二話
リネアの献身的な処置に加え、首の傷が思ったよりも浅く、他に目立った外傷もなかった幸運が重なり、イシスはわずか数日で自立歩行ができるほどに回復を遂げた。
街の中心部は、思ったよりも賑やかだった。
石畳の通りには、色とりどりの看板が軒を連ね、行き交う人々の快活な声が絶え間なく響いている。イシスは、リネアの少し後ろを歩きながら、眩しそうに街の光景に目を細めた。
かつて住んでいた帝都のような、派手さはない。だが、それが今の彼女には心地よかった。地方特有の、大地に根ざしたような落ち着いた風情が、疲弊したイシスの心にはちょうどよく馴染んでいた。
リネアは、緊張した面持ちで周囲を見回していた。質素な麻の服を着た彼女は、華やかな店が立ち並ぶこの通りでは、どこか場違いに見える。
イシス自身も、泥にまみれたドレスを簡素なものに着替えてはいたが、背筋の伸びた立ち居振る舞いはやはり目立つ存在であった。それでも、彼女は周囲の視線を気にしなかった。
「あの……イシス様」
リネアが、消え入りそうな小さな声で呼びかけた。
「あのお店です。この街で一番、ドレスが綺麗だって……」
彼女が指差す先には、大きなガラス窓を持つ小粋な店があった。ショーウィンドウには、一着の絹のドレスが飾られている。淡い水色の生地に、繊細な銀糸の刺繍。午後の光を受けて、それは水面のように優雅に輝いていた。
「素敵なお店ですね」
イシスが微笑むと、リネアは強張っていた表情を少しだけ緩めた。
「はい……ずっと、憧れていて……」
二人は、重厚な造りの店の扉を開けた。
カラン、と涼やかな鈴の音が響く。
店内は、外から見た以上に華やかだった。壁一面には、目も眩むような色とりどりのドレスが並んでいる。サテン、シルク、ベルベット。それぞれが違う光沢を放ち、店内の空気を贅沢に彩っていた。
「いらっしゃ……」
奥から現れた店主――中年の女性――は、二人の姿を認めた瞬間、言葉を切った。その視線は、リネアの質素な服装を、それからイシスの簡易な身なりを、値踏みするように舐めるように動いた。
「……いらっしゃいませ」
数秒の沈黙の後、絞り出された声のトーンは、明らかに温度を失っていた。
「何か、お探しで?」
その言葉には、隠しきれない見下すような響きが含まれている。
リネアが、責められているかのように小さく身を縮めた。
「あの……ドレスを……」
「ドレス、ねぇ」
店主は、不遜な態度で腕を組んだ。
「うちは、それなりのお値段がしますよ。分かってます?」
「は、はい……! あの、貯金を……」
リネアが、懐から小さな巾着袋を取り出した。その中には、大切に貯めてきた銀貨が数枚、心許なげに入っている。
店主の瞳が、一瞬にして北風のように冷酷な光を帯びた。
「……まあ、見るだけならタダだけどね」
イシスは、何も言わなかった。ただ、静かにリネアの隣に立ち、店内を見渡す。
リネアは、壊れ物に触れるのを恐れる幼子のような足取りでドレスに近づいた。淡い桃色のドレス。袖には繊細なレースがあしらわれ、裾には小さな花の刺繍が丹念に施されている。
「これ……」
リネアが、そっと生地に触れた。その指先が、かすかに震えている。
「綺麗……」
「それは金貨三十枚ね」
店主が、素っ気なく突き放すように言った。
リネアの顔が、さっと青ざめる。
「さ、三十……金貨が、三十枚……?」
「他のも、だいたいそれくらい。安くても二十五は下らないわ」
リネアは、自分の巾着袋をじっと見つめた。その中には、せいぜい十枚ほどの銀貨しかない。
「あの……もう少し、お安いものは……」
「ないわね」
店主は、取り付く島もないほど冷たく言い放った。
「うちは、それなりの品を扱ってるの。そこらの安物とは格が違うのよ」
リネアの肩が、屈辱に小さく震えた。彼女は深く俯いて、唇を噛み締める。
イシスは、その様子を静かに、けれど慈しむような眼差しで見ていた。
