第一幕 繋いだ手
第一幕 繋いだ手
僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。
通っていたのは、大和中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研。沙友里はダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけが違っていたのかもしれない。
「直哉」
呼ばれて振り返ると沙友里がいた。制服の袖を少しだけ引っ張って、言いにくそうに視線を落としている。
「……一緒に帰ろ?」
断る理由なんて、最初からなかった。並んで歩く帰り道。何だかいつもより歩幅が合わない。明らかに様子が違っている。
沙友里は何か言いたそうで……でも、言わない時間が続く。沈黙に耐えきれなくなったのは、僕のほうだった。
「どうしたの?」
沙友里は一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく息を吸った。
「ねえ……笑わないで聞いてほしいんだけど」
そう前置きする時点で、何かあるのは分かる。だから、その言葉の続きを、聞き逃さないようにした。
「アイドルに、ならないかって……言われた」
足が止まる。沙友里も立ち止まる。
「まだ、口外しないように言われるけど……その……」
沙友里の言葉が揺れている。冗談じゃないことだけは、すぐに分かった。昔から沙友里はアイドルになりたいと言っていたのを、僕は知っている。
「学校で……ダンス部からアイドルを育てるプロジェクトがあるらしくて。私、候補の一人に選ばれたの」
僕は笑わなかったけど、言葉を発するのに少し時間がかかった。
「いいじゃん」それだけが口から零れた。
それ以外の言葉が出てこなかった。
沙友里が顔を上げる。泣きそうだけど、笑っていた。
「……本当?」
「漫画だったら、ここが第一話だよ!」
「……なにそれ」
沙友里が小さく笑った。泣きそうだった顔が、少しだけ緩む。
「歌うのも、踊るのも好きだよね?」
「……うん」
「向いてると思ってた」
それは、取り繕った励ましじゃない。ずっと一番近くで見てきたから言えた言葉だった。
沙友里は、目を伏せて小さく頷いた。
そして、次の瞬間——ぎゅっと、僕の手を握った。意識していない動きだったと思う。 自分でも驚いたように目を見開いて、慌てて手を離そうとする。
「ご、ごめん……」
「いいよ」
そう言ったけど、正直、心臓の音がうるさかった。初めて触れる沙友里の手は、思っていたより温かくて、少し震えていた。
「……怖いんだと思う」
沙友里が、ぽつりと言う。
「行ったら、変わってしまいそうで」
僕は歩き出して、彼女の手を取った。今度は僕から。
「変わってもいいと思うよ」
「……え?」
「僕は観客席の最前列で応援するから」
沙友里は何も言わずに、ただ手を握り返してきた。約束も、未来も、まだ名前のない不安も、全部がそこにあった。
夕焼けの中で、僕たちは手を繋いで歩いた。それが当たり前のように。普通の恋人のように。
どこかで犬が吠えている。僕には、やけに遠くに聞こえた。
——僕は、沙友里の味方でいよう。
手のひらに感じる温もり、それだけが確かだった。




