八話
ギルドの重厚な扉を押し開けた瞬間、熱気を帯びたざわめきがイシスの肌を叩いた。
研磨石で剣を研ぐ硬質な音、広げられた羊皮紙の地図を囲んで交わされる荒っぽい議論、そして安酒の匂いと共に響く笑い声。
そこには、剥き出しの「生」の活気が満ちていた。
イシスは、周囲の好奇と品定めが混じった視線をいなすように、迷いのない足取りで受付へと向かった。
「いらっしゃいませ。本日は冒険者登録でしょうか?」
受付嬢が、事務的な、それでいてどこか新参者を値踏みするような笑顔を浮かべた。
「はい。手続きをお願いします」
「では、こちらの用紙に名前と――もし天恵をお持ちでしたら、そちらも記入をお願いします」
差し出された用紙を前に、イシスは一瞬ペンを止めた。
「イシス」という名自体は、帝国において決して珍しいものではない。だが、ルベドフィアという家名を伏せたとしても、万が一、帝都の事情に詳しい者が聞けば余計な推測を呼ぶ恐れがある。
(……偽名を使っておくのが賢明ね)
彼女は短く思考を巡らせ、本名を一部切り取った、響きの似た名を書き込んだ。
【名前:ロゼ】
【天恵:なし】
【家名:なし】
受付嬢は用紙を受け取ると、さらりと目を通した。
「天恵なし、ですか。まあ、珍しいことではありませんが……。魔法使い志望とのことですので、念のため魔力測定をさせていただきますね」
案内された別室には、台座に据えられた透明な水晶体があった。
魔力探知機――術者の基礎体力を測る、残酷なまでに正直な装置だ。
「では、こちらに手を」
イシスが球体に指先を触れた瞬間、爆発的な光が室内を満たした。
「……っ!?」
受付嬢が眩しさに目を細める。魔力量そのものは、凡百の魔術師を遥かに凌駕する「極大」の数値を示していた。
しかし、次の瞬間。 眩い光は逃げるように揺らめき、力なく霧散していった。
「……魔力量は多いようですが、出力が極めて低いですね。これでは初級魔法を維持するのも一苦労でしょう」
受付嬢の声に、明らかな失望と冷ややかさが混じる。
「長らく、魔法を使っていなかったのでは?」
「……ええ」
イシスは静かに頷き、自分の掌を見つめた。
喉を使わなければ歌姫の声が枯れるように、術を行使せぬ年月は、魔力の回路を細く狭めてしまう。
「剣聖の妻」として過ごした数年間、彼女が魔法を放ったことなど一度もなかったのだ。
知識も術式も、脳裏には完璧に残っている。
だが、今の自分の身体はそれを受け止める準備ができていない。
それが現実だった。
受付嬢は、イシスの容姿を改めて眺めた。 気品ある佇まい。絹のような髪。整った顔立ち。 年齢は二十代後半といったところだろうか。
(……なるほど。どこぞの貴族のお嬢様が、結婚生活の暇つぶしに冒険者ごっこを始めようというわけね)
そう決めつけた彼女は、書類に事務的な判を押し、一枚の証明書を差し出した。
「はい、これが冒険者証明書です。天恵持ちの天才たちが闊歩するこの世界で、その出力でいつまで続くか分かりませんが、精々頑張ってくださいな」
あからさまな嫌味。だが、イシスは不快に思うどころか、むしろ晴れやかな心地でいた。
「ええ。鍛錬すれば、戻りますから」
その声があまりに明るかったため、受付嬢は意外そうに目を瞬かせた。
証明書には
【名前:ロゼ ランク:初級】
と刻まれている。
(冒険者に、なった……)
胸の奥で、確かな熱が広がっていく。
嬉しい。心から、嬉しかった。
魔力出力が低い?それがどうした。
鍛錬すれば、戻る。それだけのことだ。
