十三話
「人違い、です」
イシスは、凍りついた喉を無理やり動かして答えた。
心臓が肋骨の裏側を激しく叩き、その鼓動が耳元までうるさく響く。
声が震えぬよう、腹の底に力を込めた。彼女は深く被り直したフードの端を指先で強く握り締め、視線を床の石畳へと落とした。
使い込まれ、角の丸くなった石畳の目地が、動揺する視界の中で滲んでいく。
「私はロゼ。……ただの新米冒険者です」
踵を返し、足早にギルドの出口へ向かおうとした。
背中に、無数の視線が突き刺さる。ダリウスたちの困惑、居合わせた冒険者たちの無遠慮な好奇心。
そして――何よりも重く彼女の背を焼くのは、カイルの確信に満ちた眼差しだった。
「その術式の組み癖を、僕が忘れるはずがないだろう」
カイルの声が、今度は鋭い確信を帯びて投げかけられた。
イシスの足が、石畳に縫い付けられたようにピタリと止まる。全身の血が、一気に足元へ引いていくような感覚。
「『四元素の調和による封印』の解法」
カイルの声が、静かに、けれど逃げ道を塞ぐように続く。
「あれは君が学院の地下書庫で、僕と競いながら見つけ出した、君独自の理論に基づいた手順だ」
――ああ。
イシスは、心の中で絶望に近い溜息を漏らした。
あの解法。カイルと共に、埃っぽい地下書庫で夜を徹して文献を漁り、魔法理論を組み立てた日々。カイルが火の配列を提案すれば、イシスが水の循環を修正し――。
二人で磨き上げたあの術式は、誰にも真似できない彼女だけの「指紋」のようなものだった。
カイルの足音が近づく。ゆっくりと、だが拒絶を許さぬ重みを持って。
周囲の空気が、肌を刺すほどに張り詰めていく。ダリウスたちは、この場に漂う尋常ならざる気配を敏感に察し、言葉を失っていた。エリナが不安げにオズワルドの袖を掴み、フィンは弓を背負ったまま彫像のように固まっている。
(……皇帝は、私の失踪を隠蔽している)
カイルの言葉から、イシスは確信を得た。大公家との全面衝突を避けるための欺瞞。
イシスは、ゆっくりと振り返った。
フードの奥に潜むその瞳には、かつての公女の輝きではなく、追い詰められた獣のような峻烈な光が宿っていた。
「そうですか。……そんな女性は、知りません」
氷を吐き出すような冷たい声だった。一言一言、引導を渡すように区切る。
「先ほども申し上げましたが、私はロゼという名の新米冒険者です」
完全な拒絶に、カイルの表情が劇的に崩れた。
眼鏡の奥の知的な瞳が、悲痛に歪む。
「イシス……」
「その名で呼ばないでください」
イシスの声が、剣のように鋭く空間を切り裂いた。
「私は、ロゼです」
カイルは言葉を失った。頭脳明晰な彼にも、帝国最強の剣聖の妻となった彼女が、なぜ傷だらけの冒険者としてここにいるのか、その答えは出ない。
ただ分かるのは、彼女が命懸けで正体を隠しており、それには深淵のような理由があるということだけ。
ならば――。
カイルは深く息を吸い込み、眼鏡を押し上げた。いつもの、冷静な教授としての仕草。
「……すまない。動転していたようだ。僕の勘違いだった」
イシスの瞳が、わずかに見開かれる。
カイルは小さく頭を下げた。「失礼しました、ロゼさん」
顔を上げた彼の瞳からは、先ほどの悲哀は消え、代わりに鋭利な知的な光が戻っていた。
「では、ロゼさん。新米冒険者の貴女に、正式な依頼をしたい」
「依頼……?」
「先日のダンジョンについて、研究に協力していただきたいのです。……貴女がイシスでないというのなら、この依頼を断る理由はありませんよね?」
(……上手い)
イシスは息を呑んだ。
ここには仲間たちがいる。新米冒険者が、学院教授からの破格の依頼を正当な理由なく断れば、かえって疑惑を深めることになる。
断ることも、逃げることもできない。カイルは彼女の「冒険者」という仮面を、そのまま利用して縛り付けたのだ。
