十七話
二人の想いが通じ合った瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、ユリウスの巨躯が崩れ落ちた。
死線を幾度も越えてきた「剣聖」の身体は、本来であればこの程度の疲労で屈することはない。
だが、イシスを失った絶望からこの再会に至るまでの精神的な摩耗は、鋼の肉体すらも限界まで削り取っていたのだ。
「ユリウス……! ユリウス!!」
幸い、身体に異常はなかった。天恵である「再生」の力が働き、疲弊した細胞を内側から癒やしていく。
しかし、眠りは深く、彼は泥のように眠り続けた。
リネアを頼り借りたフォレストの屋敷の一室。
ユリウスが横たわるベッドの傍らで、イシスは一刻も離れようとせず、彼の寝顔を見守っていた。
窓から差し込む柔らかな月光が、眠るユリウスの彫刻のような横顔を照らしている。
鎧を脱ぎ、無防備に横たわる彼は、帝国を背負う英雄ではなく、ただ一人の疲れ果てた男に見えた。
(……ごめんなさい、ユリウス。貴方をここまで追い詰めていたのは、私だったのね)
イシスは、彼の節くれだった大きな手をそっと握りしめた。
数時間が経過した頃、夜風がカーテンを揺らした。
ユリウスの額に、じわりと脂汗が滲んでいる。
深い眠りの中で、まだ彼は何かと戦っているのだろうか。
イシスは彼を不快にさせてはいけないと、汗を拭うための温かい湯を用意しようと立ち上がった。
その瞬間、ぐい、と強い力で手首を引かれた。
「――っ」
バランスを崩し、ベッドに手をつく。
見れば、ユリウスが目を開けていた。
普段の鋭い光を失った、熱に浮かされたような、どこか心細げな翠眼が、真っ直ぐに彼女を射抜いている。
「……行かないでくれ」
その声は、掠れていて、まるで迷子の子供のようだった。
「ユリウス、起きたのね。大丈夫、どこにも行かないわ。ただ、汗を拭こうと思って……」
「行かないでくれ。……頼む。目が覚めた時に、君がいないのが……一番恐ろしいんだ」
ユリウスは、イシスの細い腕を、壊れ物を掴むような慎重さで、けれど決して離すまいという執念を込めて握りしめている。
その指先が微かに震えているのを、イシスは見逃さなかった。
一度、彼女は自分の前から消えた。
崖の下へ、手の届かない場所へと。
その恐怖は、肉体の傷を治す天恵でも癒やすことのできない深い傷跡となって、彼の魂に刻まれていた。
「……わかったわ。どこへも行かない。ずっとここにいるから」
イシスは立ち上がるのを諦め、彼の隣に座り直した。
空いた方の手で彼の髪を優しく撫でると、ユリウスはようやく安堵したように、長く、深い溜息を吐き出した。
その瞳に、いつもの理性が少しずつ戻ってくる。
二人の間に、穏やかで甘やかな沈黙が流れた。
これまでの数年間、邸宅の寝室で同じ時間を過ごしてきたはずなのに、今、こうして向き合っている時間は、まるで初めて出会った時よりも純粋で、温かいものに感じられた。
ユリウスは、じっとイシスを見つめていた。その琥珀色の瞳に宿る、自分への疑いようのない愛情。
それを確かめるように、彼は弱々しく、けれど切実な声で口を開いた。
「……イシス」
「なあに?」
「……キスを、してもいいだろうか」
「……え?」
不意の申し出に、イシスの思考が真っ白に染まった。
求婚の日から今日まで、彼は常に紳士的だった。彼女の体調を気遣い、彼女の意志を尊重し、寝室を共にしていても、同意のない接触は一度としてなかった。
そんな彼が、これほどまでにストレートに、独占欲を滲ませた欲望を口にするなんて。
面食らうイシスの頬が、見る間に熱を帯びていく。
「それは……その、急に……」
「……嫌だろうか」