イシスは、長らく忘れていた。 自分の中に眠る、肯定的な気持ちを。
本来、自分はこういう性格だった。
否定的な意見を言われても、鍛錬でどうにかすればいい。努力すれば、道は開ける。
そう信じて、前を向いてきた。
夢を奪われた絶望。長い虚無感のある生活。 それが、自分を変えてしまっただけ。
でも、今は違う。 今、自分の意志で、一から積み上げていく。
その過程こそが、彼女が欲していた自由そのものだった。
イシスは初心者向けの依頼板へと向かった。
薬草採取、荷物運搬、森の魔物討伐(小型)
どれも、初心者向けの簡単なものばかり。
(何から始めようかしら……)
そう考えていた時、背後の酒場スペースから、不快な声が流れ込んできた。
「まぁーた、剣聖が手柄を上げたんだってよ」
イシスの指先が、掲示板の縁を強く掴んだ。
「顔も良くて国一番の騎士、それに聖人君子ときた。完璧すぎて嫌になるぜ」
男たちの声。酒が入っているのだろう。 イシスは、掲示板を見つめたまま、耳を澄ませた。
「羨ましいよなぁ」「ああ、まったくだ」
最初は、そんな程度だった。
だが、酒が回るにつれて、話は変わっていく。
「聞いたか? ユリウスの嫁、絶世の美女らしいぜ」
「マジかよ。しかも大公家出身の公女だって?」
「そんな女を毎晩好きにしてるかと思うと――」
下世話な笑い声。
イシスの眉が、わずかにひそめられた。
不快だった。 でも、まだ我慢できる。 そう思っていた。
「俺もあれほどの天恵があればなぁ……」
男の一人が、羨ましそうに言った。
「ちょちょっと剣聖になって、毎日贅沢なもん食って、取っ替え引っ替え美女を抱いて、好き放題できるのにな」
この言葉がイシスの琴線に触れた。
(――違う)
胸の奥で、静かな、けれど苛烈な炎が燃え上がった。
ユリウス・カーライルの苦悩を、彼女は誰よりも知っている。
彼は天恵に恵まれた。それは事実だ。
だが、その力に相応しい「正義」であり続けるために、彼がどれほどの感情を殺し、私生活のすべてを削ぎ落としてきたか。
本当にすべての人が、天恵に恵まれただけで、あれほど国に尽くせるだろうか
贅沢な食事?
彼は常に、健康維持のためだけの最低限の栄養を、義務のように口に運んでいた。
美女を抱く?
結婚した時の負い目からか、イシスの尊厳を尊重し、彼女に触れようとしなかったユリウスの姿。
そんな光景が、脳裏に浮かぶ。
彼は、天恵に恵まれた。
でも。 彼自身の苦しみの上に、今の剣聖としての地位があるのだ。
イシスは静かに踵を返し、下品な笑いを撒き散らす男たちの前へと歩み出た。
「……」
彼女は、獲物を値踏みするような冷徹な眼差しで、男たちを見下ろした。
「貴方程度では、剣聖の地位など一刻も保たないでしょうね」
汚い言葉は使わない。怒り狂うこともしない。
静かな声。だが、そこには明確な「格の違い」による威圧が宿っていた。
「その重責に耐えられず、朝を迎える前に恐怖で押し潰されるのが関の山です。……口を慎みなさい。貴方が口にしているのは、この国を背負う男の献身に対する侮辱です」
男たちは毒気に当てられたように沈黙した。
「……なんだあ? あんた、剣聖の信者か?」
一人が赤ら顔で嘲笑う。
「あんたほどの美女なら、剣聖の妾でもしてもらえるんじゃないか?」
反省した様子は、まるでない。 イシスは、引き下がらなかった。
「――そこまでにしておけ」
荒々しい声が割って入り、イシスと男たちの間に一人の逞しい男が割って入った。 顔には傷跡があり、歴戦とまではいかないが、それなりの実力があると分かる。
