十二話
夕闇が迫る森の境界線、湿った土の匂いと獣の体臭が混じり合う中で、イシスは一歩も引かずに立ち尽くしていた。
「グルルッ……!」
眼前に構えるのは、二体のワイルドキャット。小型とはいえ、その敏捷性と鋭い爪は新米冒険者にとって十分な脅威だ。かつてのイシスならば、指先一つ動かすだけで塵へと変えていたであろう魔物。だが今の彼女にとっては、この数尺の距離が、生と死を分かつ絶壁のように感じられた。
(集中なさい、イシス。恐怖は魔力を乱す雑音でしかない)
イシスは震える右手を突き出し、掌に熱を凝縮させる。
狙うは、低く身を構え今まさに跳躍しようとしている右側の一体。
心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。彼女は体内の魔力回路を強引に開き、細い糸のような魔力を手繰り寄せた。
「……『火球』!」
放たれたのは、拳大の火の玉。
しかし、本来ならば着弾と同時に爆散するはずの魔法は、射出された直後に弱々しく揺らめき、形を崩し始める。圧倒的な「出力不足」。
「しまっ……!」
魔力が霧散しかけたその隙を、ワイルドキャットは見逃さなかった。
しなやかな跳躍。空を裂く風の音と共に、獣の鉤爪がイシスの右腕を深く切り裂く。
「っ……!」
ローブの袖が赤く染まり、焼けるような痛みが走る。
だが、イシスはその場に倒れ込むことを自分に許さなかった。
膝を突きそうになる体を、プライドという名の意志で支え直す。
叔母ロザリンドの、氷のように冷たくも気高い教えが脳裏をよぎる。
『傷を負った程度で魔法を止めるな。魔法使いの命は、その心臓ではなく、紡ぐ術式の中にこそある』
痛みに意識が飛びそうになるのを逆手に取り、イシスは激痛を「燃料」に変えた。
逃げるように揺らいでいた魔力が、彼女の執念に応えるように再び一点へと収束する。
「……焼き、尽くせ!!」
至近距離。回避不能の間合いで、彼女は再び魔法を解き放った。
今度は、霧散させない。
体内の回路が焼き切れるような感覚を覚えながら、無理やり魔力を押し出した。
ドォォン! と、湿った森に不釣り合いな爆発音が響く。
直撃した火球が獣を呑み込み、泥濘に叩き伏せた。
残る一体が、その執念に気圧されたように後ずさりし、深い藪の中へと逃げ去っていく。
静寂が戻った森で、イシスは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと右腕を押さえた。
一刻後。
冒険者ギルドに戻ったイシスは、窓口で今回のお金を受け取っていた。
差し出された数枚の銅貨。
それは、帝都で過ごした日々の茶菓子代にも満たない、あまりにもささやかな対価だ。
「ダンジョンで得たお金は、まだ尽きていないけれど……」
あの日、上級パーティーと組んでダンジョンに潜った時の報酬は、確かにまとまった金額だった。
けれど、あのような幸運が転がり込むこと自体が稀なのだ。上級者たちと共に任務に就けること、そして高額な報酬を得られること——どちらも滅多にない僥倖だと、イシスは理解している。
(コツコツとやっていこう)
カウンターの隅で、イシスは傷ついた腕をじっと見つめた。
布で巻いた応急処置の下で、鈍い痛みが脈打っている。
その痛みが、遠い記憶を呼び起こした。
幼い頃、故郷で叔母のロザリンドから受けた厳しい修行。
何度転んでも立ち上がらされ、魔力が枯渇するまで訓練を続けた日々。
あの頃の自分も、今と同じように傷だらけだった。
「……あの方が見たら、きっと呆れるでしょうね」
故郷の空気を思い出し、イシスは自嘲気味にクスリと笑った。
ギルドの片隅で、彼女は先日ダンジョンで獲得した古びた魔導書を再び開く。
もうすでに読み終えた後だったが、イシスが読み落としがないか暇さえあればこうして見返している。
得た知識としては、期待していたほどの秘術はなかった。
そこには「稀に魔法出力を人為的に調整できる『天恵』を持つ者が存在する」という記述があったが、そんな夢のような話は聞いたことがないし、もしいたとしても、そんな者を雇うには莫大な依頼料が必要になるだろう。
溜息をつきながら頁を捲る手が、今のところ最有力な情報の最後の一文で止まった。
『――生命の危機に瀕した際、生存本能の爆発と共に魔力出力量が劇的に増加したという記録が散見される』
つまり、地道な放出の繰り返しも効果はあるが、「死の淵」で無理やり出力を引き上げる方が、回路の拡張には得策だということだ。
だからこそイシスは、わざと今の実力ではギリギリの任務を単身で受け、傷を負うような無茶を繰り返しているのだ。この痛みこそが、彼女にとっての「近道」だった。
「おーい、ロゼ! またボロボロじゃないか!」
呆れたような、けれど温かい声。
顔を上げると、ダリウスたちがいた。
あれから個別に依頼は受けていないが、ギルドで顔を合わせるたびに言葉を交わす仲になっていた。