不安げに揺れるユリウスの瞳。それは、断られたら今度こそ心が折れてしまいそうなほど、危うい光を宿していた。
イシスは、逃げるように伏せていた視線をゆっくりと上げ、彼の不器用な愛を真正面から受け止めた。
「……嫌なわけ、ないでしょう?」
イシスの唇から零れた微かな囁きは、ユリウスの耳にこの世のどんな旋律よりも甘美に響いた。
彼女は自分からゆっくりと、視界を塞ぐほど近くまで顔を寄せた。
ユリウスの心臓が、まるで初陣の夜のように激しく鳴動する。
彼は繋いでいた彼女の手を離すと、今度は壊れ物を扱うような手つきで、イシスの火照った頬を包み込んだ。彼の指先が、彼女の白磁のような肌に触れる。
「……夢、ではないな」
ユリウスが、自分に言い聞かせるように低く呟く。
その切実な声音に、イシスの胸は愛おしさで締め付けられた。
彼女は彼の手のひらに自分の手を重ね、そっと目を閉じた。
「夢じゃないわ。……ここにいるわよ、ユリウス」
重なり合う、二人の吐息。
月光に照らされた寝室で、ゆっくりと二人の距離がゼロになる。
触れるだけの、羽毛のような柔らかな口付けだった。
けれど、そこには数年間の空白を埋めるような、言葉にできないほどの情熱と、安堵が凝縮されていた。
一度、唇が離れる。
至近距離で見つめ合う二人の視線が熱く絡み合い、どちらからともなく再び引き寄せられた。
今度は、深く、深く。
互いの存在を魂に刻み込むような、切実な抱擁と口付け。
ユリウスの腕に力がこもる。二度と彼女を離さない、二度とあんな崖の上で独りにさせない。
その決意が、強く逞しい腕を通じてイシスに伝わってきた。
「ん……、ユリウス……」
苦しげな、けれど幸福に満ちたイシスの吐息が漏れると、ユリウスは我に返ったように、名残惜しそうに唇を離した。
彼の翠眼は、潤み、そしてこれまで見たこともないほど深く甘い、切実な独占欲の色を湛えていた。
「イシス。……私は、君が思うほど高潔な男ではない」
ユリウスの低い声が、夜の静寂に溶け込んでいく。彼はイシスの頬に添えた手に力を込め、壊れ物を慈しむような手つきでその輪郭をなぞった。
「戦場では『剣聖』として敵を斬り、帝都では『英雄』として、私欲を排して振る舞ってきた。だが、一人の男としての私は、君が思うよりずっと小さく、利己的だ」
彼は一度言葉を切り、恥じ入るように視線を落とした。けれど、繋いだ手だけは離そうとしない。
「あの日……君がカイルと語り合っている姿を見た時、私は醜い嫉妬を感じてしまったんだ。君があんな風に、かつての自分を取り戻したような笑顔を見せる相手が、私ではないという事実に、胸が締め付けられた。君の幸福を願うと言いながら、心のどこかでは、その笑顔の理由がすべて私であってほしいと……そんな分不相応なことを願ってしまった」
ユリウスは、自分の内側から溢れ出す感情の正体が、自分でも恐ろしかった。
これまで一度として、彼はイシスに自分の意志を強いたことはない。彼女の自由を尊重し、彼女が望むなら自分は消えても構わないとすら思っていた。
けれど、今こうして彼女の愛を知り、その体温を分かち合ってしまった。もう、彼女のいない世界には戻れない。
「私は今、ひどく怯えている。……いつか、この独占欲や嫉妬という名の毒が、私の言葉となって君を縛り、傷つけてしまうのではないかと。君の意志を何よりも尊重したいのに、心の底では君を離したくないと叫ぶ自分がいる。……そんな利己的な自分を、私は制御できる自信がないんだ」
ユリウスの告白は、悲鳴に似ていた。
高潔であろうとする彼にとって、湧き上がる「自分のための願い」は、愛する人を損なう劇薬のように思えたのだ。
イシスは、何も言わずに彼を抱きしめた。