四十路を過ぎた頃だろうか、その剣士は、鋭い眼光で酔っ払いたちを睨みつけた。
「酔っ払いが女に絡むんじゃねぇ。とっとと失せろ」
その声には、威圧感があった。 男たちは、舌打ちをして立ち上がった。
「……チッ。分かったよ」
ぶつぶつと文句を言いながら、ギルドを出ていく。
「怪我はないか?」
男が振り返る。
「……ええ。大丈夫です」
男の後ろには、彼の仲間と思われる三人の姿があった。
魔法使いらしき女性.。治癒士と思われる穏やかそうな男性。そして弓を背負った元気そうな少年。
「そうか。だが嬢ちゃん、女一人が酔っ払いに突っかかるもんじゃない」
イシスは、息を吐いた。
確かに。 学生時代の自分なら、たとえ荒事になっても実力でどうにかできただろう。
でも、今は違う。
一人の、非力な女だ。
冷静さに欠けていた。
それは、反省する。 でも―― ユリウスのために怒ったことに、後悔はない。
「……申し訳ありません。少々、冷静さを欠いていました。そして、ありがとうございます」
イシスが丁寧に頭を下げると、剣士は少し驚いたように目を瞬かせた。
「丁寧なこったな」
その時、ダリウスが持っている古い石板の破片がイシスの目に留まった。
「……それは、古代文字ですね?」
「ん?」
剣士が、石板を見た。
「第三期、ヴェルディア王朝の書体です」
イシスは、まるで昨日の出来事を話すかのように滑らかに告げた。
「この曲線は王家の紋章……。おそらく、『静寂なる守護者』へ捧げる祈祷文の一部。この先には封印された神殿があるはずです」
パーティー一同の動きが凍りついた。
「……読めるのか? 文字通り、完璧に」
「ええ。魔法史の教養として、古代言語は一通り修めておりますので」
ダリウスは仲間たちと顔を見合わせた。
そして、大きな手で頭を掻くと、真剣な表情でイシスに向き直った。
「ああ。俺たちのパーティーで、ダンジョン調査の任務を受けようと思ってるんだが……」
剣士は、苦笑した。
「魔物の対処とかは、俺たちでどうにかなる。だが、ダンジョンの文化や仕組みを解き明かす学者が必要でな」
「学者が集まらない、と?」
「ああ。危険なダンジョンに入るのを、みんな躊躇するんだ」
「……魔法や古代文明に関する知識でしたら、私にもあります」
「本当か!?」
「ええ。助けていただいたお礼に、何か力になれることがあれば」
剣士たちは、再び顔を見合わせた。 それから、剣士がイシスに手を差し出した。
「だったら、一緒にダンジョンへ潜らないか?」
「……え?」
「 魔物退治は俺たちが請け負う。嬢ちゃんは知識を貸してくれ。役割分担だ」
「初心者みたいだけど大丈夫。私たちが守るから」
「一緒に頑張りましょう!」
魔法使いのエリナが優しく微笑み、弓矢の少年も、元気よく頷いた。
イシスは、差し出された手を見つめた。
そして―― その手を、握った。
イシスは、差し出されたダリウスのごつごつした手を、しっかりと握り返した。
「俺はダリウス。こっちが魔法使いのエリナ、治癒士のオズワルド、弓使いのフィン」
「ロゼ、と申します。よろしくお願いします」
「よろしくな、ロゼ」
ダリウスが、豪快に笑った。
「さあ、準備ができたら出発だ。初めてのダンジョン、楽しみにしてろよ」
イシスは、静かに微笑んだ。
(冒険者として、最初の一歩……)
胸が高鳴っていた。
ギルドの扉から吹き込んできた風が、彼女の髪をさらりと撫でた。
それは、かつての自分を縛っていた鎖を断ち切り、新しい自分として生きるための、祝福の風に感じられた。