「ダリウス様、お疲れ様です」
「お疲れ様じゃないよ。ほら、オズワルド、診てやってくれ」
「はいはい。ロゼさん、また無理をしましたね」
治癒士のオズワルドが苦笑しながら、聖なる光で傷を癒していく。
リーダーのダリウスは、長年の冒険者生活で培った知恵を惜しみなく教えてくれる。どの依頼が割に合うか、どの商人が信頼できるか、どの地域に危険な魔物が出没するか——実践的な助言は、どんな教本よりも価値があった。
治癒士のオズワルドは、任務から戻るたびに傷だらけのイシスを見かねて、無償で治療を施してくれる。彼の温かい手から流れ込む治癒魔法は、肉体だけでなく心までも癒してくれるようだった。
フィンは、近所に気になる娘がいるらしく、プレゼント選びや恋愛相談をイシスに持ちかけてくる。不器用な彼の真剣な様子が微笑ましく、イシスも親身になって相談に乗っていた。
そして特に親しくなったのが、魔法使いのエリナだった。
二人は魔法出力について知識を共有し、時には魔法道具店を一緒に巡った。エリナは「魔法道具に頼るのも一つの方法よ」と、信頼できる店を紹介してくれる。一方でイシスは、まだまだ魔法使いとしての知識が足りないと感じたエリナから教えを乞われ、理論や基礎を教えていた。
周囲から見れば、それは微笑ましい冒険者たちの交流。
お互いに補い合い、高め合う——そんな関係が、イシスにとって新鮮で、心強かった。
故郷を離れ、孤独に戦い続けていた彼女にとって、こうして支え合える仲間ができたことは、何よりの財産だった。
ダリウスは腕組みをして、じっとイシスを見つめた。
その眼差しには、仲間を思う真剣さが宿っている。
「ロゼ、お前の気持ちはわかる。魔法出力を戻したいんだろう。だが、そんな無茶な戦いばかり続けていたら、いつか本当に取り返しのつかない大怪我をするぞ」
彼の言葉に続くように、背後で控えていた仲間たちも一斉に口を開く。
「そうですよ、ロゼさん。私の治癒魔法だって万能じゃないんです」
オズワルドが眉を下げ、祈るように手を組む。
エリナも「せっかく魔法理論を教えてもらってるんだから、いなくなられたら困るわ」と冗談めかしつつ、その瞳には隠しきれない不安が揺れていた。
フィンまでもが、いつもの軽口は封じて真剣な顔つきだ。
「本当に、無理しないでほしいんだ」
「もっと安全な方法だってあるはずよ」
イシスは小さく息を吐き、彼らの顔を一人ずつ見つめた。それから、深々と頭を下げる。
「みなさん、本当にありがとうございます。心配してくださって……嬉しいです」
声は静かだが、感謝の気持ちは本物だった。
自分の足で立つためには、手段を選んでいる余裕などないのだ。
行動を改めるつもりがないことは、その凛とした微笑みが何より雄弁に物語っていた。
沈黙が流れかけた時、ダリウスが咳払いをして話題を変えた。
「……はぁ、まあいい。お前の覚悟は分かった。それはそうと、話があるんだ」
彼の声色が変わり、少し改まった雰囲気になる。イシスは顔を上げた。
「以前、俺たちと一緒に踏破したダンジョンのことだが——あそこ、かなりの歴史的価値があったらしい。特に魔法文化的な観点からすると、相当に重要な遺跡だったそうだ」
ダリウスは続ける。
「それでな、帝国一と名高いルベドフィア魔法学院から、偉い学者たちが調査目的でこの街まで来たんだ」
その名を聞いた瞬間、イシスの背筋に冷たいものが走った。
ルベドフィア魔法学院——彼女がかつて在籍していた、帝国最高峰の学び舎。
輝かしい日々と、そして苦い記憶が詰まった場所。
「そして、その学者たちが言うには——あの魔法回路を読み解いた冒険者に、ぜひ話を伺いたいと」
ダリウスの言葉が、まるで遠くから聞こえるようだった。
イシスの心臓が、早鐘のように打ち始める。
まずい。まずい、まずい——
思考が空回りする。彼女は反射的に、ローブのフードに手を伸ばした。
顔を隠さなければ。誰にも気づかれてはいけない。
しかし、手がフードに触れるより早く——
「イシス……?」
その声が、背後から聞こえた。
イシスの全身が、石のように固まる。
その声には聞き覚えがあった。
ゆっくりと振り向くと、ダリウスの大きな体の後ろに隠れて見えなかったその人物が、今まさに姿を現すところだった。
整えられた銀縁の眼鏡の奥で、知的な双眸が激しく揺れている。
魔法学院の上級研究者を示す紋章が刺繍されたローブ。
その人物は、信じられないものを見たかのように目を見開き、呆然とイシスを見つめている。
「イシス……本当に、君なのか?」
声は震えていた。
イシスは息をするのも忘れていた。胸の奥で、何かが激しく軋む音がする。
彼の名は、カイル・クロムウェル。
ルベドフィア魔法学院にて、首席の座を争い続けた元学友。
そして何より――家同士が決めた、ユリウス・カーライルと出会う前の、彼女の元婚約者だった。




