十四話
数日後、ギルドの正式な依頼として、イシスはカイル一行と合流した。
「初めまして。依頼を受けた、ロゼと申します」
深く被ったフードの奥から、彼女は偽りの名で学生たちに挨拶をする。
彼らは「あの難解な術式を解いた冒険者か」と興味津々な様子だが、カイルだけは全てを見通したような、それでいて穏やかな眼差しを彼女に向けていた。
カイルとの共同研究が始まって数日、ダンジョン調査は驚くべき進展を見せていた。
かつてイシスたちが到達した宝物庫のさらに奥。石壁に刻まれた古代文字の歪みをイシスが指摘したことで、そこが「真の最深部」への入り口であることが判明したのだ。
それに際して、二人は準備のため、この地の古い教会へと足を運んだ。
この地に建つ教会は、数百年前にダンジョンが封じられた際、その「封印の鍵」を管理するために建てられたという歴史を持つ。
現代の魔法理論では解読不能な「古の魔力回路」の癖を読み解くヒントが隠されているに違いないと二人は考えたのだ。
「……見つけたわ、これよ」
カイルが差し出す魔導灯の明かりの下、イシスは埃を払い、一冊の分厚い書物を広げた。羊皮紙は茶色く変色し、指で触れれば崩れてしまいそうなほど脆い。
「酷い劣化だ。文字が掠れて、論理の接続が全く見えない。学生たちには荷が重すぎるな……。ロゼさん、君はどう見る?」
「……待って。この文字、単なる記録じゃないわ。座標軸に位相魔法の勾配が隠されている。カイル教授、第三章の『天上の門』の項を照らし合わせて」
二人は資料室の床に座り込み、何冊もの重厚な書物を広げた。
周囲にはカイルが連れてきた学生たちもいたが、彼らは入り口付近で呆然と立ち尽くすことしかできない。二人が交わす会話はあまりに高度で、専門用語が矢継ぎ早に飛び交い、まるで別の言語を話しているかのようだった。
「なるほど、座標そのものを魔力で歪ませているのか。だが、それだと入口の防壁が自己崩壊を起こすはずだ」
「いいえ、カイル教授。ここの三行目の配列を見て。四元素の循環をあえて断ち切り、空位を設けて魔力をバイパスさせているわ。この『無』の領域こそが、膨大な負荷を逃がすためのクッションになっているのよ」
「――逆転の発想か! 素晴らしいな。ならば、扉の解呪は力任せの右回りではなく、このバイパスから魔力を引き抜くだけで完結する……!」
カイルが興奮したように顔を上げると、同時にイシスも満足げに微笑んだ。
何時間もの沈黙と議論の末、迷宮の霧が晴れるように答えが導き出された瞬間。
そこには、大公家の令嬢も、魔法学院の教授もいない。ただ純粋に世界の真理を追い求め、競い合っていたあの頃の「少年と少女」がいた。
「やったな、イシス!」
喜びが弾け、カイルは無意識のうちにかつての癖で彼女の肩へと手を置いた。
その顔は、学究の徒としての純粋な敬意と親愛に満ちていた。
だが。
その温もりが触れた瞬間、イシスの瞳から柔らかな光が消えた。
ロゼと訂正するよりも、彼女は静かに、けれど明確にその手を押し戻し、カイルを正面から見据えた。
「……カイル。あの日々とは違うの。私たちはもう、婚約者ではないわ」
「……ああ、すまない。つい、昔の感覚で」
「私は今、ユリウスの妻なの。誤解を招くような振る舞いには、気をつけて」
カイルは、突き放すような彼女の言葉に虚を突かれた。
肩に触れたのは確かに故意ではなかったが、社交界で流れていた「剣聖夫婦の不仲説」を考えれば、これほどまでに強く、妻としての立場を主張されるとは思ってもいなかったのだ。
(……君は、あんな男に虐げられているのではなかったのか?)