それから、凛とした足取りで一歩前に出た。
「そのドレスを、いただきます」
店主が、訝しげにイシスを見た。
「……お金、あるの?」
「ええ」
イシスは、静かに右手を差し出した。
その指には、一つの指輪が嵌まっていた。
深い海を思わせる青色の宝石。サファイア。光を吸い込み、内部で星のような六条の輝きが揺らめいている。
店主の目が、驚愕にわずかに見開かれた。
「これで、足りますか?」
イシスの声は、どこまでも穏やかだった。
店主は、射抜かれたように指輪を凝視した。その道で商いをしている以上、一目でそれが尋常ならざる価値を持つことは看破できるはずだ。一瞬、隠しきれない動揺がその顔を走った。 だが、次の瞬間、彼女の顔には醜悪な歪んだ笑みが浮かんだ。
「……ああ、これね」
店主は、わざとらしく鼻で笑い、肩をすくめた。
「悪いけど、こんな安物じゃドレス一つも買えないわよ」
リネアが、隣で息を呑んだ。
「え……でも……」
「見た目は綺麗だけどね。所詮、ガラス玉みたいなもんよ。本物のサファイアとは、放つ気が全然違うわ」
店主は、再び腕を組んだ。
「せいぜい、この店で一番安い装飾品一つと交換ってところかしら」
リネアは、困惑と申し訳なさの混じった様子でイシスを見た。
しかし、イシスは全く動じなかった。
ただ、静かに店主を真っ直ぐに見つめ返す。
「本当に、そう思われますか?」
「当たり前でしょ。私は長年、宝石も扱ってきてるんだから。自分の目利きには絶対の自信があるわ」
「では」
イシスは、指輪を指から外した。
そして、店内のシャンデリアの光にかざす。
「この石の内部に見える、六条の星。これを何と呼ぶか、ご存知ですか?」
店主の表情が、わずかに強張った。
「……スターサファイアね。それくらい知ってるわ」
「ええ。では、この星が現れる条件は?」
「……条件?」
「天然のコランダムに、微細なルチル針状結晶が規則正しく配列されている場合にのみ、この現象は起こります」
イシスの声は、淡々としていた。だが、そこには確かな知識に裏打ちされた重みがあった。
店主が、何かを言いかけて、言葉に詰まったように口を閉じた。
イシスは、指輪を店主の目の前に差し出した。
「この色の深さ。そして驚くべき透明度。内包物がほとんど見られない。これほどの品質のスターサファイアは、極めて稀少です」
「……」
「台座の細工も見てください。この繊細な爪の造形。帝都の一流の職人でなければ、これほどまでに石を際立たせることはできません」
イシスの指が、指輪の細部を美しく示していく。
「もし、これがガラス玉であるとおっしゃるなら」
イシスは、静かに微笑んだ。その微笑みは、かえって店主を追い詰めるような鋭さを持っていた。
「鑑定士を呼びましょうか。この街にも、商業ギルドの公認鑑定士がいらっしゃるはずです」
店主の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「彼らに正式な鑑定をしていただければ、この石の価値は誰の目にも明らかになります。そして……」
イシスの声が、ほんの少しだけ、真冬の空気のような冷たさを帯びた。
「もし、あなたがプロでありながら意図的に価値を偽っていたと判明すれば……不当な取引、あるいは詐欺として、商業ギルドから除名され、訴えられることになるでしょうね。」
沈黙が、重く店内を満たした。
店主は、何度か金魚のように口を開閉させた。その額には、びっしりと脂汗が浮かんでいる。
「……っ」
やがて、店主は逃げ場がないことを悟ったように、観念した息を吐いた。
「……失礼いたしました」
先ほどまでの威勢はどこへやら、声が細く震えている。
「確かに、その指輪は……おっしゃったとおりの価値がございます」
「では」
