十九話
翌朝、フォレストの屋敷を包む朝霧が晴れゆく中、ユリウスとイシスは一区切りをつけるためにリネアとアデリアのもとを訪れた。
「数日の間、不躾なお願いを聞き届けてくださり、感謝いたします。フォレスト男爵家の慈悲、忘れません。……私たちは今日、この屋敷を出ようと思います」
ユリウスが深く頭を下げ、イシスもそれに倣った。
リネアは心底名残惜しそうに、イシスの手を両手で握りしめる。
その立ち姿には、かつてのオドオドとした気弱な少女の面影はもうなかった。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、相手の目を見て言葉を紡ぐその姿は、厳しい訓練を乗り越え、貴族の令嬢としての自覚と強さを手に入れつつある一人の女性のそれであった。
「そんな、お礼なんて……。せっかくお身体も回復されたのですから、いつまでもここにいてくださっていいのですよ。ねえ、お祖母様?」
リネアの屈託のない申し出に、ユリウスは改めて彼女の正面に立ち、居住まいを正した。
そして、一国の英雄としての威厳を脱ぎ捨て、一人の男として、魂の底からの謝意を込めて深く、深く頭を下げた。
「リネア殿。……妻の命を、イシスを救ってくれたのは貴女だと聞きました。貴女の勇気と献身がなければ、今の私はありません。私の命を救ってくれたのも同然です。……本当に、ありがとうございました」
その声は微かに震えており、彼がどれほどの絶望から彼女によって救い上げられたのかを物語っていた。
リネアは一瞬、かつてのように縮こまりそうになったが、すぐにイシスの顔を見て微笑み、凛とした声で返した。
「ユリウス様……。私は、イシス様の優しさに救われた一人に過ぎません。救われたのは、私の方なのです」
その立派な物言いに、アデリアは満足げに目を細めた。
だが、彼女の瞳の奥には依然として現実的な冷静さが宿っている。
(……これ以上の長期滞在は危険だわ。帝国最強の剣聖が公務を離れてここに長居している事実は、諸刃の剣。もし皇帝陛下の耳に入り、不興を買えば、フォレスト家そのものが連座しかねない)
アデリアは孫娘の肩にそっと手を置き、静かに首を振った。
「リネア、お二人にはお二人なりの考えがあるのよ。……お二人とも、お気になさらないで。フォレスト家は、ただ旧知の友人を迎え入れただけ。それ以上でも以下でもありませんわ。どうか、お元気で」
その言葉の裏にある「これ以上、深入りはさせない」という貴族的な境界線を、ユリウスとイシスは即座に理解した。
深入りさせないことこそが、今の自分たちがフォレスト家に返せる唯一の義理でもあった。
屋敷を辞した二人は、次に世話になった冒険者、ダリウスたちの溜まり場へと向かった。
宿場町の酒場では、あのダンジョンでの戦いが「未曾有の魔物暴走」として、今も熱を帯びた話題となっていた。そして、その古来の魔物を討伐した英雄は、「ルベドフィア魔法学院教授_カイル・クロムウェル」であるという話で統一されていた。
はじめ、カイルはその提案を断固として拒否した。
「冗談じゃない。僕が、剣聖の功績を横取りするなど……!」
しかし、ユリウスとイシスは彼に食い下がった。
「皇帝の情報網からすべてを隠し通せるとは思っていない。でも、少なくともこの町の人々に……ただの『ロゼ』として接してくれた彼らに、不必要な衝撃を与えたくないの。私は、この町での平穏な思い出を汚したくない」
イシスの切実な願いを受け、カイルは渋々ながらも了承した。
カイル・クロムウェルにとって、魔法研究こそが人生の至上命題だった。
学生時代、婚約者としてではなく、その深淵を共に歩める才能を持つイシスに惹かれたのは、極めて自然な成り行きだった。
彼は一度として、ユリウスから彼女を強引に奪おうなどと考えたことはない。
数年前のあの日、皇帝の無理難題からイシスを守り抜けるのは自分ではない、帝国で唯一ユリウスだけだということも、最初から理解していた。
ただ、風の噂で「二人の仲が冷え切っている」と聞いた時だけ、もし彼女が救いを求めるなら、研究室の片隅にでも彼女の居場所を作ろうと、静かに覚悟していたに過ぎない。
だが、あの戦地で、互いの魂の欠片を埋め合わせるような二人の強い絆を見て、彼の迷いは綺麗さっぱりと晴れていた。
今の彼にあるのは、ただの友人としての親愛だ。
「……君のためだ。一度だけ、この汚名を――いや、過分な名誉を引き受けよう。学生たちにも厳重に口止めはしておいた。安心して『冒険者』とやらを謳歌するといい」
カイルは眼鏡の奥の瞳を和らげ、二人の幸福を願って身を引いた。
「恩にきる、カイル」
