十一話
ユリウス・カーライルは、冷たく静まり返った執務室で着替えを済ませていた。
磨き上げられた鏡に映る自分は、帝国の「剣聖」としての完璧な姿をしている。
しかし、その胸中に広がるのは、主を失った邸宅の空虚さと同じ、色のない静寂だった。
彼は机上の羊皮紙に目を落とし、今後の予定を確認した。
「……今夜は、何もないのか」
口から漏れた言葉が、高い天井に虚しく響く。
偶然にも、今夜は公務も訓練の予定も入っていなかった。
戦場と執務に明け暮れる彼にとって、こうした平和な夜が訪れるのは極めて稀なことだ。
かつての彼なら、空いた時間さえ剣を振るうことに費やしていただろう。
だが今、何をすべきか、何がしたいのかが分からない。自分を繋ぎ止めていた、あるいは自分が守っていたはずの「日常」の輪郭が、イシスの失踪と共に消えてしまったからだ。
ふと、机の端に置かれた豪奢な招待状が目に入った。
『帝都貴族主催 月下夜会のご案内』
いつもなら、読む暇もなく気付けば主催日が過ぎている、そんな招待状。
だが、今夜は何もすることがない。
一人でこの「冷たい家」に留まることは、今の彼には苦痛でしかなかった。
「……行ってみるか」
ユリウスは、あてもなくその招待状を手に取った。
会場となる帝都の迎賓館は、光の洪水に包まれていた。
重厚な扉が開くと、華やかなドレスの衣擦れの音と、高級な香油の香りが押し寄せてくる。天井のシャンデリアから降り注ぐ光が、貴婦人たちの煌びやかな宝飾品に反射し、万華鏡のような眩暈を誘う。
優雅な弦楽四重奏の調べが流れる中、人々の談笑が絶え間なく続いていた。
「まあ……!」
「嘘でしょう、剣聖様が……!」
ユリウスが入場した瞬間、会場にさざなみのようなどよめきが広がった。
既婚者である彼に直接色目を使うことは、本来は社交界の禁忌である。だが、噂は毒よりも早く広まるものだ。
「やはり、離婚は近々かもしれないわね」
「次の剣聖の妻となる方は果たして……」
そんな不穏な憶測が令嬢たちの野心を焚きつけた。
後釜の座を狙う毒々しい美貌の花たちが、獲物を見つけた狩人のような目でユリウスを取り囲む。
ユリウスは内心の不快感を完璧な仮面の下に隠し、一人一人に丁寧な社交辞令を返した。
彼にとって、これは戦場での立ち回りと何ら変わりはない。
そんな中、一人の少女が緊張で震える声で彼に話しかけた。
「初めまして、ユリウス様。セリーナ・フォレストと申します」
若い、まだ垢抜けない印象の令嬢だった。華やかすぎるドレスが、その幼い顔立ちには不釣り合いに見える。
「フォレスト……」
ユリウスは微かに眉を動かした。ルベドフィア公国の近隣に位置する、小貴族の名だ。
だが、彼の視線はその少女の顔ではなく、指先に釘付けになった。
彼女の細い指で場違いなほどの存在感を放っている、指輪。
深い青を湛えたサファイア。その内部には、星のような煌めきが幾重にも揺らめいている。
――あれは、間違いない。
ユリウスの翠眼が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
イシスが失踪した際、着けていたはずの宝飾品。なぜ、それがこの少女の手にあるのか。
地元の窮屈な領地を離れ、帝都の華やかな空気を吸っているセリーナは、今、人生で最高の高揚感の中にいた。
あの「忌々しい」リネアがフォレストの屋敷に帰ってきて以来、セリーナと母マリアンヌの肩身は狭くなる一方だった。
隠居していたはずの祖母が、リネアの帰還に呼応するように元気を取り戻し、再び屋敷の実権を握り始めたのだ。以前のように好き勝手に贅沢をすることも、リネアを虐めることも難しくなった。
「あんな女、死んでしまえばよかったのに」
何度も母にリネアを排除するよう持ちかけたが、慎重な母は首を縦に振らない。
不満を募らせたセリーナは、せめて気晴らしにと、身分不相応な帝都のパーティーに参加することにした。あわよくば、この美貌で大貴族に見初められ、あの煤けた田舎の屋敷から抜け出したい。
自分のような地方貴族に招待状が届いたこと自体、奇跡に近い。セリーナは「舐められてはいけない」と、手持ちの中で最も高価な装身具を身に纏った。
出発の直前、地元で一番の宝石店に立ち寄った際、店主が卑屈な笑みを浮かべて差し出してきたのが、この指輪だった。
『お嬢様、これほどの品、滅多に市場には出回りませんよ』
一目で特別な値打ち物だと分かった。フォレスト家の家計を考えれば無謀な買い物だったが、彼女は迷わず購入した。これを身に着ければ、帝都の令嬢たちにも引けを取らないと信じて。
喉元まで出かかった問いを、ユリウスは理性で押し留めた。
(ここで尋問すれば、彼女を怯えさせ、情報を閉ざさせる。あるいは周囲に悟られる)
「セリーナ様」
ユリウスは、恐ろしいほど穏やかな微笑を浮かべた。
「よろしければ、一曲ダンスをご一緒していただけませんか?」
「え……! は、はい! 光栄です、喜んで!」
セリーナは顔を真っ赤にし、夢見心地で頷いた。
「あの剣聖様に気に入られた!」という狂喜が、彼女の冷静さを奪う。
二人は豪華な装飾が施されたダンスフロアの中心へと進んだ。
ワルツの旋律が流れる中、ユリウスはセリーナの柔らかな手を取り、熟練のステップを踏み始める。
「フォレスト家……たしか、南部の領地をお持ちでしたね」
「あ、はい! 小さな場所ですが、静かで良いところですわ」
「そうですか。……ところで、その指輪。あまりに見事で、つい見惚れてしまいました」
「まあ! ありがとうございます。実はこれ、つい最近地元の宝石店で購入したばかりなんですの。運命を感じてしまいましたわ」
ユリウスは、彼女の警戒心を解きながら、淀みなく情報を引き出していく。
購入した宝石店の名前、店の場所、セリーナの屋敷の正確な位置。
ダンスが終わり、一礼する頃には、彼が必要とするすべてのピースは揃っていた。
「ありがとうございました」
セリーナは夢見心地で頭を下げ、同世代の令嬢たちの嫉妬に満ちた視線を浴びて陶酔していた。
その時、周囲から棘のある囁きが漏れ聞こえてきた。
「……珍しいこともあるものですわね」
「ユリウス様がこれほど熱心に令嬢の相手をなさるなんて。やはり噂通り、イシス様とは……」
「本当ですわね。形だけの婚姻だったのでしょう」
ユリウスの背筋に、冷たい怒りの火が灯った。
(イシスは、独り…こうやって陰口に晒され続けてきたのか)
――バリーン!
