、と地面に叩きつけられながら。
そして、そのまま動かなくなった。直後、うるさい程に鳴り響いていたエンジン音が消え、辺りが静寂に包まれる。風も無く、鳥のさえずりも、獣の唸りも無く、男のうめき声すらない。さすがに死んでしまったのかもしれない。
最早身じろぎすらしない男には全く気付かない様子で、トラクターらしきものからのらりくらりと白いYシャツと、黒いズボンを着込んだサラリーマン風情の男が降りてきた。黒い髪に黒い瞳と、典型的な日本人男性だが端正な顔を持つその者は、きょろきょろと辺りを見回し、倒れ伏した男に気付いて切れ長の目を大きく見開き、焦った声を上げる。
「ってまさかアレ人間か!?本格的にヤバイ!おいッ!大丈夫かああーッ!?」
男は返事をしない。代わりに何か凶悪に曲がった腕だけを天に掲げて応えた。どうやら生きてはいたようだが、その腕は男の現状を如実に示していた。明らかに肘関節が一個多い。
「生きてるのかよ!?ていうかなにその腕!?」
トラクターの運転手は慌てて駆け寄り、しかしそんな必要は無いとでもいうように、吹き飛ばされた男は体をぐにゃぐにゃとさせたまま不自然に立ち上がる。その一種異様な光景に、ゾンビみたいだ、とトラクターの運転手、もとい交通事故の加害者は思った。見るからに気持ち悪いとしか言いようが無い。普通なら思わず足を止めた所で致し方なし、と言った所だが、それでも加害者は焦った顔を崩すことなく駆け寄る足を止めなかった。轢かれた方も轢かれた方だが、轢いた方もとんだ常識外れのようである。
その常識外れの二人が顔を赤くして間近で対面した。一人は血に濡れ泥にまみれて、一人は力の限り走り息を切らして。
「だっ、大丈夫、か…!?」
「うん?ああ。不思議な事に何故か痛みがねぇ。この程度で済むなんて、なんつーか、奇跡的だよなぁ」
「えっ、ああ、そう、なの…?」
これはもうダメかも分からんね、と加害者は小さく呟いた。明らかに末期のそれである。男はちょっと躓いて転んだぐらいに軽く言うが、状況は最悪だ。加害者は沈痛な面持ちを浮かべると、すぐさま頭を地にこすり付けた。びちゃり、という音が鳴る。それは果たして、雨にぬれ、水溜りが残ったままであったためなのか、漢の血に染まっていたからなのか。
「すまない!」
「えっ?ああ。いや、いいって。なんかまだ生きてるしな」
いやいや、と困った様子で男は不自然に曲がった腕をぐにゃぐにゃと振った。さらに男は立ち上がってはいるものの、足首が異様な方向に折れ曲がり、足の裏は外向きになってくるぶしで接地していた。加えて、脛の辺りにも新しい膝が出来ていた。ちらりとそれを目にし、またもゾンビ、という言葉が加害者の頭に浮かぶ。この状況で町から離れたこの場所。助ける手段は無い。最早一刻の猶予もないだろう。
「本当にすまない!」
「そこまでするこたねーって。ほら、なんとも無かったんだし、終わり良ければ全て良しって言うだろ?」
確かにこのままでは男の命が終わってしまう。容姿から類推できてはいたものの、それが良いとはなんと豪胆な漢だと、地に頭をつけたまま加害者は感じ入る。
「しかし不始末は不始末!必ず詫びはする!是非名前を聞かせて欲しい!」
墓碑に刻むために。という言葉は敢えて飲み込んだ。この漢らしい男の生き様に泥を塗るような真似はしたくなかったのだろう。だが、それはただの勘違いだった。
「いやいや、あのさ、俺本当に大丈夫なんだよ」
「けど!明らかに重症の!」
がばっと地に伏せていた頭を上げ、加害者は目を丸くした。数秒前までひん曲がっていたはずの足首も、腕も、血だらけだった体も、何事もなかったかのように平常になっていたのだ。
目をぱちくりとさせた加害者と男は視線を交わす。
