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六話

「本当に、楽しみだわ」


継母マリアンヌは、一点の曇りもなく磨き上げられた姿見の前で、自身の姿をうっとりと眺め、満足げな微笑を浮かべていた。

夜会の灯りに映える最高級の絹を用いたドレスは、深い紫から漆黒へと移ろう艶やかなグラデーションを描き、その白すぎる首元には、小国一国の軍事予算にも匹敵する大粒の真珠が幾重にも連なっている。胸元には、あえて控えめな気品を演出するために選ばれた、淡い紫の花が誇らしげに添えられていた。


「ええ、お母様」


娘のセリーナが、鏡越しに母親と視線を合わせ、同じように邪悪な愉悦を宿した笑みを返した。


「きっと、あの子は盛大に恥をかくわ。よりによって、一族の絶対的な権力者であるお祖母様――アデリア様の前でね」

「ふふ。想像しただけで、今から胸が躍るわね」


マリアンヌは、手元にある手紙――リネアに送った招待状の控え――を、まるで恋文でも扱うかのように愛おしそうに撫でた。

そこには、あえて温かみを感じさせる丁寧な筆致で、こう記されている。

『お祖母様が最も愛しておられるお花は、月見草です』

もちろん、それは真っ赤な嘘であった。

フォレスト家の実質的な支配者であるアデリア・フォレストは、月見草を不快感とともに忌み嫌っている。かつて、社交の場ではっきりとこう吐き捨てていたのを、マリアンヌは聞き逃さなかった。


「あの花は好きではないの。夜に咲く不吉な色合いも、何より鼻につくほど強すぎる香りが耐えられないわ」


その記憶を、執念深いマリアンヌは罠として加工したのだ。

リネアは、あまりにも世間知らずで純真すぎる。あの子は身内の言葉を疑うという術を知らない。

きっと、忌むべき月見草を「正しい礼儀」だと信じ込み、誇らしげに胸に飾って現れるだろう。

そして、何より礼節と嗜好を重んじる厳格な祖母に、決定的な拒絶を叩きつけられるのだ。


「あの子が絶望に顔を歪める瞬間、特等席で見せてもらうわ」


セリーナが、獲物を追い詰める残酷な子供のようにくすくすと笑った。


「せっかく追い出された先から招待されたのに、その当日に勘当同然の扱いを受けるなんて。本当に、可哀想な子ね」

「自業自得よ。あの子さえ、この家に生まれてこなければよかったのだから」


マリアンヌは、氷のように冷たく言い放った。

亡き妾の子。それだけで、彼女にとっては排除すべき泥に等しかった。夫が生きていた頃は、あの子にだけ注がれる甘い眼差しが疎ましくてならなかった。だから、夫が事切れるやいなや、卑劣な盗難の濡れ衣を着せて家から叩き出したのだ。

あの子は抗う術も知らず、何も言わずに出て行った。弱虫で、意気地なしの、出来損ない。

ざまあみろ、と心から嘲笑ったものだ。

だが、隠居していた祖母アデリアだけは、あの子の消息を執拗に気にかけていた。そして今回、リネアの誕生日に合わせて、わざわざ招待状を送らせたのだ。

それが、マリアンヌには我慢ならなかった。


「さあ、行きましょう。極上の喜劇が私たちを待っているわ」


二人は家紋の入った立派な馬車に乗り込み、祝宴の舞台――フォレスト家の重厚な本邸へと向かった。

会場に到着すると、エントランスはすでに多くの客で埋め尽くされていた。

近隣の地方貴族や有力な商人たち。着飾った婦人たちのドレスが擦れる絹ずれの音と、煌びやかな宝飾品が放つ光が、広間に熱気を生んでいる。

マリアンヌは、自らがこの邸の真の主であるかのように得意げに胸を張った。

だが、その時。


「まあ、あれは……どなたかしら」


誰かが、感嘆を交えて囁いた。

マリアンヌが怪訝そうに視線を向けると、会場の入口に二人の女性が立っていた。

一人は、見紛うはずもない。リネアだ。あの、惨めなはずの娘。

だが――。


「なんて、素敵なドレスなのかしら……」


周囲の招待客から、吐息のような賞賛が漏れた。

リネアは、夕焼けの残光を閉じ込めたような、淡い桃色のドレスを纏っていた。袖口には蜘蛛の糸で編んだような繊細なレースがあしらわれ、裾には野に咲く小さな花々の刺繍が、気の遠くなるような手間をかけて施されている。

常に薄汚れた服でうつむいていたあの子が、磨き上げられた真珠のように、光を放っていた。 


「……っ、どういうことなの」


マリアンヌの顔が、怒りで強張った。

隣のセリーナも、不機嫌を隠そうともせずに眉をひそめる。


「なんであんな上質なものを……。一文無しで追い出したはずなのに!」


だが、マリアンヌの冷徹な視線は、リネアの斜め後ろに控える女性へと吸い寄せられた。

その女性――イシスは、主役であるリネアを立てるように極めて控えめな装いだった。首飾りも指輪もなく、華美な装飾は一切ない。

けれど、その佇まいには、隠しようのない圧倒的な「何か」があった。

天を衝くかのように真っ直ぐな背筋。すべてを見透かすような理知を帯びた、研ぎ澄まされた眼差し。ただそこに立っているだけで、周囲の空気の密度を変え、人々の視線を磁石のように引き寄せてしまう。

