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三話


石畳の通りを歩いていると、不意に前方が騒がしくなった。


「え……?」


リネアが、大切そうにドレスの包みを抱えたまま、驚いたように足を止める。

通りの先では、人々が吸い寄せられるように片側へと集まり始めていた。さざ波のようなざわめきが急速に広がり、やがて誰かが興奮を隠しきれない様子で叫び声を上げた。


「冒険者だ!」

「おい、あの紋章を見ろ……《蒼穹の盾》じゃないか!」

「本当だ! 帝国第二位の精鋭パーティだぞ!」


リネアが、目を丸くしてイシスを振り返った。


「《蒼穹の盾》……。あの、有名な冒険者の方々ですよね?」

「ええ。この国で活動する、魔物の討伐や困難な依頼を請け負う者たちの中でも、指折りの実力者です。剣や魔法を糧に、人々の安寧を守る自由な方々ですね」


イシスは、穏やかながらもどこか熱を含んだ声で静かに答えた。

人垣の向こうから、威風堂々と一行が姿を現した。

先頭を行くのは、岩のようにがっしりとした体躯の男。重厚な鋼の鎧を纏い、背には鈍い銀光を放つ巨大な斧を担いでいる。頬に刻まれた古い傷跡は、彼が潜り抜けてきた死線の数を示しているかのようだった。

その後ろには、深い藍色のローブを羽織った魔術師らしき女性が続く。複雑な装飾の施された杖を手に、凛とした表情で周囲を見渡す彼女の瞳には、知的な光が宿っている。

他にも、獲物を狙う鷹のような眼差しの射手、影のように音もなく歩く斥候。彼らが身につけた武具はどれも使い込まれ、無数の傷が刻まれていたが、それこそが彼らの誇りであることは明白だった。 


「ありがとうございます!」

「街を守ってくれて助かりました!」


民衆が、波打つように口々に感謝の声を投げかける。

先頭の男が、その野太い声を響かせて豪快に笑った。


「おうよ! 森で暴れてた魔物は残らず片付けてきたぜ!


これでしばらくは安心して商売に精を出せるだろうよ!」


「流石です!」

「やっぱり《蒼穹の盾》は格が違う!」


爆発するような歓声が上がる。

冒険者たちは、照れたように鼻の下を掻いたり、あるいは誇らしげに胸を張ったりしながら、民衆の振る手に笑顔で応えていた。

リネアは、その眩しいばかりの光景を、目を輝かせて見つめていた。


「すごい……。みんな、あんなに喜んで……ヒーローみたいですね」


だが、イシスはその場から動かなかった。

ただ、じっと、去り行く冒険者たちの背中を見つめ続けている。

その瞳には、今までの穏やかな微笑みの下には決して見せることのなかった、激しく、切実な光が宿っていた。

リネアは、傍らでその横顔を見てはっと息を呑んだ。

――イシス様が、こんな顔をするなんて。

それは、抑えきれない興味。隠しようのない熱意。そして、魂を揺さぶるような強い憧憬。

川辺で倒れていたときも。質素な小屋で目覚めたときも。先ほど店で毅然とドレスを選んでいたときも。

イシスの表情は、いつも完成された彫刻のように美しく穏やかで、どこか現実から切り離された遠くを見ているようだった。まるで、この世界と自分の間に、決して壊せない透明な壁を隔てているかのように。