「な?どこも怪我してないっぽいだろ?」
「えーと……」
人を引いた事実の重さに気をやられて幻覚でも見ていたのだろうか、と加害者は目を擦りながら何度も何度も男の体を確認した。だが、やはり傷跡の欠片も無い。体中見渡せるため、それが尚のことよく分かった。
そしてある事実に気付く。
気付いた事実が事実だっただけに、やはり自分は気が動転していただけなのだと加害者は思った。ゆっくりと立ち上がり、指を差す。
「なぁ、あんた。その頭……」
「頭?」
言われて男は頭頂部に手をやった。ぺたり、と指先から手の平が順に触れる。今まで味わったことの無い、なんとも触り心地の良い感触だった。普段の心もとない減少した髪の感触とは雲泥の差である。思わず手を左右に擦ってしまう。つるつる、と。
「な、ん、だ、と」
頭に手を置いたまま、男はぶるぶると体を振るわせた。さもあらん。加害者の男は再び沈痛な面持ちで俯く。
「お、おおお……おおおおおおおお!!この世には神も仏も無いのか!!」
確かに髪は無い。
完全につるっつるなのだ。しかも頭だけではない。全身が、だ。勿論のこと、玉々もつるっつるである。
先ほどの加害者が感じた威容もなんのその、男はがっくりとその場に両手両膝を着き、嘆きの声を上げた。
「なんでっ!なんでだよ!さっきまで確かにあったはずだろ!?」
男は泣きに泣いていた。男泣きである。感情の爆発で頭の中の何もかもが埋められそうになっていく。しかし一方で、失ったそれを取り戻そうと、思考は高速に回転しはじめていた。
「一体どこで!どこでこうなった!なんでこうなった!」
それは男の不摂生が結実した際の行く末であることは間違いない。しかし急すぎる今の状況は確かに外部要因があるとしか思えなかった。何よりも全身の毛が抜け落ちるというのは異常すぎる事態だ。これが玉々であるはずがない。
男は自分の記憶をさかのぼる。
今。無い。
トラクター。轢かれて飛んでいたので分からない。しかし今周囲に抜け毛は無い。
荒野の雨。呆然としていたので分からない。
シャワー。大事に大事に手で擦ったそこには確かな感触があった。
「ということは雨のとき!雨のときだ!!」
思考がそこに至ると、鬼気迫った顔でトラクターに吹き飛ばされる前に居た地点に向かって走り出した。加害者の男はただ呆然と、その様子を見つめている。
やがて男は荒野に降り立ったその場所にたどり着き、
「うっ、ううう、うおあああああああああああッ!!」
再び叫びを上げた。愛しさと切なさと悲しみと悔しさとが交じり合った、やるせない叫びだった。
顔面を両手で押さえ、膝を突く。膝周りでちゃぷちゃぷと音を鳴らす水溜りには、たくさんの黒い毛が浮かんでいた。いや、決してたくさんのとは言えなかったが、一人の漢の、一世一代最後の見栄なのでそこは勘弁して欲しい。
男は涙に濡れながら、水面に揺れる抜け毛をすくう。水と一緒にすくいあげた抜け毛たちは、まるで撒き戻されるかのように、全てがその手から零れ落ちる。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょうっ…!!」
その絶望いかほどのものか。決して若者には分からない、大人であるが故の痛み。
「もう俺には、俺には何も…!!」
ふと、抜け毛の他に黒い存在があるのに気付く。それは無機質なプラスチックのフォルムに包まれた、柔らかい毛髪とはかけ離れた硬く、黒く、鈍く光を返すもの。
「く、くく、くくく……俺に残ったのはコレだけか……」
涙を流したままあざけるように笑い、唯一すくい上げることができたのはその、頭皮を助けるシャンプーだけだった。しかし、彼はまだ、髪に見捨てられたわけではない。無いなら生やせばいいのだ。何故抜けたかは分からないが、しばらくすれば髪は再び生えてくるものなのだから。
