二十話
南部の宿場町。陽光が石畳を照らし、潮風が街を吹き抜ける中、ギルドから少し離れた森の入り口で一つの異変が起きていた。
ユリウスが選んだ偽名は「ユリ」。
そのあまりに投げやりな響きに、イシスは「もう少し捻りようがあったのではないか」と脱力したが、本人は至って真面目な顔で「覚えやすい」と断言した。
「ユリ、そっちに行ったわ!」
ある日の討伐任務。茂みの奥から飛び出したのは、屈強な筋肉を鎧のように纏ったオーガだった。
以前のイシスであれば、数十分は死闘を演じたであろう強敵だ。イシスが鋭い氷晶の矢を放って牽制し、追い込んだ先には、なまくら刀を手にした「ユリ」が佇んでいた。
ユリウスはあくびでも出そうなほど平然とした顔で、手近な武器屋の二等品を無造作に一度だけ振った。
――閃光。
音さえも置き去りにした一閃。
魔物は自らの身に何が起きたか理解する暇もなく、糸が切れた人形のように、縦に二つに割れていた。
「あ……」
あまりの効率の良さと、実力差の不条理。
イシスは呆然とした後、こみ上げてくる複雑な思いを隠せなかった。
自分がかつて死力を尽くして戦った相手が、こうも簡単に処理されてしまう。
その姿に、彼女の顔にわずかな陰りが差す。
それに気づいたユリウスが、急に不安げな顔をしてシュンと肩を落とした。
「すまない……何か、不快にさせることをしてしまっただろうか……?」
帝国最強の男が、子犬のように怯える姿。
そのギャップに耐えきれず、イシスは思わず吹き出した。
「ふふっ……ねえユリウス、それ反則よ。新米冒険者のやる仕事じゃなくなってるわ。街のバランスが壊れてしまう」
「……最短距離で最大の成果を出すのが、私の教えられた戦い方だ。手加減というのは……非常に難しい」
大真面目に答える夫に、イシスは涙が出るほど笑った。
しかし、その「自由」の結果、街のギルドには静かな激震が走っていた。
ユリウスがあまりにも効率的に、かつ完璧に依頼を片付けてしまうため、掲示板から高難度の依頼が消え失せてしまったのだ。
「おい、あの新入りの『ユリ』って奴、何者なんだ?」
「さあな。だが、あの剣捌き……ただの人間じゃねえぞ。もしかして、どこかの軍の脱走兵か?」
酒場では冒険者たちの注目を一身に浴び、注目の的となっている夫。
イシスは宿屋の部屋に戻るなり、深い溜息をついて彼をたしなめた。
「ユリウス、もう少し手加減して。目立たないでって約束したでしょう? このままだと正体がバレるのも時間の問題よ」
「……努力はしているのだがな。これでも三割の力も出していない」
「三割でそれなのね……」
そんな折、ユリウスの実力に嫉妬し、手柄を横取りしようと目論む素行の悪い冒険者たちが絡んできた。
当然、ユリウスの相手になるはずもなかったが、事件はその帰り道に起きた。
ユリウスが食料の買い出しで少し目を離した隙に、先ほど退散したはずの男たちが、今度は一人になったイシスを狙って包囲したのだ。
「おい、姉ちゃん。あのスカした相棒がいなけりゃ、ただの女だろう?」
下卑た笑みを浮かべる男たち。
しかし、彼らは大きな計算違いをしていた。
かつてのイシスは、帝都の冷たい屋敷で、生きる気力さえ失っていた。だが、彼女は冒険者としての修行の日々、そして毎日欠かさず魔力の練成を続けてきた。
さらに、あのダンジョンでの絶体絶命の死闘が、眠っていた彼女の感覚を完全に叩き起こしていた。極限状態での魔力行使は、衰えていた彼女の回路を強引に焼き直し、今や全盛期の半分ほどの魔法出力が、いつでも放てる状態で指先に満ちていたのだ。
イシスは静かに目を閉じた。
彼女の周囲に、琥珀色の魔力が蛍のように舞い、一瞬で大気を凍らせる。
