五話
窓から差し込む陽光が、埃の舞う室内を柔らかく照らしていた。
イシスは、リネアとの静かな暮らしに、思いのほか深く馴染んできている自分に気づいていた。
大公家や侯爵家といった、帝国の頂点に近い場所で生きてきた彼女にとって、かつて身の回りの世話はすべて使用人が担うべきものであった。当初は床の掃き方一つとっても、箒の自重すら手に余り、どこから手を付けていいのか当惑するばかりだった。
だが、今や彼女の指先は、掃除や洗濯、そして質素ながらも滋味深い料理の数々を、人並み以上にこなせるまでになっていた。
リネアもまた、イシスの凛とした佇まいの奥にある真摯な優しさに触れ、頑なだった心を少しずつ解きほぐしていった。
ある日の午後。開け放たれた窓から草いきれが流れ込む台所で、イシスはリネアから魚の捌き方を教わっていた。
「こうやって、中骨に沿って薄く刃を入れていってください……」
リネアの小さな手つきは驚くほど淀みがなく、銀色の鱗を躍らせていた魚は、瞬く間に鮮やかな三枚におろされた。
「見事なものですね……」
イシスは、その無駄のない所作に、純粋な敬意を込めて感嘆の声を漏らした。
「なるほど、刃の角度ひとつで、これほど断面の輝きが変わるのですね。素晴らしい技術です」
「……そんな、このくらいのこと、町娘なら誰でもできますよ。全然、凄くなんて……」
リネアが心底申し訳なさそうに、頬を赤らめて謙遜する。だが、イシスは静かに、けれど毅然と首を横に振った。
「誰ができるか、ではないのです」
イシスは、真剣な眼差しで少女を見つめた。
「私は今、それができない。けれど、貴方はそれをいとも容易く成し遂げている。それは、立派な研鑽の証であり、賞賛されるべき技術なのです」
リネアは、虚を突かれたように目を見開いた。
イシスは、自分が貴族であるとは一言も口にしていない。けれど、その指先の美しさや、隠しきれない気品、そして何より自分のような「取るに足らない存在」にすら誠実であろうとする態度は、彼女が自分とは住む世界の違う、大貴族の令嬢であることを物語っていた。
そんな、雲の上の存在のような女性が、町娘のありふれた生活の知恵を、一片の嘘もなく心から認めている。
リネアの胸の奥で、長らく凍てついていた小さな灯火が、ぽうっと赤みを帯びて再燃したような気がした。
その夜の食卓に並んだのは、慎ましい料理だった。
釣ったばかりの新鮮な魚を香ばしく焼いたもの。森で採った山菜の炒め物。それに、堅いパンと澄んだ水。
だが、イシスにとって、この食事は何よりも美味しかった。
銀の食器が静かに響く、静寂に彩られた豪華な一皿よりも、自ら釣り上げ、リネアと他愛のない話をしながら分け合う一匹の魚の方が、ずっと彼女の魂を潤していた。
「イシス様、今日の魚は皮がパリッとよく焼けていますね」
「ええ。リネアが教えてくれたおかげです」
ふっと顔を見合わせ、柔らかな笑みがこぼれる。
その時、ふいにイシスの脳裏を、遠い帝都に残した夫の姿が掠めた。
――ユリウスは、今、何を食べているのか。
カーライル邸での食事は、常に孤独の同義語だった。
広すぎる食卓の端に一人で座り、音もなく運ばれてくる至高の美食を口に運ぶ。向かいの席には常に、埋まることのない虚空があるだけだった。
ユリウスは公務という鎖に縛られ、規則正しく席に着くことすら稀だった。彼は今、どこかで食事を抜いて、冷たい戦場に立っているのだろうか。
「イシス様?」
心配そうなリネアの声に、イシスは我に返った。
「あ……ごめんなさい。少し、考え事をしていました」
「そうですか……」
リネアはそれ以上踏み込まず、卓に置いた古びた小銭袋をそっと揺らした。硬貨が擦れ合う、小さく心細い音が響く。
「そういえばイシス様。私、明日、町へ出かけようと思っているんです。……花を、買いに」
