十六話_真意
「だとしたら、私は君に謝らなくてはいけ——」
自責の念に駆られ、なおも自分を貶めようとするユリウスの言葉を、イシスは自らの手で遮った。
柔らかな掌が彼の唇を塞ぐ。
その温もりに、ユリウスの思考が白く弾けた。
イシスの胸の奥には、鋭利な刃で貫かれたような衝撃が広がっていた。
感情を殺し、鉄の仮面を被り続けてきたユリウスが、これほどまでに自分を想い、のたうち回るような苦しみを抱えていたこと。それを、彼女は今の今まで知らなかった。
嫌われていると思ったことはない。愛されているとも信じていた。
けれど、それは「一人の女性」に向けられた特別な愛ではなく、剣聖が全国民に対して注ぐ、高潔で博愛的な使命感の延長線上にあるものだと思い込んでいたのだ。
学生時代から見てきた彼は、あまりに正しく、高潔すぎた。
だからこそ、あの日ユリウスが求婚した時も、彼は愛ゆえではなく、剣聖として「行き場を失った哀れな一人の人間」を救済してくれたのだと、そう解釈してしまった。
「……謝らないで。何一つ、貴方は悪くないわ」
イシスはさらに一歩、その距離を詰めた。
瞳から溢れた大粒の涙が、頬の汚れを洗い流すように伝い落ちる。
「全部……全部話すから。私の本当の心を聞いて」
彼女が語り始めたのは、虚飾のない、剥き出しの真実だった。
豪華絢爛な邸宅、宝石に囲まれた部屋。そこで彼女を蝕んでいたのは「孤独」ではなかった。夜会での冷たい視線が辛くなかったと言えば嘘になるが、彼が公務で隣にいないことの正当性は、誰よりも理解していたつもりだった。
彼女を真に追い詰めていたのは——。
(役立たず)
自分から自分への侮蔑の言葉。
(役立たず。役立たず。……役立たず)
彼は自分を救ってくれた。人生のすべてを捧げて、自分の居場所を守ってくれている。なのに、私は彼に何を返せているだろう。
それどころか、彼は私を守るために、ただでさえ多忙な公務をさらに増やし、身を粉にしている。私を責めることも、罵ることもせず、ただ優しく、正しい言葉を投げかけ続ける彼。
「貴方は命を懸けて私を守ってくれたのに、私は貴方を何一つ守れない。……そんな日々に、心が死んでいったの」
そんな時、決まって見る夢があった。
学生時代、共に魔法と剣の道を語らい、肩を並べて笑ったあの日々。
そして、夢はその先へと続いていく。
「その先?」
ユリウスが、掠れた声で問い直した。
「……前に『内緒』って言ったでしょ。私の、本当の夢」
イシスは学生時代から、ユリウスの背負う孤独と苦悩に気づいていた。
いずれこの国は、残酷なまでの重責を彼一人に押し付けるだろう。
その時、彼自身の人格や、一人の男としての想いは誰が受け止めるのか。
だから、彼女は願ったのだ。
「もっと強くなりたかった。貴方と共に、貴方の隣で戦えるくらい。貴方が弱音を吐き、寄りかかれるくらい強くなれれば、貴方はもっと自由に……自分らしくいられると思ったから」
ユリウスの翠眼が、雷に打たれたように見開かれた。
「天恵を失い、貴方の隣に立てないと決まったあの日。……私は、自分の無力さに絶望した。何よりも、それが辛かったの」
「そんな……! どうして少しでも話してくれなかったんだ」
「貴方は、私が『こうしたい』と言えば、自分のすべてを犠牲にしてでも叶えようとする人でしょう?」
返しを予感していたかのように、イシスは悲しく微笑んだ。
「こんな話をしたら、貴方はもっと無理をして、私のために仕事を増やすと思った。これ以上、貴方が傷つく姿を見たくなかったのよ」
「だが、私は天恵で……再生の力がある。傷などすぐに——」
「そんなことを言ってるんじゃないわ!」
ユリウスの言葉を、イシスの叫びが遮った。
彼の「再生」の天恵。どんな致命傷を負っても瞬時に癒えるその力は、周囲からすれば「死なない道具」としての利便性でしかなかった。だが、イシスは違った。
「傷は治っても、受けた痛みが消えるわけじゃない……!」
その本音に、ユリウスは驚愕し、言葉を失った。
誰もが彼の力を羨み、縋り、彼が救ってくれることを「当然」だと思っていた。
彼を人間ではなく、不壊の「剣聖」として見ていた。
けれど、目の前の女性だけは違った。
傷が治ると分かっていても、それに伴う「痛み」を心配し、一人の人間としての尊厳を、涙を流して守ろうとしてくれる。
ユリウスは、悟った。
ああ、やはり彼女でなくてはならなかったのだと。
彼は溢れる涙を隠そうともせず、イシスを優しく、けれど壊れ物を扱うように、力強く抱き寄せた。
「イシス……。力など、あってもなくても、君は私の光だったんだ。……君がいたから。君が、待っていてくれたから……」
いつ家に帰り、いつ戦地へ赴こうとも、変わらずに自分を迎え入れ、送り出してくれる彼女の姿。
あれがあったからこそ、自分は「剣聖」という怪物にならずに済んだのだ。
「君がいなければ、私はとうの昔に……心を失って壊れていただろう」
二人の間に流れる、誰にも介入できない濃厚な情愛。
過去のしがらみも、皇帝の思惑も、周囲の喧騒も、今はすべてが遠い雑音に過ぎない。ただ、互いを魂の片割れとして求め合う二つの命があった。
その光景を、カイル・クロムウェルは少し離れた場所で、静かに見つめていた。
眼鏡の奥の瞳には、かつての婚約者としての執着の残り火があった。
けれど、ユリウスの胸で剥き出しの心をさらけ出し、泣きじゃくる彼女の姿を見て、彼は悟った。
(……ああ。僕の入る隙など、最初からどこにもなかったんだな)
カイルは自嘲気味に、ふっと息を吐き出した。
彼女が自分に見せていたのは、あくまで「魔法使い」としての、あるいは「友人」としての貌。
だが、今ここにあるのは、一人の女性としての真実の姿だ。
自分には、彼女をあんな風に泣かせることも、あんな風に心の底から笑わせることもできない。
カイルはゆっくりと、彼女たちに背を向けた。
それは、長年抱き続けてきた彼なりの執着を、本当の意味で清算する瞬間だった。
「……行こう。学生たちを保護しなければ」
カイルの声は、どこか吹っ切れたように、秋の空のように澄んで軽やかだった。
彼は一度も振り返ることなく、沈みゆく夕陽の向こうへと歩き出す。
残された戦地で、ユリウスはイシスの額にそっと額を合わせた。
「イシス……もう一度、最初から始めさせてくれないか。完璧な剣聖でも、完璧な妻でもなく。ただのユリウスとイシスとして」
「ええ……。ええ、ユリウス」
イシスは、彼の胸に深く顔を埋めた。
その温もり、その鼓動こそが、彼女が死の淵を彷徨ってまで守り抜きたかった、世界でたった一つの「帰る場所」だった。
夕陽が、二人の姿を優しく照らしている。
長い長い苦しみの果てに、ようやく手を取り合えた二つの魂。
その傍らを、戦場の風が静かに吹き抜けていった。