言葉を重ねるよりも先に、その体温ですべてを包み込むような、深く、優しい抱擁。それは、彼が吐露した「毒」も「弱さ」も、すべてを等しく肯定するという無言の誓いだった。
「……ユリウス。貴方がそうして、自分のしたいことを口にしてくれたこと。それが私は、何よりも嬉しい」
イシスは彼の広い胸に顔を埋めたまま、静かに、けれど熱を帯びた声で続けた。
「……ごめんなさい。私、少し後悔しているの」
「……後悔?」
ユリウスが戸惑うように、彼女の肩を少し押し戻した。その琥珀色の瞳は、月の光を浴びて、深い悔恨の色に揺れている。
「貴方がこんなに傷つく前に……もっと早く、それこそ、魔法学院で肩を並べていた学生時代にでも、この言葉を言ってあげればよかった」
イシスは彼の大きな手を、慈しむように両手で包み込んだ。
「貴方はあの頃から、ずっと正しすぎた。自分の痛みには鈍感で、誰かを守るためなら迷わず自分を削ってしまう。……貴方が一人の男として、誰かに甘えたり、我儘を言ったりできる場所を、私がもっと早く作ってあげられていたら。そうすれば、貴方はこんなにも長く、孤独な暗闇の中で自分を責め続けずに済んだはずなのに」
彼女の頬を伝う涙が、ユリウスの手に落ちる。
「人はね、誰だって利己的な想いも、利他的な想いも持っているものよ。貴方が私を独り占めしたいと思うのは、それだけ私を愛してくれている証拠でしょう? それを隠して、一人で抱えて、物分りのいい『剣聖』でい続けようとする方が、よっぽど寂しいわ」
イシスはユリウスの頬を両手で挟み、その翠眼を真っ直ぐに見つめた。
「想いを口にすれば、時には人を傷つけることもあるかもしれない。でも、それが誰かの力になったり、凍えた心を温めたりすることだってある。……当たり前のことなのよ、ユリウス。恐れることなんて何もないわ」
ユリウスは息を呑み、金縛りにあったように動けなくなった。
自分が「毒」だと思っていた感情を、彼女は「愛の証」として受け取り、慈しんでくれた。
不器用で、正しすぎるがゆえに自分を許せなかった男の魂が、彼女の柔らかな言葉によって、ゆっくりと解き放たれていく。
「イシス……。私は、本当に君に甘えてもいいのだろうか。……君を、私の私欲で、困らせてしまっても?」
「ええ、もちろんよ。……むしろ、もっと困らせてほしいくらい」
イシスは悪戯っぽく微笑むと、今度は自分から、彼の首筋に腕を回した。
「貴方の我儘も、嫉妬も、全部私にぶつけて。それを一緒に乗り越えていくのが『夫婦』というものでしょう? 私も、貴方を独占したいって、毎日わめくかもしれないわよ?」
その言葉に、ユリウスの唇から、ようやく小さく、けれど心からの笑みが漏れた。
邸宅で見せていた貴族的な微笑ではない。一人の男としての、安堵に満ちた笑いだった。
「……降参だ。君には、一生勝てる気がしない」
ユリウスは彼女を再び引き寄せ、今度は先ほどよりもずっと穏やかな、慈愛に満ちたキスを額に落とした。
嫉妬も、独占欲も、消えてなくなったわけではない。けれど、それを共有できる相手が隣にいる。その事実が、彼の心に揺るぎない平穏をもたらしていた。
窓の外では、銀色の月が静かに二人を見守り、夜風がサワサワと祝福するように木々を揺らしている。
長い夜だった。けれど、二人の心は今、かつてないほどに晴れ渡っていた。
「愛している、イシス。……私のすべてを、君に捧げよう」
「私もよ、ユリウス。……ずっと、ずっと貴方のそばにいるわ」
二人は、重なり合う鼓動を感じながら、深い安息の闇へと沈んでいった。
それは、偽りのない「個」として結ばれた二人が、初めて迎える本当の夜明けへの序曲だった。




