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手を繋ぐことができなくなっても ——アイドルになった君へ——  作者: 早谷 蒼葉


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第五幕 伸ばせなかった手

第五幕 伸ばせなかった手

 

 最初に見たのは、ニュースでも記事でもなかった。

 

 SNSから流れてくる噂だった。写真はぼやけていて、夜の街で、二人並んで歩いているように見えた。


 だが、僕は見間違えない——沙友里だった。


 沙友里と、知らない男。


「○○と一緒だったらしい」



「仲良さそうだった」



「距離、近くない?」


 確かなことは、何ひとつ書いていない。でも沙友里は、今をときめくアイドルグループのフロントメンバー。拡散するには十分だった。


 僕は、スマホの画面を閉じた。


——信じている。


 そう言い聞かせる。沙友里が、そんな軽率なことをするはずがない。


 仕事だ。偶然だ。切り取られただけだ——分かっている。


 それなのに、胸の奥にざらついた塊が残る。そのことしか考えられず、何もする気にならない。


 僕からは何もできない。待っている時間は、今まで以上に進まない。


 否定の言葉が届いたのは、その夜だった。


『違うよ』


『仕事の流れで、たまたま一緒になっただけ』



『何もないから』


 短くて、簡素な文。文字だけでは感情が読めない。


『信じてる』


 何とかそう返した。それは、嘘ではない。でも、信じていると信じきれるは、同じじゃない。


 翌日、僕はSNSでその後を追ってみることにした。


「男関係は終わるよ」


「売り出し中なのに自覚なさすぎ」


「他のメンバーが可哀そう」


 誰が言っているのか分からない言葉が、無責任に積み重なっていく。


 沙友里の未来が、他人が書き込んだコメントの上に乗っている。その理不尽さに、僕はスマホを投げつけたくなった。



 放課後、部室で原稿を開いても、筆がのらない。


「……先輩、最近元気ないですね」


 琴音が、ぽつりと言った。心配というより、事実を確認するような声。


「そう?」


「はい。線、荒れてます」


 誤魔化そうとしたが、相手が悪い。諦めた。


「……ちょっと、色々あって」


 琴音は、それ以上聞いてこなかった。彼女の距離感が、ありがたい。



 その日の夜、沙友里から「会える?」と連絡が来た。人目につかない場所で、短い時間だけでもいいからと。


 待ち合わせた場所は、お互いの家から近い小さな公園。街灯の光が僅かに届く、人気のないベンチ。


 会った時沙友里は、強がって笑顔を作っていたが、声が震えていた。


「ごめんね」


 それが、最初の言葉。嫌な想像をして、心臓が跳ねた。


「心配、かけてるよね」


「……心配なんて……」


 ちゃんと否定したかった。でも、その前に違う言葉が出た。


「少しさ」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。しかし、心臓の音はうるさい。


「……会う回数、減らそう」


 沙友里が、目を見開く。


「今は危ないだろ」


 言いたくないことを、僕の口は勝手に話す。


「何もなくても、そう見えるだけで、君が傷つくから……」


 沙友里は、唇を噛んだ。


「……直哉」


「別れたいわけじゃない」


 それだけは、はっきり言った。


「ただ、今は……距離を取った方がいい」


 沈黙が落ちる。沙友里の肩が、わずかに震えた。


「……うん」


 絞り出すような声。


「そうだよね」


 沙友里が一歩近づこうとして、止まった。


「……ごめんね」


 沙友里の声が、震える。


「でも……直哉のこと、嫌いになったわけじゃないから」


「……うん、信じてる……」


 本当は、今すぐ抱きしめたかった。何も考えずに、沙友里を連れ去りたかった。けど僕は、その場から動けなかった。


 だが帰り際、無意識に手が動いてしまった。指先が空を掴んで、今度は意識で止める。


——だめだ。


 それが、僕の選んだ答えだったはずだ。



 数日後、封筒が届いた。ライブのチケット。一周年記念の、大きな公演のようだった。


 行くべきなのかどうか、僕にはもう分からない。机の上に置いたまま、何度も視線をやっては、逸らす。


 一日中悩んでいたら部室で、琴音に気づかれてしまった。


「行かないんですか」


 責めるでもなく、試すでもなく、自然な感じで聞いてくれる。


「……迷ってるんだ」


「見たらわかります」


 琴音は笑いながら言った。


「……素直になればいいのに……」


「え……何だよ、それ」


 琴音はその問に答えず、少し間を置いて言った。


「行かない理由も、行く理由も、先輩の中にあるなら……」


 言葉を選ぶように続ける。


「行かない方を選ぶの——先輩らしくない気がします」


 その言葉で、胸が静かに鳴った。僕の中にある理由。輝いている沙友里を見ていたい、これだけだ。


「先輩、これ」


 琴音は僕にチケットを押し付けた。それでも、僕は動けない。


 そんな僕を見て、琴音は少しだけ目を伏せ——それから笑った。


「何してるんですか? はやく行ってください」


——触れない選択をした。


 でも、見ない選択までは、していない。その気持ちが残っている。


 それだけは、まだ手放せなかった。


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