十八話
翌朝、フォレストの屋敷を訪れたのは、抜けるような青空に似つかわしい陽気な男だった。
聖剣騎士団副団長、ローガン。
彫りの深い端正な顔立ちに、どこか茶目っ気のある瞳を輝かせた、街を歩けば誰もが振り返るような華のある男だ。だが、その甘いマスクに反して、戦場を支配する戦術眼においては右に出る者がいない。
部屋に入るなり、ローガンは窓辺の柔らかな光の中で寄り添う二人を見て、芝居がかったほど大きく両手を広げた。
「いやー、よかったよかった! まさか本当に見つけ出すとはな。おいユリウス、その顔。そんなに幸せそうなお前、生まれて初めて見たぜ」
「……ローガン、騒々しいぞ」
ユリウスは困ったように眉を下げたが、その声には以前のような刺々しい峻烈さはない。
イシスもまた、ローガンの屈託のない笑顔に毒気を抜かれ、自然と頬を緩めた。
「初めまして、ローガン殿。主人がいつもお世話になっております」
「やめてくださいよ奥様! 幼馴染のよしみで無理やり副団長に据えられてるだけですから」
ローガンは感慨深げに二人を交互に見つめた。
ユリウスが初めて見せる、一人の男としての柔らかな表情。そして、それを慈しむように見守るイシスの琥珀色の瞳。
(相変わらずの美男美女だが、醸し出す雰囲気が以前とはまるで違う。冷え切った剣の間合いじゃなく、ちゃんと熱が通ってやがるな)
感心するローガンを余所に、ユリウスの瞳にスッと「騎士」としての光が戻った。
「ローガン。戦況はどうなっている。私が戦線を離脱して、防衛線に綻びは出ていないか」
その切り替えの早さに、ローガンは内心で苦笑した。
(――相変わらずだな、こいつは)
イシスもまた、真剣な表情でローガンを見つめている。二人の想いは通じ合った。しかし、彼らは己の幸福に酔いしれ、果たすべき責任を忘れるほど幼くはない。自分たちの立場と、帝国における「剣聖」の重みを、誰よりも理解していた。
ユリウスは、剣聖としての地位を捨てたわけではない。いや、捨てられなかった。
彼が身を犠牲にしてまで国に尽くし、心を磨り潰していたことが問題なのであって、彼が帝国最強の守護者であるという事実に変わりはない。その剣を求めて止まない無垢な国民を守ることは、今も二人にとって最優先事項であった。
(やれやれ、相変わらず気高い奴らなこった。まずは自分たちの幸せを噛みしめりゃいいものを)
だが、そんな不器用な誠実さこそが、ローガンがこの男を信じ、背中を預ける理由でもあった。ローガンはニカッと白い歯を見せて笑った。
「大丈夫だ。お前がいない間、俺たちも遊んでたわけじゃない。……それに」
ローガンは少しだけ真面目な顔になり、ユリウスの肩を力強く叩いた。
「俺は嬉しいよ。お前が、あの不敗を義務付けられた『不壊の剣聖』様が、不備を承知で俺を頼ってくれたことがな」
「……ローガン」
「陛下へは、先の魔物との戦闘で負傷し静養中だとでも適当に言い訳しとくさ。まぁ、お前が怪我で動けなくなるなんてあり得ない話だが……。とにかく、しばらくはこの街でゆっくりしてろ。本当にヤバくなったら、騎士団最速の空間魔法の使い手を寄越して、時間差なく呼びに来てやる。それまでは、このローガン副団長に任せておけ!」
そう言ってローガンは、風のように軽やかに部屋を去ろうとする。ユリウスは深く、丁寧に頭を下げた。
「恩にきる、ローガン。ありがとう」
「よせ。今まで返せねーほどの借りをお前からもらってるんだ。これでもまだまだ足りないくらいだぜ」
ひらひらと手を振り、ローガンが廊下へ出た。その背中を、イシスは静かに追いかけた。
「ローガン殿」
階段の踊り場で呼び止めると、ローガンは「おっと」と足を止めて振り返った。窓から差し込む陽光が、彼の整った横顔を照らしている。
「ローガン殿、必ずご無事で戻ってきてください」
イシスの切実な眼差しに、ローガンの笑みが少しだけ和らいだ。
「ユリウスは、人としての感情をようやく表に出せるようになりました。もし、彼がこの地で安らぎを得ている間に、貴方や騎士団、何より国民に何かあったら……。彼は一生、自分を許さないでしょう。ようやく手にしたこの幸福を、呪いのように感じてしまうはずです」
ローガンは少し目を見開いた。
かつてユリウスが魔法学院に通っていた頃、彼は一度だけ「想い人がいる」と聞いて、こっそり学院までイシスを見に行ったことがあった。その時は、すべてが完璧な、触れれば壊れそうな「箱入りのお嬢様」だという印象を受けた。