不快な破砕音が響いた。
会場の隅で、帝都侯爵家の次男、エドワード・グラナドが酔い潰れ、グラスを床に叩きつけていた。
赤ら顔のエドワードは、千鳥足で近くにいた若い令嬢の肩を強引に抱き寄せようとする。
「ああ、またグラナド家のエドワード様ですわ」
「しつこい方。いつも独りで壁際にいたイシス様にも、卑猥な言葉を投げかけていらしたでしょう?」
「今日は標的がいないから、他の女性に手を出し始めましたのね」
その言葉が耳に入った瞬間、ユリウスの中で何かが「断裂」した。
怯える令嬢と、下卑た笑いを浮かべるエドワードの間に、影のような速さでユリウスが割り込む。
「……っ」
ユリウスの鋼のような掌が、エドワードの二の腕を掴んだ。
「痛っ!? な、なんだ、貴様……!」
赤子の腕を捻るように、ユリウスは静かに、しかし容赦なく力を込めた。ミシミシと骨がきしむ音が、エドワードの耳にだけ聞こえる。
「ぐっ、あ、あがっ……!?」
「そうやって」
ユリウスがエドワードの耳元で囁いた。その声は、深淵の底から響くような死の宣告に等しかった。
「私の妻にも無礼を?」
エドワードは震え上がった。目の前にいるのは、救国の英雄ではない。
自分を今すぐ塵に変えかねない、剥き出しの「暴力」そのものだ。
全身の毛穴から冷や汗が吹き出し、酔いは一瞬で霧散した。
ユリウスが手を離すと、エドワードは腰を抜かしながらも、転がるように会場を逃げ去った。
周囲は静まり返り、次いで黄色い悲鳴が上がった。
「まあ……剣聖様、なんて勇ましくて素敵……!」
「令嬢をあんなに華麗にお助けになるなんて……!」
その時だった。
「失礼いたします」
人混みを割って、一人の男がユリウスに近づいた。
転送魔法の適正者のみが任される、皇帝直属の伝令係だ。
「剣聖……」
男は困惑と、そして隠しきれない戦慄の色を浮かべてユリウスを見つめた。
彼は魔力に敏感だ。だからこそ、先ほどユリウスから放たれた、誰かを害したいという純粋な「憎悪」の濃度に気づいてしまった。
剣聖ユリウスにとって、剣は秩序を守るための「道具」であり、怒りや憎しみを刃に乗せたことなど、これまで一度もなかったはずだ。
それこそが彼の強さであり、聖なる所以であった。
だが今、目の前に立つ男からは、戦場でも見たことのない禍々しいまでの感情が渦巻いている。
「……何でもない」
ユリウスは低く言い捨て、感情を再び心の奥底へ押し込めた。
伝令は封蝋で封じられた書状を差し出す。
「陛下からの、緊急の勅命です」
だが、ユリウスはその書状を一瞥だにしなかった。
「……剣聖?」
「私は、ここにいなかった。陛下にはそう伝えてくれ」
「なっ、それは……! 皇帝陛下への反逆になりますぞ!」
伝令の顔が青ざめる。ユリウスは取り合わず、冷徹に言い放った。
「ローガンを派遣しろ」
「ローガン副団長を……?」
「北部、グレイシャス峠の魔物暴走の件だろう。ワイバーンの群れ、数は十五前後。ローガンの騎士団なら、民にも部下にも一人の犠牲も出さずに任務を遂行できる」
伝令は、言葉を失い愕然とした。
書状を読んでいない。それどころか、開封さえしていない。
なのに、まるで未来を予見したかのように、彼は内容を正確に言い当て、最適解を提示した。
「で、ですが、それでもこれは陛下の直々の命です! 貴方でなければ――」
「伝えてくれ」
ユリウスが言葉を遮った。その背中に、もはや迷いはない。
「私には今、命に代えても優先すべきことがある」
「優先すべきこと……?」
帝国の守護神。そう謳われる彼にとって、国難以上に優先すべきことなど、この世にあるはずがない。
伝令は、耳を疑った。
「……失礼する」
ユリウスはそれだけ言うと、一陣の風のように会場を去った。
呆然と立ち尽くす伝令の手には、開封されていない勅命の書状が虚しく握られていた。
彼は震える手で封を解く。
そこには、ユリウスが言った通り、『北部グレイシャス峠、ワイバーン討伐の件』と鮮明に記されていた。
「読まずに、内容を……そして、勅命を拒んだというのか。あの剣聖が……」
伝令は、ユリウスが消えた夜の闇を、ただ息を呑んで見つめることしかできなかった。