そしてもう一つ、彼を見捨てようとしないものがあった。
「なぁ、その……俺が言うのもなんだが、前、向いていこうよ」
膝をつく男の肩に手を置き、優しげに加害者は声をかけた。男は涙と嘆きを飲み込みながら、軽く頷く。
「すまねぇ……」
「あと、さ。あんたの漢らしさは良く分かったから、いい加減、パンツくらい履こう?」
男は全裸だった。つい先ほどまで風呂に入っていたのだから当たり前と言えば当たり前、むしろそれを完全に忘れてしまうほど、次々と男を襲った状況がどれほどの大変なものであったか伺い知れる。しかし人心地付いた今となってはそれも理由にならない。これ以上の全裸記録更新ともなれば、得るのは無毛の変態という称号である。そんな称号は御免被ると、男は服を探して辺りを見回し、ふぅ、と息をつく。
「うん……でも俺、パンツすら持ってねえんだ……」
「ああ、あんたは本当に勇者なんだな……」
加害者は一体どんな理解を示しているのか、すっと目を閉じ顔を上向けた。男はといえば、今更顔を赤くして照れ顔である。視線は自身の股間に向けられ、だが、それだけで吹き曝しの股間を隠そうともしない。なんともいえない空気がその場に漂うが、加害者がそれを振り払うように上着を脱いでばさりとはためかせ、男の顔に覆い被せた。
「とりあえずそれ、腰に巻いといてよ」
「なんか、すまねぇなあ……見ず知らずの俺に」
「気にしないでいい。あんたには借りがあるしね……」
男はまた一言すまねぇ、と返事をしてから腰に上着を巻いた。その姿は、まるで荒野に立つ原始の開拓人のようだった。そうだ、これは開拓の、フロンティアの夜明けだ。今はむしろ日が落ちかけているが、男の新たな決意が日となり昇り、新しい朝が来るのだ。それはきっと希望の朝に違いない。
「あのさ、俺、諦めねぇよ。きっとまた、頭上に髪を取り戻すんだ」
「ああ、ああ、そうさ、諦める必要は無い。俺だって協力するからさ」
「ありがとう。お前は本当にいい奴だな。巡り合わせてくれた髪に感謝してるよ」
「ふふ、そう言ってくれると嬉しいね」
腰に上着を巻いただけの男と、上半身まっ裸の加害者の二人は肩を並べて、しばらく地平線の向こうへ隠れていく太陽を眺めていた。直に夜が訪れるだろう。しかし、闇が訪れようと、今の男にははっきりと先が見通せるという確信があった。出会って一時間にも満たないが、隣に立つ加害者と共にどこまでも突き進んでいけるという確信が。
男は落ちる日を背にして加害者に向き直り、手を差し出す。
「俺はお前から優しさをもらった。感謝してる。そして、できれば今後ともよろしく頼む」
「こちらこそ。俺もあんたに強さをもらったんだ。己を貫き通すその強さを」
ぐっと手を握り合う二人の男は、互いに異常なほど透き通った笑みを浮かべていた。
「随分と高く評価してくれるんだな。俺、そんなに強そうに見えんのか?」
「はは、そうだね。精神的な強さというか……俺にはあんたの生き様が輝いて見えたんだ」
「輝くとか禁止」
日は地平線に沈む直前で、既に上半分だけしか見えていなかったが、男の背から射す光はつるつるした頭部に反射され、代わりにもう一つの太陽が現れたようにすら見えていた。
今や太陽の化身と化したその男の名は、神野昇陽と言った。
名は体を表すという言葉がある。
男は今まさに大量に散らばった髪の荒野に在り、尚且つ、そのつるつるの頭部は太陽が昇ったように明るく輝き、辺りを照らす。それ即ち、神の野に昇る陽そのものだ。つまるところ、その男は、神野昇陽とは、その身を示す名に恥じぬ、輝かしい存在だったのだ。
※無毛の変態にパイ○ンって振り仮名振ろうか凄く迷った。真剣に。