「花、ですか。お部屋に彩りを添えるため?」
「いいえ。――パーティーのためです」
リネアは、この地方に伝わる古い風習を語った。
誕生日の祝宴では、主役の最も好む花を胸に飾るのが、何よりの礼儀とされること。そして、数日後に控えるフォレスト家のパーティーのために、招待状に記された「祖母の好きな花」を用意せねばならないことを。
フォレスト家。
イシスの膨大な知識の引き出しが、その家名を瞬時に照らし出した。
帝国西南を拠点とする地方貴族。当主を亡くし、現在は「大奥様」と呼ばれる先代の妻が差配を振るっている。元は商家でありながら、震災の折に私財を投じて被災地へ木材を無償提供し、その功績で爵位を賜ったという、高潔な歴史を持つ家系だ。
「当時は、『金で爵位を買った』と心ない非難を浴びることもあったそうです」
リネアが、消え入りそうな声で寂しげに呟く。
「でも、私は信じているんです。あのご先祖様の行動は、純粋な善意だったのだと」
イシスは、深く頷いた。
これほど誇り高い家柄に生まれながら、なぜ彼女は今、この朽ち果てそうな小屋で一人、身を潜めるように生きているのか。
イシスは一歩、彼女の領域へ踏み込む決意をした。
「リネア。無理に話す必要はありません。けれど……」
イシスは、リネアの震える指先を包み込むように優しく言った。
「パーティーで貴方を適切に補佐するためにも、私に伝えておきたいことはありませんか?」
数刻の重苦しい沈黙の後、リネアは堰を切ったように告白した。
自身が妾の子であること。父の死後、継母や義母姉妹から受けてきた苛烈な仕打ち。
継母たちにとって、自分は利用価値のある道具ですらなく、ただそこにいるだけで不快な、取るに足らないゴミのような存在でしかなかったこと。
そして、自分を唯一差別なく愛してくれた祖母と、彼女の元から引き離された原因――身に覚えのない「盗難事件」の濡れ衣。
「私は……盗んでなんて、いません。本当です」
リネアは、縋るような思いでイシスを凝視した。
「信じます」
イシスは、間髪入れずに即答した。
「それは貴女への同情ではありません。単なる心象でもありません」
驚愕に揺れるリネアの瞳を見つめ、イシスは穏やかに微笑んだ。
「貴女は、死にかけていた私の指に輝く宝石を、奪おうと思えばいつでも奪えたはず。けれど貴女は石よりも、私の命を選び、介抱してくれた。その高潔な魂こそが、信頼に値するという確信に繋がりました」
リネアの目から、涙が溢れ出した。
「ありがとう……ございます……っ」
声を震わせるリネアを見守りながら、イシスは預かった招待状に目を落とした。
――盗難の汚名を着せてまで追い出した「取るに足らない」はずの娘を、なぜ今さら招待するのか。
――この招待状には、猛毒の針が隠されている。
イシスの研澄まされた知性が、文面の一節でぴたりと止まった。
『お祖母様の好きな花は、月見草です』
「リネア。一つだけ、確認させてください」
イシスは断定的な響きを含ませて問いかけた。
「貴女の継母たちは、今まで一度でも、貴女に慈しみを持って接したことがありますか?」
「……いいえ。ただの一度も」
「ならば。なぜ悪意に満ちた彼らが、貴女に『正しい情報』を教える必要があるのでしょうか?」
リネアは、凍りついたようにはっと息を呑んだ。
「それは、貴女を罠に嵌めるための、偽りの蜜かもしれません」
「でも……どうすれば、お祖母様がすきな花なんて、私には……」
「調べましょう。真実は、誰かの口先ではなく、歴史の中にこそ眠っています」
イシスは、太陽のような確信を持って微笑んだ。
「真実の答えを、掴み取りに行きましょう」
リネアが顔を上げた。その瞳には、絶望を焼き払うような希望の火が宿っていた。
夜の風が木々を揺らし、明日の不穏と希望を運んでくる。




