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七話


「リネア、今夜は屋敷に泊まっていきなさい。あなたの部屋は当時のままにしてありますよ」


アデリアが慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、孫の細い手を包み込むように握った。そして、視線を傍らに立つ女性へと移す。


「イシス様も、よろしければ泊まっていかれませんか?」

「いえ」


イシスは、水面の揺らぎを鎮めるような穏やかさで首を横に振った。


「身に余るお気遣い、感謝いたします。ですが、私はこれで失礼させていただきます」

「そうですか……それは残念ですわ」


アデリアが少しだけ肩を落とし、寂しげに目を伏せる。イシスは丁寧に一礼し、部屋を出ようと一歩踏み出した。

だが、重厚な扉に手をかける直前、彼女の足が止まった。

深い夜の帳が降り始めた室内。イシスはゆっくりと振り返る。その瞳は、先ほどまでの穏やかさを脱ぎ捨て、鋭く研ぎ澄まされていた。


「アデリア様」

「はい?」

「貴女には、リネアを守り育てる覚悟はおありですか?」


空気が、一変した。

温かく、どこか浮ついていた再会の余韻が瞬時に霧散し、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの緊張感が張り詰める。リネアが驚きに目を見開いた。困惑が、その顔に浮かぶ。

だが、イシスが何を言いたいのか分かったのだろう。押し黙った。

イシスは、リネアの様子を一瞬見てから、話を続けた。


「貴女は一度、この子を守れなかった。それは、覆しようのない事実です」


その言葉は、静かだが、容赦がなかった。アデリアの表情がわずかに強張る。


「あの継母殿たちが、リネアが再びこの屋敷の敷居を跨ぐことを、快く思うはずがない。貴女が寵愛を示せば示すほど、彼女たちの憎悪は鋭い針となってリネアを刺すでしょう。リネアが苦労する未来は、想像に難くない」


イシスは一息つき、アデリアを射抜くように見つめた。


「貴方がリネアにここに住んでもらいたいと願い、またリネアもそれに応えたいのなら――。リネアは、貴族の屋敷で生き抜くための教養、礼儀、そして時に人を冷徹に切り捨てる価値観を学ばねばなりません。彼女らに対抗するには、貴女様、アデリア様の絶対的な『力』が不可欠です。もう一度聞きます。貴女には、リネアを守り育てる覚悟はおありですか?」


自分より幾つも年下の、正体も知れぬ小娘。

そこにあるのは敵意ではない。だが、甘えを一切許さない峻烈な問いかけだった。

それでもなお、アデリアは表情を変えなかった。

ただ、静かにイシスを見つめ返す。

やがて、アデリアはくすりと、どこか楽しげに笑った。


「貴女は……ルベドフィア大公家のご令嬢ですね?」


イシスの眉が、わずかに跳ね上がった。

傍らのリネアが「大公家」という響きに息を呑む。帝国において、皇族に次ぐ絶対的な権威。


「現当主、ロザリンド・ルベドフィア様にお会いしたことがありますわ。あの御方も、今の貴女のように堂々と、正面切って物を仰る方でした。……若き日のロザリンド様にあまりに生き写しなので、確信いたしましたわ」


アデリアは無礼を咎めるどころか、稀少な名馬を眺めるような瞳で語った。


「大々的に公表されているわけではありませんが、ルベドフィアのイシス様といえば、あの『剣聖』へ嫁がれたはず……。何故、このような片田舎にいらっしゃるのかは存じませんが」


イシスは、アデリアの観察眼に素直に驚いていた。

この老婦人は、只者ではない。


「孫を救っていただき、心より感謝申し上げます」


老婦人は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

それから、ゆっくりと顔を上げ、語り始めた。


「リネアが盗難事件の犯人だとは、最初から思っておりませんでした」


リネアが、顔を上げる。


「ですが、この子が継母たちに抗えるほど、激しい気性を持っていないことも分かっておりました」


アデリアの声が、少し沈む。


「私は、元々平民から嫁ぎ貴族となりました。それ故に、女主人の座を掴むまでに――ここまで来るのに心底苦労いたしました……この世界の残酷さを、身をもって知っています。そんな世界にリネアを置くのは、果たして幸せなことなのか……ずっと、そう思っていたのです」