でも、今は違う。

その瞳は、確かに熱を持って「そこ」にある現実を射抜いていた。

冒険者たちが、民衆の波に揉まれている。小さな子供が駆け寄り、男が軽々と抱き上げる。初老の女性が、涙を浮かべて深々と頭を下げる。


「ありがとうございます。本当に……本当に助かりました」

「気にすんなって。これが俺たちの仕事なんだからよ」


男が、柄にもなく赤くなった顔で頭を掻く。

イシスの視線が、その温かな光景を一刻も逃さぬよう追っている。

――羨ましい。

そのどろりとした、けれど純粋な感情が、胸の奥底から激しく湧き上がってきた。

ちやほやされることが羨ましいわけではない。称賛の声を浴びることが目的でもない。

ただ。

自分の力で、誰かの困難を払いのけていること。見ず知らずの人から感謝されるほどに、確かに何かを成し遂げられていること。

それが、今の自分にはないものが、たまらなく羨ましかった。

閉ざしていた脳裏に、封印していた記憶が鮮やかに浮かび上がる。


――魔法学院の、広大な講堂。

窓から差し込む陽光が、壇上に立つ若き日の自分を照らし出していた。

『今年度の最優秀主席は、イシス・ルベドフィア!』

割れんばかりの拍手が、高い天井に反響する。厳格な教授たちが、今日ばかりは我が事のように誇らしく目を細めて微笑んでいる。

講堂を飛び出せば、友人たちが次々と駆け寄ってきた。


「すごいわ、イシス!」

「やっぱり貴女ならやると思ってたわ!」


胸が、張り裂けんばかりに高鳴っていた。

嬉しくて、誇らしくて、自分の未来に何の疑いも抱いていなかったあの頃。

『私は、この授かった知恵と力で、この国を、人々を救いたい』

本気で、そう信じていた。

ルベドフィアの名に恥じぬ魔法の才能。それを極限まで磨き上げ、困っている誰かのために使う。

その輝かしい未来が、すぐ手の届く場所に見えていたはずだった。

だが。

――冷たい場面が、上書きされる。

白一色の無機質な部屋。高位の貴族たちが、品定めをするような厳粛な面持ちで一列に並んでいる。

この国では、全国民が16歳の誕生日に天恵の有無を調べられる。天恵、それはその名の通り天からの恵、つまりは固有能力である。

『イシス・ルベドフィア。これより、貴女の天恵を発表します』

老いた官吏が、感情を排した声で羊皮紙を読み上げた。

『写しの天恵、交配相手の天恵を完全に引き継ぐ——子供を授かる器』

その瞬間、世界から一切の色が失われた。

周囲に広がる、卑俗なざわめき。貴族たちの、獲物を値踏みするような、ぎらついた視線。

『これは……国にとって、代えがたい有益な天恵だ』『軍の最高戦力を量産できるぞ』『ルベドフィア大公家も、この栄誉ある義務を断れまい』


大前提として、天恵は遺伝でない。天恵の有無自体は遺伝に大きく関わるとされているが、種類まではその限りではない。

自分の積み上げてきた努力も、磨き上げた魔法も、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。

一人の魔法使いとして。国を守る一人の人間として。

そんな青臭い夢は、たった数行の宣告によって一瞬で消し飛ばされた。

自分という人格は消え、ただの「道具」へと成り下がるのだと。


――イシス。


「イシス様?」


リネアの声が、霧の向こうから聞こえた。


「イシス様……っ!」


肩を揺さぶられ、はっと我に返る。

リネアが、今にも泣き出しそうな、心配げな顔でこちらを覗き込んでいた。


「大丈夫ですか……? なんだか、すごく……すごく辛そうな顔をされていて……」

「……ああ」


イシスは、肺に溜まっていた熱い空気を吐き出すように、小さく息をついた。


「ごめんなさい。少し、昔のことを思い出してしまいました」


視線を、再び冒険者たちの背へと向ける。

彼らは、すでに人波に紛れ、通りの向こうへと去ろうとしていた。名残惜しそうに、けれど笑顔で手を振る民衆たち。

――もし、あれさえなければ。

イシスは、奥歯を噛み締めて静かに思った。

あの呪いのような天恵さえなければ。

私は今、あの場所に立っていたのだろうか。

誰かの涙を拭い、感謝の言葉を受け、誇りを持って何かを成し遂げられる場所に。

自分の意志と、自分の力で、大切な人を守れる場所に。

冒険者たちの鍛え上げられた背中が、遠ざかり、角を曲がって見えなくなる。

イシスは、その残像を追いかけるように見送った。

胸の奥で、燻るような痛みが疼いている。

それがかつての絶望の残り火なのか、それとも新しく芽生えた何かのか、彼女にはまだ分からない。

でも。

確かに、それは熱を持ってそこに存在していた。


「……行きましょう、リネア。日はすぐに暮れてしまいます」

「あ、はい……!」


二人は、再び賑やかな石畳の道を歩き出した。

けれど、イシスの心には、先ほどの光景が、網膜に焼き付く火花のように残り続けていた。

冒険者たちの、屈託のない誇らしげな笑顔。民衆の、心からの、偽りのない感謝。

そして。

自分が手を伸ばしながら、決して触れることが許されなかった場所。

街を吹き抜ける風が、彼女の頬を優しく、けれどどこか厳しく撫でていく。

イシスは、誰にも気づかれないよう、簡素な服の下で静かに、強く拳を握りしめた。


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