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四話



「七色の滝壺――」


重厚な石造りの壁に囲まれた執務室に、報告を行う騎士の硬い声が低く響き渡っていた。

ユリウス・カーライルは、窓の外に広がる帝都の景色を、感情の読み取れない冷徹な瞳で見つめたまま、背後で続くその言葉を黙って受け止めていた。


「別名、『虹の門』とも呼ばれる特殊な魔力集積地です。古来より、強大な魔力を帯びた転移の触媒として知られており……」


騎士の声は、どこまでも淡々としていた。私情を一切挟まない、事実のみを羅列する無機質な報告。


「この滝壺の深淵へ落ちた者は、帝国全土に点在する、同様の魔力を帯びた滝壺のいずれかへと強制的に転送されると言い伝えられています」

「……転送、だと」


ユリウスが、地を這うような低い声で呟いた。その背中からは、居合わせる者を震え上がらせるような剣気が、薄氷のように剥がれ落ちる。


「はい。正確な転送先を特定し、予測することは現在の魔法技術では不可能です。北の極寒の辺境から、南の熱帯の海岸まで。帝国全土に点在する、数十箇所に及ぶ候補地のどこか……あるいは、その合間のどこかへ」


つまり。

彼女を、イシスを捜し出すことは、砂漠から一粒の真珠を拾い上げるよりも困難だということだ。

帝国はあまりにも広大だ。魔力の乱れる全ての候補地を一つずつ捜索するには、天文学的な時間と、帝国の軍事力を傾けるほどの膨大な人員が必要になる。


「現在、主要な転送先と推測される地点には、すでに最優先の捜索隊を派遣しております。ですが……」


騎士は一瞬、言葉を濁した。喉を鳴らし、言い難そうに唇を震わせる。


「一週間が経過しましたが、未だ生存のあかしどころか、衣類の一片すら掴めておりません」


静寂が降りる。

ユリウスは、何も答えなかった。

ただ、窓の向こうで重く垂れ込める灰色の雲を、食い入るように見つめ続けている。視界を遮る曇り空は、まるで行く先を失った彼の心そのものを映し出しているかのようだった。

――七色の滝壺。

イシスは、これを知っていたのだろうか。

あの運命の瞬間。「お互いから、解放されましょう」と、悲しげに、けれど清々しく囁いたとき。

彼女は、自分が助かる可能性を知っていて、一縷の望みを懸けてあの言葉を遺したのだろうか。

それとも――。

ただ、私との繋がりのすべてを断ち切りたいと、死すら厭わずあの激流に身を投げたのだろうか。

どちらにせよ。

彼女は自らの意志で、私の隣から永遠に離れる道を選び取った。

それほどまでに。

名ばかりの結婚生活が、彼女の魂を摩り減らすほどに辛いものだったというのか。

自分と共にいることが、彼女にとって息もできないほどの絶望だったのか。

ユリウスの拳が、革手袋の上からでも分かるほど強く握り締められた。指の関節が白く浮き上がり、微かに震える。

だが、その表情に揺らぎはない。

鋼のような自制心で、相変わらず一分の隙もない冷静さを保ち続けていた。


「引き続き、徹底した捜索を――」

「剣聖」


不意に、重厚な扉が音もなく開いた。

現れたのは、皇帝直属の侍従だった。転送魔法のまれな使い手であり、玉座からの勅命を遅滞なくユリウスへ届けるためだけに配された、二人の間を繋ぐ専用の伝令官である。


「陛下より、直々の勅命です」


ユリウスは静かに、けれど鋭い動作で振り返った。

恭しく差し出された金縁の書状を受け取り、封蝋を指先で弾く。

そこには、皇帝の冷徹な意志が宿る簡潔な文章が刻まれていた。


『イシス・カーライルの捜索は、これ以降、専門の調査部隊に一任せよ。剣聖おまえは、即刻、北西辺境にて活発化する高位魔物の討伐任務に赴け。猶予は与えぬ。三日以内に出発せよ』


ユリウスの瞳が、血のように赤い文字を静かに追う。


「……陛下は、何と」

「『剣聖には、剣聖にしか成し遂げられぬ仕事がある』と。そして……」

「……」

「『一個人の捜索など、他の者でも代わりは務まる。帝国の最高戦力であるお前の時間を、そのような些事に費やすのは、帝国にとって取り返しのつかない損失である』と。そう仰せです」


些事——。

侮辱的ですらあるその言葉に、ユリウスは驚かなかった。

あの方は、そういう人だ。

数年前、私とイシスの運命を捻じ曲げたあの日。イシスの天恵を単なる「有益な資源」と見なし、残酷な命令を下した張本人。妻を自らの手で探したいという人間として当然の願いさえ、あの方は冷徹な合理性によって真っ向から否定する。

