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一話


意識が浮上する。

最初に感じたのは、薬草の香りだった。仄かに甘く、どこか懐かしい匂い。それから、柔らかな光。瞼の裏を優しく染める、昼下がりの陽射し。

遠くで、鳥が鳴いている。

イシスは、ゆっくりと目を開けた。

見知らぬ天井。木材を組んだだけの、飾り気のない造り。壁には漆喰も塗られていない。節だらけの板が、そのまま剥き出しになっている。

――ここは、どこだろう。

疑問は淡々としたものだった。驚きも、恐れもない。ただ、事実を確認するような静かさ。

首に、鈍い痛みがあった。手を伸ばせば、布が巻かれているのが分かる。包帯だ。丁寧に、何重にも。

――ああ、そうか。

記憶が戻ってくる。

断崖。滝壺。ユリウスの、あの顔。

「お互いから、解放されましょう」

自分が言った言葉が、耳に蘇る。それから、落下の感覚。風に攫われ、水飛沫に包まれて――

――生きている。

その事実に、喜びはなかった。悲しみも、ない。ただ、そうなのか、と思うだけ。

死んでしまってもよかった。でも、生きていた。

それだけのこと。

イシスは、静かに息を吐いた。身体を起こそうとして、思ったよりも力が入らないことに気づく。腕が震え、視界が揺れた。


「あ、あの……!」


戸口から、慌てた声が響いた。

イシスが顔を向けると、少女が立っていた。まだ十代半ばだろうか。栗色の髪を後ろで一つに結び、質素な麻の服を着ている。両手には木の器を抱えていて、その中で水が揺れていた。