だが、目の前の女性は違う。ユリウスの魂の危うさを誰よりも理解し、その逃げ道すらも慈愛で守ろうとしている。
「……なるほど。ユリウスが惚れ抜くわけだ。こんな妻がそばにいるなら、あいつはもう大丈夫だな」
ローガンは照れ隠しに鼻を擦ると、少し誇らしげに胸を張った。
「安心してください。俺の天恵は、これでも優秀なんですよ。『采配の天恵』――。戦場を碁盤のように俯瞰して捉えることができるんです」
「采配の……?」
「ええ。色々と制約はありますが、味方一人一人の視界を共有し、敵の次の一手がどう出るか、どちらが勝つかが盤面を見るように分かる。こう見えて知将なんですよ、俺は」
冗談めかして笑うローガン。だが、その力があるからこそ、彼は絶対的な力を持つユリウスの隣で副団長を務め、全軍の指揮を執れるのだ。イシスはその真の力と、彼の深い友情を悟り、深く一礼した。
「よろしくお願いいたします。……どうか、彼らの帰る場所を、守ってください」
「任せとけって。じゃあな、奥様!」
今度こそ、ローガンは颯爽と屋敷を後にした。
イシスが部屋に戻ると、窓際でユリウスが待っていた。
「何を話していたんだ?」
「少し、お礼を言っただけよ」
イシスは微笑んだ。その穏やかな表情に安心したのか、ユリウスは彼女を吸い寄せられるように優しく抱き寄せた。
「……ありがとう、イシス」
「何が?」
「君がいてくれて。……俺を、一人にしないでくれて」
二人は並んで窓の外を見た。
街道を馬で駆けていくローガンの姿が見える。彼は一度だけ振り返り、こちらへ向けて大きく手を振ると、夕陽の残光を背負うようにして、颯爽と去っていった。
「……いい友人を持ったわね」
「あぁ」と、ユリウスが深く頷く。
その声には、もう迷いはなかった。
帝都の最奥、漆黒の帳が下りた皇宮の一室では、冷え切った空気が張り詰めていた。
「……報告せよ」
重厚な執務机の向こう側から、低く、地を響かせるような声が響く。若き皇帝は、机上に広げられた帝国の地図を指先でなぞりながら、跪く伝令係を冷徹な眼差しで見下ろしていた。
伝令係の背中には、嫌な汗が伝っていた。彼は皇帝直属の「眼」として、私情を排し真実のみを運ぶよう訓練された隠密である。ユリウスやローガンの事情に配慮する余地はなく、見たままを報告することだけが彼に許された唯一の義務だった。
「はっ。……剣聖ユリウス・カーライル、および副団長ローガン。両名は南部宿場町にて合流を確認。その後、ユリウス卿はローガン副団長に全権を委任し、自らは任務を離脱。同地に留まっております」
「ほう……?」
「ユリウス卿の傍らには、死んだはずの妻、イシスの姿を確認。現在、両名はフォレスト男爵の屋敷にて静養中とのことです」
報告を終えた伝令係は、床に額を擦り付けたまま身を硬くした。軍務を放棄し、死を偽装した妻と密会している――それは明白な軍規違反であり、皇帝への反逆とも取れる行為だ。伝令係は、皇帝が激昂し、即座に断罪を下すだろうと予感していた。
しかし、沈黙を破ったのは、怒号ではなく「笑い声」だった。
「ふ、ふふ……。くくっ、あはははは!」
喉を鳴らし、心底楽しそうに皇帝は笑い始めた。それは、長年待ち望んでいた願いがようやく叶った瞬間に立ち会ったかのような、法悦に満ちた笑いだった。だが、その響きには慈悲も、ましてや純粋な祝福など一片も含まれていない。
皇帝は地図上の南部を指先でトントンと叩き、三日月のような、昏い光を宿した笑みを浮かべた。
彼はそのまま、地図上の南部を慈しむように、あるいは獲物をいたぶる前触れのように、ゆっくりとなぞった。その表情には、邪悪とも純粋ともつかない、形容しがたい愉悦が張り付いている。
彼はそれ以上、ユリウスの処遇についても、イシスの生存についても触れなかった。ただ、暗い部屋の中で一人、冷酷な笑みを深めていく。
その様子を、扉の隙間の影から、フレデリカが静かに見つめていた。
彼女の瞳に、怯えの色はない。ただ、冷徹なまでに静かな光を宿し、異様な愉悦に浸る皇帝を冷ややかに観察していた。
フレデリカは無言のまま、薄闇に溶けるようにその場を去った。
皇帝が何を目論んでいるのか。そして、その悪意がユリウスとイシスにどのような影を落とすのか。
彼女はそれを分かった上で、自らの内で密かに思考を巡らせる。
闇に消えていく皇帝の笑い声を背中で聞きながら、フレデリカはただ黙って、来るべき嵐の予感を見据えていた。