それは、付け焼き刃の礼儀作法などではない。生まれ持った魂の格の違いが、静かな湖面から立ち上る霧のように滲み出していた。


「……何者なの、あの女は」


その時。


「皆様、大変お待たせいたしました」


会場の奥から、地響きのような重みのある声が響いた。

大扉が開き、一人の老婦人が威風堂々と姿を現した。アデリア・フォレスト。この邸の主であり、帝国の政財界にも隠然たる影響力を持つ、リネアの祖母だ。

雪のような白髪を優雅に結い上げ、深海の如き深い青のドレスを纏った彼女は、刻まれた皺さえも権威の一部としていた。

アデリアの鋭い視線が会場を巡る。マリアンヌたちの前で一瞬だけ留まったが、ゴミを見るかのような冷淡さですぐに逸らされた。

そして――リネアを見つけた。


「……リネア。リネアなのかい」


アデリアは、人混みを割ってまっすぐに歩み寄った。

マリアンヌとセリーナは、物陰で邪悪な笑いを堪えるのに必死だった。

――来たわ。今こそ、あの子の破滅を見届ける時よ。

きっと、あの忌まわしい月見草を見た途端、烈火のごとく叱り飛ばし、今度こそ永遠に追放するに違いない。

アデリアが、リネアの正面で立ち止まった。

リネアは緊張のあまり蒼白な顔で、深く頭を下げる。


「お、お祖母様……お誕生日、おめでとうございます……」


アデリアは、すぐには答えなかった。

ただ、リネアの左胸に添えられた花を、食い入るように見つめている。

痛いほどの沈黙。周囲の客までもが息を呑む。

そして――。


「……エーデルワイス」 


アデリアが、枯れた声を震わせて呟いた。


「まあ……エーデルワイスだわ……っ」


厳格なはずのその目に、見る間に涙が滲んでいく。

リネアの胸に飾られていたのは、罠として指定した月見草などではなかった。雪の結晶のように純白な、高潔な山頂にしか咲かない希少な花――エーデルワイスだった。

マリアンヌの歪んだ笑みが、仮面のように凍りついた。


「お祖母様……?」


リネアが恐る恐る顔を上げると、アデリアは震える手で孫の細い手を取った。


「この花……どこで手に入れたの?」

「あ、あの……私が住んでいる場所の近くに咲いていて。いつもきれいだなと思って家に飾っていたんです……」

「そう……そうだったのね……」


アデリアは、愛おしそうに目を閉じた。一筋の涙が、頬の皺を伝い落ちる。


「これは……あなたの祖父が……私が愛した人が、何よりも大切にしていた花なの」


広大な会場が、水を打ったように静まり返った。


「私たちがまだ若く、夢を追っていた頃……あの人が、険しい山に登って摘んできてくれたのよ。『この清らかな白が、君によく似合う』って、照れくさそうに笑いながらね」


老婦人の声が、聖歌のように優しく響く。


「あの人が亡くなってから、もう何年もこの花を目にすることはなかったわ。もう二度と見れないと思っていたのに……」


アデリアは、リネアを強く、折れんばかりに抱きしめた。


「ありがとう、リネア。私の人生で最も幸せだった日々を、今呼び戻してくれたわ」


周囲から、温かい拍手が沸き起こった。

マリアンヌは屈辱で顔を真っ赤に染め、ドレスを引きちぎらんばかりに拳を握りしめた。


「……なんで、どうしてこうなるのよ……!」


二人の憎悪に満ちた視線が、リネアの後ろで静止しているイシスに向けられた。

イシスは喧騒の中にありながら、凪いだ海のように静かにその光景を見守っていた。その口元には、かすかな、けれど慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。

マリアンヌは、確信した。あの正体不明の女が、すべてを狂わせたのだと。

だが、イシスはその突き刺さるような視線を、無価値な塵を眺めるかのように涼やかに受け流した。


「イシス様……!」


リネアが、子供のように駆け寄ってくる。その顔は、涙と笑顔でくしゃくしゃに輝いていた。


「ありがとうございます……! 本当に、ありがとうございました……!」


そこにあるのは、混じりけのない純粋な感謝。

イシスは一瞬、驚いたように目をわずかに見開いた。

胸の奥底で、かつての「剣聖の妻」として生きていた頃には決して知ることのなかった、確かな熱が灯る。

自分の意志で選んだ行動が、一人の少女の絶望を焼き払い、世界を光で満たした。

それは、他者に与えられた役割をこなすこととは決定的に異なる、「生きている」という確かな手応えだった。


――祝宴を翌日に控えた、あの穏やかな午後。


イシスは単身、街の喧騒を遠く離れ、木々が深く影を落とす古い墓地へと足を運んでいた。目指すのは、かつて林業によって国を救い、名誉ある爵位を賜ったフォレスト家の先代当主――リネアの祖父が眠る場所だ。