「やめなさい。怪我をさせたくないわ」
「あ? やれるもんならやってみろ――」
男が踏み出した瞬間、イシスの指先から極彩色の魔法障壁が展開され、同時に鋭い衝撃波が放たれた。
それは単なる力任せの破壊ではない。精密な計算に基づき、相手の重心を的確に奪い、魔力の奔流で神経を一時的に麻痺させる流麗な魔法。
男たちは宙を舞い、石畳の上で無様に転がった。
宝石のような魔力の残滓が夜道に美しく輝き、彼女の圧倒的な実力差を証明していた。
そこへ、食料の入った袋を提げたユリウスが、風を裂くような速さで駆け寄ってきた。
「イシス! 怪我はないか!?」
彼は袋を地面に落とすことすら厭わず、過保護なほど入念に彼女の肩や手を取り、傷がないかを確認する。
震える指先が彼女の無事を確かめると、ようやく深く、喉の奥で安堵の吐息を漏らした。
しかし、その安堵は一瞬で氷結した。
地面に転がり、呻き声を上げている品性の欠片もない冒険者たちの姿を見た瞬間、彼の脳裏に忌まわしい記憶が鮮烈に蘇ったのだ。
光の洪水に包まれた夜会会場。
独り壁際に立ち、心ない嘲笑と下卑た視線に晒されていた彼女の姿。
そして、彼女を侮辱したあの男――エドワード・グラナドの顔が。
実際に目にしたわけではない。
この地方へ来ることになったきっかけのあのパーティーで、令嬢たちの噂を聞き、彼女の置かれてきた状況を推測し、想像したにすぎなかった。
「……ああ、そうだ。以前、夜会で君に無礼を働いていた侯爵……エドワードだったか」
ユリウスの翠眼が、一瞬にして温度を失った。
それはもはや「ユリ」という一介の冒険者の目ではない。
冷徹な『剣聖』の眼差しだった。
「え? ええ、そんな人もいたわね。急にどうしたの、あんな昔のこと」
イシスが不思議そうに首を傾げると、ユリウスは静かに、けれど逃げ場のないほど重い声で告げた。
「ああいう時は、絶対に私に言って欲しい。君を蔑む権利など、この世の誰にもないのだから」
その静かな殺気に、イシスは背筋が凍るような戦慄を覚えた。
彼があの日、指輪一つを手がかりに、地位も名誉も、そして皇帝への忠誠さえもかなぐり捨てて自分を追ってきた……その執念の深さを思い知らされたからだ。
「ねえ、ユリウス。……貴方、まさかその人、殺してないわよね?」
ジト目で覗き込むイシス。
ユリウスはわずかに視線を逸らし、あの日、迎賓館の隅でエドワードの腕を掴み、その骨がミシミシときしんだ感触を思い出していた。
「……。ああ、もちろん。私がそこまで理性が効かない男だと思っているのか?」
「だって、貴方がそんな風に怒ったところなんて、初めて見たんですもの。……本当なの?」
重なる追及に、ユリウスは淡々と、けれど残酷なまでの事実を口にした。
「……本当だ。命までは取っていない。ただ、社交界からは引退し……物理的に、二度と表舞台で誰かを傷つけるような力は入らぬ体になったはずだ」
「ちょっと!……… 貴方、本当にあのユリウスよね?」
イシスは呆れたように声を上げた。
だが、その実、彼女の胸の奥は言葉にできないほどの温かさに満たされていた。
かつての彼は、感情を見せず、ただ淡々と公務をこなす精密機械のような守護者だった。
けれど今の彼は、自分のために憤り、自分のために過去の罪を裁き、自分のために理性を揺らし続けている。
「……私もこうやって身を守れるようになったのだし、たとえ私の為でも、あまり怖いことはしてはいけないわよ。いい?」
「善処しよう。……だが、君を侮辱する者を見過ごすことだけは、約束できない」
イシスはもう一度深い溜息をつくと、それから降参したように微笑み、自分を愛しすぎる不器用な夫の手を、そっと、けれど力強く握りしめた。




