十話
帝都の喧騒から隔絶された丘の上に建つ、カーライル邸。
民衆からは「剣聖の居城」と畏怖されるその建物は、外壁に純白の大理石を惜しげもなく使い、所々に純金の装飾が施されている。しかし、それは権力を誇示する絢爛豪華さというよりは、一種の神性を帯びた、俗世を拒絶する神殿のような趣だった。
整然と刈り込まれた生垣、幾何学的に配置された花壇。
中央の噴水は月光を反射して銀色に輝いているが、その水音さえも静寂を際立たせる装置に過ぎない。
東側の石造りの鍛錬場には、代々の剣聖が刻んできた無数の剣傷が深く、鋭く残っている。
そして本館。
高い天井を支える白い柱。床は磨き上げられた大理石。
壁には、歴代剣聖の肖像画が並んでいる。
家具の一つ一つが一級品。調度品も、芸術品の域に達している。
ユリウス・カーライルは、二週間ぶりにその重厚な玄関をくぐった。
辺境での任務による泥と血の臭いが、全身の疲労とともに染み付いている。
だが、それ以上に彼の心を重く沈ませていたのは、帰るべき場所としての「家」の温度のなさだった。
「お帰りなさいませ、ユリウス様」
玄関で一礼したのは、年配の専属メイドだった。
かつてイシスの身の回りを世話していた彼女の表情は、驚くほど穏やかで、まるで主人の失踪という非常事態さえも予見していたかのような静謐さを湛えている。
「……ああ」
ユリウスは短く応じ、メイドの瞳を覗き込んだ。
そこには動揺のかけらもない。
「……知っていたのか? 彼女が、いなくなることを」
メイドは肯定も否定もせず、ただ深く、静かに一礼を返した。
「こちらへ。ご案内いたします」
歩き出した背中を追い、ユリウスは屋敷の奥へと進む。
辿り着いたのは、イシスの私室がある区画だった。
扉が開かれた瞬間、ユリウスは息を呑んだ。
そこはイシスの衣装室だったはずだ。
しかし、壁一面を埋めていたはずの絹のドレスも、宝石を並べたガラスケースも、今はただの虚無としてそこにあった。
空っぽだった。あまりに徹底して、何もかもが消えている。
(何もかも……消えている)
部屋の中央、小さなテーブルの上に、一枚の紙が置かれていた。
小切手。
無造作に手に取ったユリウスの目が、そこに記された数字に釘付けになった。
無欲な彼でさえ、思わず凝視してしまうほどの莫大な金額。
「カーライル夫人からの伝言でございます」
メイドの淡々とした、しかし重みのある言葉が部屋に響く。
「『これは、私が受け取るべきものではありません』。……『貴方が血を流し、苦労を重ねて得た代価であり、財産です』。……『だから、すべてお返しします。どうか、ご自由に』」
ユリウスの指先が、わずかに震えた。
彼女はこの邸に来てから与えられた物品のすべてを、換金したのだ。
それも、ただの投げ売りではない。
この莫大な金額から推測するに、価値のわかる鑑定人を一人ひとり呼び寄せ、正当な価格を引き出し、丁寧に、執念深く清算したのだ。
――疑惑が、確証になった。
ユリウスの脳裏に、あの光景が蘇る。
滝壺に落ちる、イシスの姿。
「お互いから、解放されましょう」
その言葉。
――間違いであってほしかった。
ユリウスは、心の奥で願っていた。
彼女は、逃げようとして揉み合った末、首を傷つけて”しまい”。不可抗力で、七色の滝壺に落ちた。
そうであれば。
万が一、彼女を見つけることができれば。何を迷うことなく、連れ戻せるから。
だが。この小切手が、証明している。イシスのあの一言が、証明している。
彼女は――ユリウスとの関係を清算することを目的に。
わざと、誘拐された。
わざと、首を傷つけた。
わざと、見つからぬようにと、七色の滝壺に、落ちていった。
おかしな点は、いくつもあった。
カーライル邸は、あの程度の賊が入り込めるほど、警備は甘くない。
屋敷の女主人が、わざと警備を緩めたりしない限り――
ユリウスは、無意識のうちに小切手を握り潰していた。
「……いつからだ。いつから、私は間違えてしまったんだ」
記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡る。
数年前。イシスとの婚姻が決まったあの日。
全国民は、十六歳の誕生日。天恵付与のできる神殿で、天恵の有無を調べる。
イシスが誕生日を迎えて、数週間。
彼女は、ずっと学院を休んでいた。
そして――
退学届を出したと、耳にした時。
ユリウスは、いてもたってもいられなくなった。
貴族のツテを使って、調べ上げた。
そして。
耳を疑う事実を、聞いた。
写しの天恵――それに伴う、皇帝の残酷な命令。
誇り高いルベドフィア家は、大激怒した。
貴族令嬢どころか。一人の女性としての尊厳を、踏みにじった勅命に。
あらゆる権力を使い、帝国全体の機能を、半分停止にまで追い込んだ。
それでも。
皇帝は、勅命を取り消さなかった。
どんな善人にも、敵対する相手がいるように。どんな大貴族にも、敵対する貴族がいる。
皇帝は、ルベドフィアに敵意を持つ貴族たちを集め。対抗してみせた。