石造りの門を潜り、彼女がまず期待したのは、石碑の前に供えられた「花」だった。もし、今も祖母がこの場所を訪れ、夫の愛した花を手向けているのだとしたら、それが答えになるはずだ。しかし、辿り着いた石碑の前に花の一つもなく、ただ乾いた風が吹き抜けるばかりだった。


(……やはり、枯れた記憶の中に答えを求めるのは酷だったかしら)


有力な手がかりが得られなかったことに、イシスはわずかに肩を落とし、小さな溜息を吐いた。だが、立ち去ろうとしたその時、彼女の脳裏にある古い知識が閃いた。――数十年前までこの地方では、言葉にするには気恥ずかしい愛着や、故人の最も好んだものを、家紋に添えて墓石の隅に刻む文化が主流だったはずだ。


彼女は膝を突き、苔むした古い石碑の表面をなぞるように視線を走らせた。中央にはフォレスト家の威厳を示す「大樹」の紋章。しかし、そのさらに下、土に半分埋もれかけた石の最下部に、彼女の鋭い観察眼が止まった。


そこには、極めて精緻な、そして本当に小さな花の浮き彫りが刻まれていた。 雪の結晶のように尖った花弁。気高く、それでいてどこか儚げな、星の形をした花。


「おや、珍しい。その墓石の隅に気づくお方は、ここ数十年おられませんでしたな」


背後からかけられた乾いた声に振り返ると、そこには腰の曲がった墓守の老人が、古びた箒を杖代わりにして立っていた。イシスはその場を支配するような高潔な佇まいで軽く会釈し、落ち着いた声で問いかけた。


「失礼。この墓に眠る先代様と、その奥様について……何かご存知ではありませんか?」


老人は、濁った瞳を空に向け、遠い記憶の糸を一本ずつ手繰り寄せるように目を細めた。


「先代の旦那様ですな。ああ、実に情の深いお方でした。亡くなる間際まで『アデリアに寂しい思いをさせてはいないか』と、奥様のことばかりを案じておられましたよ。お二人の仲は、それはもう、街中の誰もが羨むほどのおしどり夫婦でしてな」

「……贈り物に、何か特別な花を贈る習慣はありましたか?」

「贈り物、ですか。ええ……。旦那様は、どんなに富を得て貴族の末席に連なっても、奥様の誕生日の贈り物だけは、決して金で買えるような宝石などは選ばなかった。自ら険しい山を登り、岩陰に咲くあの一輪を摘んでこられたのです」


その言葉が、イシスの脳裏でバラバラに散らばっていた全てのピースを鮮やかに繋ぎ合わせた。


――ならば、答えは自ずと導き出される。

深く愛し合った伴侶が、命を懸けて届け続けた花。それを、遺された奥様が愛さないはずがない。


「リネア」


小屋に戻ったイシスは、確信を持って告げた。


「祖母様が心から待ち望んでいる花は、月見草などではなく、エーデルワイスです」

「え……でも、それは……」

「あなたが、いつも慈しむように窓辺に飾っている、あの白い花ですよ」


リネアは、驚愕に打たれたように窓辺へ視線を走らせた。

そこには、イシスが来る前からずっと生けられていた、慎ましやかな白い花があった。


「これが……お祖母様の?」

「ええ。あなたは知らず知らずのうちに、祖父様と祖母様と同じものを愛していたのです。血は争えませんね」


リネアの目が、熱い涙で潤んだ。

イシスは、優しく、けれど力強く微笑んだ。


「きっと、その花が未来を切り拓いてくれます」


そして、今。

リネアの満開の笑顔を見て。祖母の、幸福に満ちた涙を見て。

イシスの胸に、これまで決して感じることのなかった確かな熱源が芽生えた。

――これだ。

これこそが、私が魂の奥底から欲していたこと。

滝壺から命を拾い、ただ漠然と目的も失くして彷徨っていた時間。

それが、今。

一人の少女の幸せという、揺るぎない形になった。

誰かの力になること。自らの知恵やチカラで誰かの役に立てたのなら、どんなに幸せなことだろう――誰かを守りたい、誰かの幸せを守りたいと願った学生時代が脳裏によぎる。


「冒険者に……」


イシスは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「冒険者に、なろう」


誰かに与えられた道具としてではなく。自分の意志と力が、良くも悪くも正当に評価される場所へ。

開け放たれた窓から、夜の清涼な風が吹き込んできた。

イシスの髪が、強い意志を宿してふわりと揺れる。

新しい人生の幕開け。

その運命の歯車は、二度と止まることのない力強さで、確かに回り始めていた。


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