ユリウスは、書状を握り締めたまま立ち尽くした。

だが、皇帝の言う通りだ。捜索は訓練された兵士たちでもできるだろう。だが、辺境で村々を蹂躙し始めた高位魔獣の首を刈る仕事は、帝国の守護神たる自分にしか務まらない。

皇帝の言葉は、常に「正解」だ。

帝国全体の安寧という天秤に掛ければ、これが最善の選択であることは疑いようもなかった。

でも。

――それでも、私は妻を、イシスをこの手で捜し出したい。

その熱い感情が、心臓の奥底で、かつてないほどの激しさで燃え盛っていた。

自分の手で。自分の瞳で。

彼女を、今度こそ見つけ出したい。

たとえ、彼女が自分を心底拒絶していたとしても。

彼女が不快に感じた全てに、謝罪したかった。彼女の心の声を、一言一句漏らさず聞きたかった。

もう一度、今度こそ夫婦として、人として、真っ向から向き合いたかった。

だが。


「……承知いたしました」


ユリウスの声は、微塵の揺らぎもない平坦なものだった。


「三日以内に万全の備えを整え、出発いたします」


侍従が、張り詰めた緊張からようやく解放されたように、深く安堵の息をついて頭を下げた。


「失礼します」


侍従の足音が遠ざかり、部屋には再び、寒々とした静寂が戻った。

ユリウスは、再び窓辺に立ち尽くしていた。

眉一つ動かさず、表情を崩すこともない。

剣聖として。帝国の守護神として。

個人の感情を、公務という大義の前に表に出すことは決して許されない。

それが、カーライル家に生まれた自分の逃れられぬ宿命だった。

幼い頃から、耳にタコができるほど教え込まれてきた。

『お前は、剣聖となる男だ』

『お前には、戦いを鈍らせる不必要な感情など不要だ』

『お前は、帝国の剣として完璧でなければならない』

その呪縛のような言葉に、今日こんにちまで従順に従ってきた。

どれほど稽古が辛くとも。どれほど孤独に身を焦がされても。

弱さを顔に出すことは、何よりも恥ずべきことだと教えられた。

そして、今も。

最愛であったはずの妻を失ったばかりだというのに。彼女の行方を追うことすら、義務の名の下に禁じられたというのに。

表情一つ、崩すことは許されない。

――重い。

その鉄のような宿命が、両肩に、背に、鉛のようにのしかかっている。

けれど、それを振り払う自由などどこにもない。

自分は、帝国の剣聖なのだから。


ユリウスは、静かに瞼を閉じた。

瞼の裏に、琥珀色の記憶が鮮やかに浮かび上がる。


――それは、学生時代。


初夏の風が吹き抜ける、魔法学院の中庭。

ユリウスは、一人で石造りのベンチに座り、剣の教本を読んでいた。

周囲には、誰一人として寄り付く者はいない。

それが、彼にとっての日常だった。

誰もが、その家名と実力に圧倒され、自分に近づくことを無意識に躊躇していた。

剣聖の家系に生まれ、異例の早さで「天恵」を発現させた早熟の天才。

通例なら16歳の誕生日に天恵が発現すると言われているが、ユリウスはその法則すら軽々と超えていた。

16歳を迎える前に、すでに複数の強力な天恵をその身に宿していることが判明していた。

だから。

誰もが、自分を腫れ物に触れるように特別扱いした。

対等な同級生ではなく。心を通わせる友人ではなく。

ただの、理解を絶した「超人」として。

『ユリウス様なら、これくらい当然ですよね』

『流石、剣聖の血を引くお方は完璧だ』

『あなたにできないことなど、この世にはない』

そんな、無責任な賞賛の言葉ばかりが降り注いだ。

対等な目線で、肩を並べて話す者など一人もいなかった。

ユリウスは、それらすべてを諦めと共に受け入れていた。

これが、選ばれた者が負うべき運命なのだと。

だが、その日。


「あの……」


聞き慣れない、透き通った声がかけられた。

振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。

イシス・ルベドフィア。

魔法学院の主席。赤き知恵を冠するルベドフィア大公家の令嬢。

彼女は、少し緊張した様子で、けれど確かな意志を持ってユリウスの隣に座った。


「次の合同課題、とても難しいですよね」

「……そうですね」

「私、魔法制御の理論構築が少し苦手で……。ユリウス様は、そのあたり、得意でいらっしゃいますか?」

「……得意、というほどではありません。単に、体で覚えているだけです」

「そうですか」

イシスは、ふわりと春の陽だまりのように微笑んだ。

「では、よろしければ一緒に勉強しませんか?」

ユリウスは、反射的に目を見開いた。

「……一緒に、ですか?」

「ええ」


イシスは、力強く頷いた。


「私は魔法制御が苦手ですけれど、基礎魔法理論の解析は得意なんです。ユリウス様は、その逆でしょう?」

「……」

「だったら」


イシスは、真っ直ぐに言った。


「足りないところは、お互いに補い合いましょう」


その言葉に、ユリウスは息を呑んだ。

胸の奥が、熱い何かに貫かれたような気がした。

――足りないところ。

自分に、足りないところがあると。

不完全であっても良いのだと。

そう、彼女だけが言ってくれた。

完璧であることを求めず、一人の人間として、対等に、真っ向から接してくれた。


「……ああ」


ユリウスは、震える声を抑えて、小さく頷いた。


「お願いします。……イシス」


イシスが、弾けるように嬉しそうに笑った。

その笑顔が。

あまりにも温かくて。

眩しくて。

ユリウスは、生涯で初めて、心の底から思ったのだ。

――この人と、いつまでも、ずっと一緒にいたい。

記憶が、そこで残酷に途切れる。

ユリウスは、ゆっくりと目を開けた。

窓の外は、相変わらず陰鬱な曇り空。

灰色の雲が、光を遮りながらどこまでも広がっている。


「……イシス」


その名を、唇だけでそっと呟いた。

誰の耳にも届かないほど、消え入りそうな小さな声で。 


「君に、会いたい。……もう一度だけ」


だが、その切実な願いは虚空に吸い込まれて消える。

ユリウスは、静かに皇帝の書状を机の上に置いた。

三日後には、最果ての辺境へ。

愛する妻を探し出す時間は、彼には一分いちぷんも残されていない。

それが、帝国の剣聖という名の、逃れられぬ運命なのだから。

窓の外で、静かに雨が降り始めた。

音もなく、ただ冷たく。

ユリウスは、その雨筋を見つめていた。

その表情は、何一つ変わらぬ完璧な仮面のまま。

ただ、その瞳の深淵にだけ――。

誰にも、そして神にさえも見せることのできない、暗く深い悲しみが静かに宿っていた。


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