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第1話「神無き荒野」

 最近、髪が薄くなってきた。

 男は自らを映し出す洗面台の鏡の前でぼんやりとその頭部を見つめると、はぁ、と一息ついて呟く。

「ああ、自分に嘘をつくのはなんて難しい……」

 そう、「最近、髪が薄くなってきた」というのは嘘だ。確実に嘘だ。なにしろ、最初にそう考えたのは彼が二十歳を過ぎた頃からなのだ。

 それから五年。

 前頭部は絶望的な状況だった。前髪がその成長を止め、眉毛にかからなくなって一体どれほど経つだろうか。いつの間にか前を切る頻度が減り、考え込む際に知らずやっていた前髪を弄る癖もなくなり、ついには散髪する際にも全く切ることがなくなった。当然である。切るものも無いのに切ることはできない。

 そして、真の意味で最近髪が薄くなってきたというのなら、それは頭頂部のことである。何故か側頭部、後頭部は薄くなる気配が無いが、逆にそこらだけは伸びるので返って鬱陶しい。

 男の脳裏にバーコードが浮かぶ。ああ、そうか。得てしてこういう生え方になってしまうから世のおっさんはそれを隠そうと無駄な努力をしてきたのだ。そしてその結果が肌色の下地に黒いストライプとなるのだな、と男は唐突に理解した。

 しかしそんな結末は御免被る。アレはアレで、恥ずかしいことこの上ない。そう思うからこそ男はぽつりと口にした。

「いっそ完全にスキンヘッドになった方が楽かもしれん」

 自嘲するような笑みを鏡に映すと、風呂に入るために服を脱ぎ捨て、洗濯機に突っ込んでから風呂場の戸を開けた。タイルの上に足を運ぶと、ひんやりとした感触が足裏から伝わってくる。

 その感覚があまりにも冷たく、男は少々慌てた様子で爪先立ちになり、そそくさと足を進めて蛇口を捻った。途端にシャワーが出始め、細身の体に冷たい水が降りかかる。思わず「冷たっ!」と声を上げると、慌てて体をのけぞらせてシャワーの範囲外へとあとずさった。

 一度ぶるっと体を震わせて、爪先立ちのままシャワーがお湯に変わるのをじっと待つ。手持ち無沙汰でなんとなく視線を彷徨わせた先にあったのは空っぽの浴槽だった。男は「お湯を張っておけばよかったか」と、今更な事を考えもしたが、それは無意味なことでしかない。いずれにせよ面倒臭くてやらなかっただろう。

 家族が一緒に暮らしていれば話は別だったかもしれないが、一人暮らしで、その上ずぼらな性格の彼がお湯を張るなど一ヶ月に一度あるかないか、という程度だった。そのずぼらさも災いしているのだろうな、と男は益体も無いことを考え始める。言わずもがな、災いとは即ち頭部のことだ。今更反省してその性格を矯正したところで失ったものは戻ってこない。

 ああ、なんということだろう。大したことではないと面倒を回避してきた男だったが、それが今まさに災厄という形となってその身に現れている。因果応報、諸行無常。いつまでもあると思うな髪と金。

 足元から湯気が昇り始めるのを横目に、男はデリケートな頭皮毛髪に効果覿面という話題のシャンプーを手にとった。髪と共に失った金銭の多くはこれらのシリーズ品に様変わりしている。だが、こういった物にお金を掛けて賭けて懸け続けてはいるものの、全くと言っていいほど効果は現れていない。髪も金も減るばかりで、勝ち目のない博打を打ち続けているとしか言いようがなかった。最近使い始めたこの製品で何度目の挑戦になるだろうか。

 男はぼんやりとその黒いプラスチック容器を眺めていたが、はぁ、と嘆息すると一旦その容器を浴槽の縁に置いて、シャワーの中へと頭を突っ込んだ。お湯の温度確認も無しにいきなりである。無謀に過ぎるが、男がそれに思い当たったときには既にシャワーが適温だと知れていた。どうも抜けているな、と男はまた自嘲して暖かいシャワーに身を任せた。

 そして出来るだけ無心に、しかし大事に大事に貴重な髪を手ですすぐ。目はしっかりと閉じられていた。足元ではお湯と一緒に黒い線達が何の抵抗も無く排水溝に吸い込まれていく。その様を直視すればさらに悲しみが増す。男はそれを知っていたが故に、頑なまでに目を開かなかった。頭皮を擦ることに逃避し、流れゆく抜け毛からも現実からも敢えて目を逸らす。そこには悲痛な悩みを抱え、俯きながらも一つの希望シャンプーを手に取り、すがりつこうとする男の姿があった。

 しかしその手は希望を掴めない。

「あ、ん…えと、あら?あらら?」

 手は空しく空を切る。何度も何度も、空を切る。

「おっかしぃなぁ……この辺にシャンプー置いたんだけど」

 浴槽の中に落ちたのだろうかと思い、じれったさも手伝って、男は我慢できずに少しだけ目を開けた。僅かに見える土色の大地、青々と生い茂る名も知らない草達。そして、その草達を鞭打つように降りしきる水の粒。

 まぶたの上から流れ落ちる雫でぼやけて見えるその光景に男が疑問符を浮かべた瞬間、その身に降りかかっていたシャワーの温度が急激に下がった。

「冷たっ!」

 出始めのシャワーを浴びてしまった時の様に、男は思わず目を閉じて身を引く。だが、それだけではシャワーの範囲から逃れられなかった。変わらず冷たい水が男の体を容赦なく襲う。

「いいいいっ!!」

 慌ててさらにあとずさる。しかし意味はなかった。じゃりじゃりと濡れた砂が足に絡みつく音と共に、どこまでも冷たい飛沫がついてくる。

「どーなってんだよ!壊れてんのか!?」

 その状況を受けて男が思い浮かべたのは、もの凄く広範囲に水を撒き散らすシャワーだった。その程度の妄想しか浮かばないあたり彼の想像力の無さが伺い知れるが、兎にも角にも、それが本当に現実になっているのかを確かめるため、俯いた顔を上げて苛立ち気味に目を見開いた。

 ……つもりだったのだが、視界に入るその光景を信じきれず、男はもう一度目を硬く閉じ、そして再び勢い良く開く。

 男の体に打ち付けられているのはシャワーではなく、ただの雨だった。風呂場の壁も戸も天井も消え、どんよりと曇った空から大量の雨が降りしきっている。土砂降りだ。そのせいで視界は悪い。だが、その雨があっても尚、男の立っている場所がどんなところかは容易に知れていた。広大で、人も建物も木すらほとんど見当たらない、申し訳程度に雑草が点在している場所。そう、それは一言で言って荒野だ。

「テレビでしか見たことねぇよ。こんな場所……」

 雨の冷たい感触が、嫌でもこれが現実だと告げているようだった。

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