当時の力関係としては、それでもルベドフィアに軍配が上がると思われた。
だがそこに、ルベドフィア家と同格の大公家筆頭――アイゼンガルド大公家が、皇帝側を後押しした。
これが決め手となった。
皇帝は、帝国に反逆したとして。ルベドフィア家の当時の当主――イシスの父を、投獄した。
ルベドフィア家の起こした抗議自体は、人害が出ないよう計算し尽くされたものであった。それ故に人が死ぬような被害は、報告されなかった。
だがそれでも皇帝は、この抗議を大罪とし、イシスの父を人質に、彼女を帝都の宮殿へ呼び寄せた。
ユリウスが、警備を押し除けて宮殿へ入った時。
皇帝の玉座の前で。イシスが、一人立っていた。
話を聞かなくても、分かった。
人質の命と引き換えに、彼女に天恵を使わせることを承諾させたことを。
その時見た――イシスの、あの凍てついた瞳をユリウスは一生忘れることはできないだろう。
「私の他に誰が、イシス様を妻に迎えることができるでしょう」
ユリウスの心には、すでにイシスがいた。
だから。
この発言の全てが、善意からだったとは言えない。
救いたいという想いは間違いなく本物だったであろう。
だが、彼女が断れない状況であることを理解した上での「略奪」に等しい求婚だったことも、また否定できない事実だった。
一生相手の違う子を何人も産まされ続ける、相手を選べず、種付けされる馬のようになるよりは。
たとえ好きでもない相手だったとしても――。
ユリウスは、そう思った。
「……あの時、守ると誓ったのに」
ユリウスは、呟いた。
「結局、彼女は苦しみの果てに。自分の元から、去ってしまった」
小切手を握りしめる。
「結局、守れていないじゃないか」
立ち尽くすユリウスに。
メイドが、静かに話し始めた。
「ユリウス様、一つ勘違いをなさっております。……私は、あの方がルベドフィアの領地にいらした頃から仕えております。使用人が主人の心のうちを憶測し、勝手に発言するなど、非礼になりますが…あの方は、貴方に感謝していたと思います」
「!」
ユリウスの目が、見開かれた。
メイドを見る。
「あの方は、旦那様がいつ帰られても迎えに出られ、いつ任務に向かわれても送り出されていました。
普通は恨んでいる相手に、そこまでできません。ユリウス様が夜中に出迎えなくて良いと何度注意をしていても、あの方はやめませんでした。ご存じでしょう?」
「……ああ」
「そして何より」
メイドの声が、少しだけ温かくなった。
「出ていくユリウス様の背中を、あれほど心配そうに見つめ、帰ってくるユリウス様を、あれほど安堵した様子で見つめるイシス様が、ユリウス様を恨んでいたなんて、とても思えません」
ユリウスは唇を噛んだ。
「だったら、何故」
声が、震える。
「長い時の中で、一言でも私に――」
――辛いと、言ってくれなかったのか。
そう続けようとした、その時。
メイドが、言葉を被せた。
「言えなかったのでしょう…いえ、言う資格が無いと思っていたのではないかと思います」
メイドの視線が、静かにユリウスを射抜く。
「失礼を承知で申し上げますが、ユリウス様はイシス様を守るため、あまりに多くのものを背負われすぎました。陛下には『イシスは子が望めぬほどに体が弱っている』と偽りの報告を上げ続け、あの方への矛先を逸らし続けた。ですが、それも限界でした。陛下の忍耐が尽きつつあることを、イシス様も察しておられた。
だから貴方は、軍部増強の必要がないほど自ら戦果を上げ、国益を稼ぎ出すことで彼女の居場所を強引に作り出された。
……すべてを国益に捧げる生活を送るようになった。そのお姿を、あの方はどんなお気持ちで見ていたとお思いですか? 自分のせいで夫が戦場に縛り付けられ、一言の弱音も吐かずに身を削っている。そしてなにより、その激務の一因を自分が担っていると知るあの方が、どうして『私は辛い』などと口にできましょうか」
沈黙が、重く部屋を満たす。
ユリウスは小さく吐息を漏らした。
恨まれてはいなかった。
その事実にわずかな安堵を覚えながらも、生死不明の現状に変わりはない。
だが、確信した。彼女が生きているのなら、彼女は今、その「自由」を手に、前へ進もうとしているのだと。
ユリウスは、手の中でくしゃくしゃになった小切手を見た。
――私たちは、結ばれる運命ではなかった。
――だから、お互いから解放されて。
――貴方も、もっと自由に――
イシスに、そう言われているようだった。
ユリウスの脳裏に、また記憶が蘇る。
イシスが、天恵発現へと向かう直前。
「貴方は、冒険者になるのが夢だろう? それに伴うものだといいね」
「うん。でも、もっとしたい夢が見つかったの」
「それって?」
イシスは、微笑んだ。
「……天恵が良いものだったら、教えるわ」
そして。
向かった、彼女。
「……貴方は今」
ユリウスは、天井を見上げた。
「その夢を、追いかけているのかな」
乾いた笑いが。何もなくなった衣装室に、響き渡った。