「ドレス一着と……あと、何か装飾品も、お付けしましょう。最高のショールも、靴も、手袋も……」
店主は、慌てて奥へと引っ込んでいった。
リネアは、呆然としたままイシスを見つめていた。
「イシス様……」
「大丈夫ですよ、リネア」
イシスは、優しく微笑んで彼女の肩を抱いた。
「あなたの祖母様のパーティー、素敵なドレスで行きましょう」
リネアの大きな瞳に、大粒の涙が滲んだ。
「ありがとう、ございます……本当に……」
やがて、店主が戻ってきた。先ほどの桃色のドレスに加え、雲のように軽い絹のショール、繊細な装飾の施された靴、そして最高級のレースの手袋を、捧げるように抱えている。
「こちらで、よろしいでしょうか……」
態度は、完全に平伏したものに変わっていた。
「ええ。それでは、指輪を」
イシスは、迷うことなく指輪を差し出した。
店主が、恐る恐る、震える手でそれを受け取る。
その瞬間。
イシスの胸に、古い記憶が鮮やかに去来した。
――宝石の部屋。
それは、貴族邸の奥深くにある、冷たく静まり返った一室。そこには、数え切れないほどの宝飾品が整然と並んでいた。
指輪、ネックレス、ブレスレット、ブローチ。それぞれが、一流の品。きらめく宝石たちが、密やかな光を放って部屋を埋め尽くしていた。
一つ一つが、夫であるユリウスからの贈り物。
そして一つ一つが、彼が職務を優先して欠席した、数多のパーティーの穴埋めとしての証。
間違いなく、華やかで。美しい。しかし、それらはイシスに"別の感情"を呼び起こさせた。
あの部屋に一人で立ち、石の冷たさに触れるたび、イシスは自問した。これは、愛の証なのだろうか。それとも、彼の罪悪感の形なのだろうか。
ユリウスの優しさ――気遣いであることはわかっている。痛いほどに。
職務よりパーティーへの出席が優先されるべきだとも思っていない。
でも。
煌びやかなパーティー会場で一人、椅子に座り続ける。周囲では、令嬢たちが扇子の陰で噂話に花を咲かせている。
「剣聖様、また来ていらっしゃらないのね」「ええ、奥方様はいつもお一人。まるで見せ物だわ」「可哀想に。いくら宝石を贈られても、愛されていないのかしら」
聞こえないふりをした。気高い微笑みを保ち続けた。
けれど帰宅すれば、またテーブルの上に新しい宝石が届いている。
増えていく宝石。反比例して深まっていく、底なしの"別の感情"
――ああ。
イシスは、静かに目を閉じた。
指輪の冷たさが、手から離れていく。
ユリウス。ごめんなさい。
あなたの不器用な想いを、私はこんな形で手放してしまって。
でも。
これで、いいのだと思う。
あの冷たい部屋も。あの数多の宝石も。あの孤独なパーティーも。
もう、今の私には必要ない。
指輪が完全に手から離れた瞬間、イシスは何かが体から軽くなるのを感じた。
かすかな罪悪感。そして、それを上回る圧倒的な解放。
その両方が、静かに胸の中で溶け合っている。
「イシス様……?」
リネアの心配そうな声に、イシスははっと我に返った。
「……大丈夫です」
心からの微笑みを浮かべる。
「さあ、帰りましょう」
リネアは、大切そうに、壊れ物を扱うようにドレスの包みを抱えていた。その顔には、まだ信じられないというような幸福な表情が浮かんでいる。
二人は、店を出た。
カラン、と鈴の音が、また響く。
石畳の通りには、穏やかな午後の光が降り注いでいた。
リネアが、何度も何度も、こぼれるようにお礼を言う。
イシスは、ただ穏やかに微笑んで頷き続けた。
ふと、指輪を嵌めていた左手の指を見つめる。
そこには、長年の習慣が残したうっすらとした跡があった。
けれどやがて、それも新しい生活の中で消えていくだろう。
風が、優しく頬を撫でていく。
イシスは、静かに目を閉じた。
――さようなら。
その言葉は、誰の耳にも届かないほど小さく。けれど、彼女の心の中で、かつてないほど確かに響いていた。