一方、その教会のすぐ外。
帝都を離れ、休むことなく馬を飛ばし続けたユリウスは、ついにその場所へ辿り着いた。南部の古びた宿場町。潮風と土の匂いが混じるこの平穏な町に、彼の魂の半分――イシスがいる。
彼は、ついにこの街で、探し求めた「光」を見つけ出した。
「――っ」
息が止まった。
(生きていた……)
視界が熱く滲む。そこにいたのは、死んだと聞かされていた妻だった。
(……生きていた)
その横顔を見た瞬間、心臓が爆ぜるかと思った。
琥珀色の髪を揺らし、生き生きと瞳を輝かせて、魔法を語る彼女。
邸宅の冷たい部屋で、感情を殺して「お帰りなさいませ」と微笑んでいたあの日々とは、あまりに違う。
フードを脱ぎ、夕陽を浴びてその長い髪をなびかせる。
それは、かつて学生時代の彼女を思い起こすようだった。
「……イシス」
その名を呼ぶ声は、風に掻き消された。
駆け寄りたい。
その細い肩を抱き寄せ、膝をついて謝罪し、二度と離さないと誓いたい。
だが、再会の歓喜は、次の瞬間に訪れた光景によって粉々に砕け散った。
カイル・クロムウェル。かつて彼女と結ばれるはずだった男。
歓喜に震える彼の視界に飛び込んできたのは、窓越しに見える、あまりにも親密な二人の姿だった。
かつて、自分が皇帝の勅命という名の暴力で、彼女から奪い取った「はずだった未来」。
二人は熱心に、けれどどこか懐かしむように言葉を交わしている。イシスが魔法の術式を空に描けば、カイルがそれを見て微笑み、彼女の肩を優しく叩く。
『お互いから、解放されましょう』
あの最期の言葉が、呪詛のようにユリウスの耳底で蘇る。
彼女が求めた「解放」とは。
自分という、感情のない「剣聖」という鎖から解き放たれ、自分を「一人の人間」として見てくれる者の側へ行くことだったのか。
(……私は、君の人生をどれほどの間、止めていたのだろう)
ユリウスの翠眼が、絶望に細められた。
もし今、自分が姿を現せば、彼女のこの笑顔は一瞬で凍りつくだろう。
彼女は再び「剣聖の妻」という役割を演じるために、その琥珀色の瞳から光を消し、人形に戻ってしまう。
「……はは、そうか。こういうことだったのか」
ユリウスの唇から、乾いた笑いが漏れた。
自分は彼女を救いたいと思っていた。
だが、彼女を最も苦しめていた「元凶」こそが、自分自身だったのだ。
カイルと見つめ合う彼女の姿は、あまりにも完成された「正解」に見えた。
彼女のあの笑顔。邸宅では一度も見ることのできなかった、魔法を語る時の生き生きとした瞳。
あれこそが本来の彼女であり、自分という「剣聖」の隣にいることが、彼女の翼を折っていたのだ。
ユリウスは震える拳を握りしめた。
ならば、今ここで自分が姿を現すことは、彼女を再び不幸という鎖に繋ぎ止めることに他ならない。
「……戻らなければ」
ユリウスは、再会の言葉を喉の奥に押し込み、背を向けた。
せめて、彼女が「ロゼ」として生きるこの平穏を、帝国の魔の手から影で守り抜くこと。
それが自分にできる唯一の贖罪だと信じて。
ユリウスは馬に跨り、夕闇に染まる道を帝都へと引き返し始めた。
その背中は、どんな戦場に立つ時よりも、孤独で痛々しかった。
同じ頃、カイルの隣でイシスは、不意に背筋に走った冷気に足を止めた。
「……ロゼさん?どうかしたかい?」
「……いいえ。なんだか、見覚えのある風が吹いた気がして」
彼女が振り返った先には、ただ赤く染まった地平線が広がっているだけだった。