「目が、覚められたのですね……! よかった……」


少女は器を慌てて卓に置くと、小走りでイシスに近づいてきた。その動きには、どこか遠慮がある。近づきすぎないように、という配慮が感じられた。


「すみません、こんな粗末な場所で……。でも、他に運べる場所がなくて……」

「いえ」


イシスは、穏やかに首を横に振った。


「助けていただいたのですね。ありがとうございます」


少女は、ほっとしたように胸を撫で下ろした。それから、おずおずと尋ねる。


「お怪我の具合は……いかがでしょうか。首の傷……あの、私、できる限りのことはしたのですが……もし、痛みが強いようでしたら……」

「大丈夫です」


イシスは、自分の首に触れた。痛みはあるが、耐えられないほどではない。むしろ、よくここまで治療してくれたものだと思う。


「あなたが、手当てを?」

「はい……。薬草を使って、止血を……。でも、もっと上手な方なら、もっと早く……」


少女の声は、どんどん小さくなっていく。自信のなさが、言葉の端々に滲んでいた。

イシスは、少しだけ口元を緩めた。


「いいえ。とても丁寧に処置されています。私は、医術に詳しいわけではありませんが……それでも分かります。あなたは、私を助けるために尽くしてくださった」


少女の目が、見開かれた。それから、頬を赤らめて俯く。


「そんな……私は、ただ……」

「あなたのお名前を、教えていただけますか?」

「あ……はい。リネア、と申します。リネア・フォレスト……」


名乗る声は、か細い。まるで、自分の名前に価値がないとでも言うように。


「リネア」


イシスは、その名を繰り返した。


「私はイシスです。改めて、ありがとう、リネア」

「いえ……! そんな、私なんかが……」


リネアは慌てて両手を振った。その仕草が、どこか幼く見える。

イシスは、ゆっくりと周囲を見渡した。

小さな小屋だった。一部屋きりの、質素な造り。家具らしい家具もほとんどなく、寝台と卓、それに棚が一つあるだけ。

だが、清潔だった。床は掃き清められ、壁には埃一つない。窓際には、小さな花が一輪、素朴な器に生けられていた。

イシスの視線が、その花に留まる。丁寧に水を替えられているのだろう。瑞々しく、柔らかな光を受けて輝いていた。


「……素敵な花ですね」

「え……?」


リネアが、意外そうに目を瞬かせた。


「あ、あの……ただの野の花なんです。でも、綺麗だったから……つい……」

「ええ。とても綺麗」


イシスは、静かに言った。

それは、社交辞令ではなかった。ただ、本当にそう思ったから。

この質素な空間に、一輪だけ飾られた花。それを大切にする、少女の心。

何かが、胸の奥で小さく動いた気がした。

リネアは、また頬を染めて俯いた。そして、思い出したように口を開く。


「あの……もしよろしければ、何か召し上がりますか? スープくらいしか、ご用意できませんが……」

「いいえ、今は大丈夫です」


イシスは首を横に振った。それから、少しだけ間を置いて。


「リネア。私は、どこで倒れていたのでしょうか」

「あ……はい。森の外れにある、滝壺の近くです。川に流れ着いていらして……」


滝壺。

ああ、やはり。


「そこから、ここまで運んでくださったのですね」

「はい……。でも、すごく軽くて……いえ、その……」


リネアは慌てて言葉を濁した。失礼なことを言ってしまったのではないか、と不安げに目を泳がせる。


「あなたは、一人でここに?」

「はい……」

「ご家族は」


リネアの表情が、一瞬だけ翳った。けれどすぐに、いつもの控えめな笑みに戻る。


「今は、一人で暮らしています。森で、薬草を採ったり、川で魚を釣ったり……そうやって、生活を」


その声には、悲しみはなかった。ただ、諦めに似た静けさがあった。

イシスは、それ以上は尋ねなかった。

誰にでも、話したくないことはある。自分にも、ある。

だから、ただ頷いた。


「そうですか」


沈黙が降りる。

けれど、それは不快なものではなかった。薬草の香りと、窓から差し込む光。遠くで鳴く鳥の声。

穏やかな時間。

イシスは、自分の指先を見つめた。そこには、まだ宝石の指輪がはめられている。ドレスも、泥にまみれてはいるが、上質な布地だと一目で分かる。

リネアは、気づいているだろう。自分が、ただの旅人などではないと。

けれど、何も聞かなかった。ただ、純粋に助けてくれた。


「リネア」

「はい……?」

「私に、何かできることはありませんか。お礼を、させてください」


リネアは、驚いたように目を見開いた。


「そんな……! お礼だなんて、そんな……私は、ただ……」

「あなたは、私の命を救ってくれました」


イシスの声は、穏やかだが、どこか真剣だった。


「それに対して、何もしないというのは……私の気が済みません」


リネアは、戸惑ったように視線を彷徨わせた。それから、小さく唇を噛む。

何かを言いたそうに、何度も口を開きかけて。そのたびに、躊躇って閉じる。

イシスは、静かに待った。

やがて、リネアが小さな声で呟いた。


「あの……もし、本当に……迷惑じゃなければ……」

「ええ」

「お願いしたいことが……あるのですが……」


その声は、震えていた。まるで、断られることを恐れているように。


「何でしょう」


リネアは、俯いたまま言った。


「実は……数日後に、祖母の誕生日を祝うパーティーがあって……私も、招待されたのですが……」

「はい」

「でも、私……どんなドレスを選べばいいのか、分からなくて……」


リネアは、顔を上げた。その瞳には、不安と、ほんの少しの希望が混ざっていた。


「もし、よろしければ……一緒に、ドレスを選んでいただけませんか……? あの、イシス様は、とても上品な方だから……きっと、そういうことに、お詳しいんじゃないかと……」


イシスは、一瞬、目を瞬いた。

ドレス選び。

それは、かつて自分が当たり前にしていたこと。貴族社会で生きるための、基本的な素養。

久しく、そんなことを考えもしなかった。


「……ええ」


イシスは、静かに微笑んだ。

それは、滝壺に落ちてから、初めて浮かべた笑みだった。


「喜んで」


リネアの顔が、ぱっと輝いた。


「本当ですか……! ありがとうございます……!」


その喜びようが、どこか眩しくて。イシスは、自分の胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。

それが何なのか、まだ分からない。

でも、悪いものではなかった。

窓の外で、また鳥が鳴いた。窓辺の花が、風に揺れる。

小さな小屋の中に、安らぎが満ちていた。





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