「……ええ。承知いたしました。協力いたします」
カイルの口角が、わずかに和らいだ。
「ありがとうございます。申し遅れました。私はルベドフィア魔法学院で教授を務めております、カイル・クロムウェルと申します。以後、お見知り置きを」
貴族の令息らしい、隙のない優雅な一礼。その所作の一つ一つが、懐かしい学院時代を鮮烈に想起させる。
イシスはフードの奥で目を伏せた。
(ありがとう、カイル。……そして、ごめんなさい)
張り詰めていた糸が切れ、ダリウスが安堵の溜息を漏らす。
「なんだ、ただの人違いだったのか。冷や冷やさせやがって」
「でも、あの雰囲気は……」とエリナがまだ疑わしげに呟くが、オズワルドが穏やかにそれを宥めた。
「ではロゼさん、詳しい話は後日ギルドを通じて。……失礼する」
カイルはもう一度礼をすると、踵を返した。扉から差し込む夕刻の光の中に、彼の背中が溶けて消えていく。
カイルが去った後も、イシスはすぐにはその場を動くことができなかった。
鉛のように重い足を引きずるようにしてギルドの重厚な扉を押し開けると、外は夕刻の冷たい空気に包まれていた。
建物の影に身を潜めるようにして歩き出そうとした瞬間、数歩先から数人の若々しい話し声が聞こえてくる。反射的に足を止めると、そこにはカイルを囲むように歩く、数人の学生たちの姿があった。
「カイル教授、今回の調査同行、本当にありがとうございます!」
「まさかこんな辺境のダンジョンに、教授直々の調査が入るなんて。僕たち、本当に光栄です」
瞳を輝かせる学生たちに対し、カイルはいつもの理知的な、けれどどこか温かみのある声で応じている。
「いい経験になるはずだ。教科書の中の術式と、実戦で刻まれた回路は全くの別物だからね」
「それにしても……」
一人の男子学生が、羨望の眼差しでカイルを見上げた。
「教授は、その若さで魔法学院の教授職に就かれているじゃないですか。学生時代から、きっと敵なしだったんでしょうね?」
周囲の学生たちも「間違いないですよ」「伝説級の成績だったって聞いてます」と口々に囃し立てる。
イシスは、影の中で息を潜めた。
カイル・クロムウェル。名門貴族の嫡男であり、並外れた魔力と緻密な理論構築能力を併せ持つ天才。彼が学院の歴史に名を刻む傑物であったことは、他ならぬイシス自身が一番よく知っていた。
だが、カイルの口から漏れたのは、肯定の言葉ではなかった。
「……いや。僕も、一度も勝てなかった人が一人だけいたよ」
カイルの声には、不思議な響きがあった。
敗北を認める悔しさは微塵も感じられない。むしろ、宝物のような記憶をそっと紐解くような、優しく、慈しむような音色。
「魔法の定義、術式の美しさ、そして何より魔法を愛する心……。どれを取っても、僕は彼女の後を追いかけるので精一杯だったんだ」
「えっ、教授がですか? それは一体、どこのどなたで……」
「……最高の友人であり、僕の誇りだった人だよ。彼女と地下書庫で議論を交わしていた時間は、僕の人生で最も、魔法が輝いて見えたひと時だった」
カイルは遠い空を見つめるように目を細め、どこか楽しげに笑った。
壁一枚隔てた暗がりで、イシスはその言葉を、胸が潰れるような思いで聞いていた。
カイルが語っているのは、カーライル家の「人形」となった自分ではなく、ただ純粋に真理を追い求めていた、かつての「イシス」だ。
(カイル……。貴方はまだ、あの日々をそんな風に思ってくれているのね……)
彼にとって、自分は今も「誇り」であり続けている。
その事実が、今のボロボロな自分にとって、どれほど残酷で、そして救いになることか。
イシスは込み上げる熱いものを飲み込むように、強く唇を噛んだ。
学生たちを引き連れて遠ざかっていくカイルの背中。
イシスは、自分の中に残っている「ルベドフィアの誇り」が、小さく、けれど確かに脈打つのを感じていた。