ユリウスの感謝の言葉に、カイルは短く鼻で笑って背を向けた。
昼間から立ち込めるエールの香りと、安堵の入り混じった喧騒。
その騒がしい店内の最奥、少しばかり薄暗い隅のテーブルに、共に戦ったダリウス一行の姿があった。
二人は目立たぬよう足早に歩み寄り、彼らのテーブルを囲むように腰を下ろした。
「おう、ロゼ! 無事だったんだな。あのカイル教授ってのは、相当にできる奴だったんだな。街中あの話で持ち切りだぜ」
リーダーのダリウスが声を潜めつつも、快活に笑いかけてくる。
「……ん? 隣の色男は誰だ? 」
ダリウスの大きな手が、ジョッキを運ぶ途中で止まった。
ユリウスは周囲に聞き耳を立てる者がいないか一瞥すると、身を乗り出し、ダリウスたちだけに聞こえる低い声で告げた。
「私の本当の名は、ユリウス・カーライル。聖剣騎士団の末席に名を置く者だ」
「……は?」
ダリウスの目が皿のように見開かれ、喉が鳴った。
「……え、カーライル卿? あの、帝国最強の『剣聖』様だってのか……!?」
裏返りそうになるダリウスの声を、ユリウスは静かに手で制した。
周囲の冒険者たちは相変わらず騒いでいるが、このテーブルだけはまるで結界を張ったかのように、静まり返っている。
「公にはカイル殿の功績だ。私たちはしばらく、この町でただの冒険者『ユリウス』と『ロゼ』として働きたいと思っている」
一瞬の沈黙の後、ダリウスは豪快に笑い飛ばした。
「へへ、剣聖様が俺たちの仲間かよ! 道理であり得ねえほど強いわけだ。違和感しかねえが……光栄なこった。あんたがそう言うなら、俺は何も言わねえぜ!」
リーダーの言葉に、金縛りにあっていた仲間たちが、ようやく深く吐息をついた。
「やっぱり……ただ者じゃないと思ってたわよ。でも、まさかあの『剣聖』の妻だったなんて……」
魔法使いのエリナが、少しだけ寂しそうに、けれど誇らしげに目を細めた。彼女の手元には、イシスから教わった高度な魔法理論のメモが大切そうに抱えられている。
「ロゼ……いいえ、イシス様。貴女に教わった知識は、私の一生の宝物よ。でも、明日からはまた『ロゼ』として、一緒に研究をしてくれるんでしょう? 私はまだ、貴女に追いつけていないんだから」
「ええ、喜んで。エリナ」
イシスが優しく微笑み返すと、隣で治癒士のオズワルドが静かに眼鏡を押し上げた。
「イシス様。以前、無償で治療した際の薬代を請求しなくて本当に良かったです。……まさか大貴族のご令嬢だったとは。次はしっかり『冒険者価格』で頂戴しますからね」
「ふふ、お手柔らかにお願いするわ、オズワルド」
その冗談に、弓使いのフィンがいつもの調子で割って入った。
「ちょっと待ってくれよ! それじゃ俺、帝国最高のレディに恋愛相談をしてたってことか? うわ、急に緊張して心臓が止まりそうだ……」
フィンの大仰な仕草に、テーブルの周囲だけで温かな笑いがこぼれる。
ユリウスは、そんなイシスたちのやり取りを眩しそうに見つめていた。
彼が知らない間、彼女はこの地で、自分の意志で歩んでいた。
ただ守られるだけの存在ではなく、その深い知性と誠実な心で誰かを救い、リネアやこのパーティの確かな信頼を勝ち取っていたのだ。
(ああ……君は、自分の力で居場所を見つけたんだな)
冷たい檻のような帝都では決して見せることのなかった、生気溢れる彼女の横顔。
他者のために知恵を絞り、微笑み、共に汗を流す――。
彼女が失いかけていた「生」の輝きを取り戻した過程を想像し、ユリウスの胸は熱い尊敬の念に焦がされた。
ユリウスは突然、椅子から立ち上がった。
そして、酒場の狭く、飲みこぼしに汚れた粗末な床を厭うことなく、騎士としての最上級の華麗さをもって、スッと右膝を地面につけた。
「――妻、イシスを人として慈しみ、彼女の居場所を作ってくれたこと、心から礼を言いたい。……本当に、ありがとうございました」
完璧な背筋の伸び、計算された指先の角度。
酒場の片隅にはおよそ不釣り合いな、高潔な騎士としての礼装を彷彿とさせるその仕草に、ダリウスたちは完全に面食らった。
「お、おいおい! 勘弁してくれよ剣聖様。膝をつくのは俺たちのほうだって!」
「いや、私は今、一人の男として感謝を述べているんだ。どうか、受け取ってほしい」
頭を下げたまま動かないユリウスに、イシスは琥珀色の瞳を潤ませながら、そっと彼の肩に手を置いた。
剣聖としての義務でもなく、他人のための献身でもない。
ユリウスが初めて、自分の意志で、自分の大切なものたちのために捧げた「感謝」。
その誠実な祈りは、酒場の喧騒に消されることなく、仲間たちの心に深く刻まれた。