アデリアは、リネアを見た。


「この子は優しい。だから……。屋敷から追い出すのは残酷でも、別の場所で穏やかに育ってくれるなら、それが幸せだろうと思ったのです」


リネアの目に、涙が滲んでいく。


「時々、あの小屋に使用人を行かせ、様子を報告させていました。でも、あの花を見た時――」


アデリアの声が、温かくなった。


「孫と共に暮らしたいと、心から思いました」


アデリアはリネアに向き直り、その温かくなった瞳を孫に向けた。


「リネア、私は貴女と共に暮らしたい。ですが、ここに残るなら、貴族としての厳しい修練に耐えねばなりません。あなたはどうしたい?」


リネアの頬を、涙が伝った。


「寂しかった……。ずっと、お祖母様に会いたかった。今は、その愛が何より嬉しいのです。私は……耐え抜きます。お祖母様の隣にいられるなら!」


アデリアは満足げに頷くと、再びイシスへと向き直った。その声には、女主人の威厳が宿っている。


「先ほどの質問に答えましょう。ええ、リネアを守り、育てる覚悟はあります」


だが、続けて彼女は楽しげに目を細めた。


「ただ……案ずる必要はないかもしれませんわ」


アデリアの視線が、わずかに扉の隙間に向けられた。

イシスも既に気づいていた。扉の外で、息を殺して盗み聞きしている卑俗な気配——マリアンヌの存在を。

アデリアは、わざとイシスの家名を口にしたのだ。

自分の事情を分かっているのなら、イシスの家名をばらしてしまうことにイシス自身にはメリットはない。彼女に何のメリットもなくても、リネアにとっては「大公家と繋がりのある娘」という最強の盾になる。そしてこの老夫人は、イシスがこのことを恨んで仕返しをするような人間ではないことも、見抜いている。イシスがそれを許容する器の持ち主であることまで見抜いて、利用したのだ。


(……食えない方だこと)


イシスは静かに微笑んだ。

この狡猾さと強さがあるならば、もう案ずることはない。

この方の近くでリネアは多くを学ぶだろう。



一方、廊下を震える足取りで歩く女性がいた。マリアンヌである。

彼女の顔は土気色に沈み、歯の根が合わないほどに震えていた。

自室に飛び込むと、そこには勝ち誇った顔の娘、セリーナが待っていた。


「お母様、どうでしたか? 」

「もう……もう、リネアには手を出してはいけないわ」


マリアンヌは椅子に崩れ落ちた。セリーナが戸惑う。


「何を仰っているんですか? あんな、妾の子……」

「聞きなさい、セリーナ!」


マリアンヌが悲鳴のように叫んだ。


「帝国には、六つの公国が存在していることは、貴方も知っているわよね?……建国の功労として、皇帝に協力した魔法使いや、剣士、治癒師などの各実力者が、それぞれ独立国を与えられたのが始まり。形式的には帝国の属国だけれど、長い歴史の中で中央主権が弱まり、その権威は皇帝も無視できぬほど大きなものになっている」


セリーナは、頷いた。

それは、貴族なら誰でも知っている基礎知識。


「そして、その大公家筆頭と呼ばれるのが、あの女――いえ、リネアとともに居たあのお方、イシス様の実家である、ルベドフィア家なのよ」


セリーナの顔が、青ざめていく。


「つまりルベドフィア家の令嬢が、あの子の後ろ盾なのよ」


セリーナは、面食らった。

言葉が出ない。

暫しの沈黙の後、震える声で言った。


「で、でも……数年前の”あの事件”で、ルベドフィア家の勢力も弱まったと聞きますし……ですから現在大公家筆頭と呼ばれているのは、皇帝の皇妃として最有力候補に上がっているフレデリカ嬢のご実家であるアイゼンガルド大公家…」

「ダメよ!」


マリアンヌが、叫んだ。

セリーナが、びくりと身体を震わせる。


「権勢は落ちたと言っても、相手は大公家。ルベドフィア大公家の現当主であるロザリンド様は、とても苛烈な方だと聞くわ。そして何より、姪が嫁いで家を出るまで、とても仲が良かったと聞く。告げ口でもされたら、どんなことになるか……」


マリアンヌの声が、悲鳴に近くなる。


「私たちみたいな田舎貴族じゃ、相手にもならないわ!フォレスト家など、指先一つで磨り潰されてしまう! あんな小娘、もうどうでもいい。関わってはいけない……地獄を呼び寄せるだけよ!」


投げやりに言い放つマリアンヌ。

彼女は、震え上がり、その場に座り込んだ。

セリーナもまた、恐怖に顔を引きつらせていた。

リネアの背後に、あまりにも大きな存在がいる。

それを知ってしまった今。

もう、手出しはできない。

部屋に、重苦しい沈黙が満ちた。


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