九話
「ここが、ダンジョン……」
イシス——今は偽名のロゼと名乗っている彼女は、眼前に聳え立つ巨大な遺跡を見上げた。
街から半日ほど、深い森の静寂を切り裂いて進んだ先に、その入口はある。
苔に覆われた古びた石造りの門は、まるですべてを飲み込む巨獣の口のように、暗く、静かに開かれていた。
「ああ。古代ヴェルディア王朝の神殿跡だ。かつては神の祝福を受けた聖域だったんだろうがな」
パーティーのリーダーであるダリウスが、腰に下げた大剣の具合を確かめながら答えた。その声には、幾多の死線を潜り抜けてきた冒険者特有の、乾いた慎重さが混じっている。
「最近、低級の魔物が住み着いているという報告が相次いでいてね。内部の調査と、巣食う魔物の間引き——その両方が今回の我々の仕事だ」
魔法使いのエリナが、漆黒の木で作られた杖を掲げた。
「私が先頭で照明を維持するわ。オズワルドは後方で不測の事態に備えて。フィンは中衛で射線を確保してちょうだい」
「ロゼさんは、僕の隣に。大丈夫、僕がしっかり守りますから」
弓使いのフィンが、人懐っこい笑顔で彼女の隣に並んだ。その屈託のない優しさに、イシスは胸の奥がわずかに痛むのを感じた。
「ありがとう、フィン。頼りにしているわ」
イシスは、偽りのない微笑みを返した。
——初めてのダンジョン。
心臓の鼓動が、普段より少しだけ速い。それは未知への恐怖よりも、それ以上に膨らむ期待のせいだった。
自分が積み上げてきた知識が、誰かの力になる。自分の意志で、冒険者として報酬を得る。
ただの「道具」でも、飾られた「妻」でもない。一人の人間として立っているという実感。それが、今の彼女には何よりも誇らしかった。
「よし、野郎ども、行くぞ。気を引き締めろ」
ダリウスの低い合図とともに、五人は遺跡の暗がりへと足を踏み込んだ。
ダンジョン内は、冷たく湿った空気に満ちていた。
エリナの魔法によって生み出された淡い光球が、古い石壁をぼんやりと照らし出している。
ふと、イシスの視線が壁面に刻まれた文様で止まった。
「これは……」
彼女は思わず足を止め、その刻印に指先を這わせた。
「どうかしたか、ロゼ?」
「……第三期の祈祷文です。『我ら、久遠の光の加護を願い、闇を退けん』。神殿の最深部にある聖域を守るために刻まれる、伝統的な定型句ですね。この先に進む者への、警告と祝福の意味が込められています」
「へぇ、そんなことまで分かるのか。あんた、本当に学があるんだな」
ダリウスが感心したように唸った。イシスは無意識に、自嘲気味な言葉を零しそうになる。
「ええ。魔法学院で——」
言いかけて、彼女は言葉を飲み込んだ。
魔法学院。ルベドフィアの誇りを胸に、主席として未来を夢見ていたあの輝かしい日々。
「——いえ。昔、少し独学で勉強したことがあるんです」
「そうか。まあ、頼りにしてるぜ」
ダリウスは深追いせず、再び前を向いた。
一行はさらに深部へと進む。通路が広がり、広間に出たその瞬間だった。
「……気をつけろ。臭うぞ」
ダリウスが鋭く剣を抜いた。その刹那、闇の奥から複数の影が、不快な叫び声とともに飛び出してきた。
魔物——ゴブリンの群れだ。
「来たわ! 各員、戦闘開始!」
ダリウスが真っ先に踏み込み、先頭のゴブリンを一刀のもとに斬り伏せる。エリナの杖から放たれた火球が闇を焼き、フィンの矢が正確に魔物の喉元を射抜いていく。オズワルドは背後で呪文を唱え、負傷に備えていた。
「ロゼさん、下がって!」
フィンの叫びに、イシスは反射的に後退した。
広間の隅で、激しい戦闘を見つめる。剣戟の音、肉を裂く感触、魔物の断末魔。
——私は、何もできない。
今の彼女の体内には、かつてと変わらぬ膨大な魔力が澱のように眠っている。
しかし、その魔力を体外へと放出するための「出力」が、目詰まりを起こしたかのように極端に制限されていた。
戦う術を知り、魔力の練り方も理解しているのに、肝心の「力」が指先から滑り落ちていく。そのもどかしさに、胃の奥が焼けるような苦さが広がった。
数分後、静寂が戻った。魔物たちはすべて物言わぬ肉塊へと変わっていた。
「ふう……この程度なら準備運動だな。怪我はないか?」
「大丈夫です。ロゼさんも無事ですね?」
フィンの問いに、イシスは小さく頷くしかなかった。無事であること。
それが、今の自分には「足手まとい」であることと同義に思えて仕方がなかった。
一行はさらに探索を続け、最深部に近い巨大な扉の前へ辿り着いた。
「……鍵がかかっているな。魔法的な仕掛けか」
ダリウスが扉を押し、肩を貸すが、岩のように動かない。エリナが扉の前に跪き、複雑な文様を読み解こうとするが、すぐに苦い表情で首を振った。
「古代の封印魔法陣だわ。多重構造になっていて……私の知識じゃ、解呪に何時間かかるか分からない」
「私に、見せていただけますか」
イシスが前に出た。扉には、魔法学院の地下書庫で何度も目にした、古い幾何学の応用が刻まれていた。
「……これは四元素の調和による封印ですね。火、水、風、土。古代魔法における世界の理を模したものです」
「解けるのか?」
「ええ。この文様が示す順序に従って、正確な魔力を流し込めば……。ただ、今の私には扉を動かすほどの出力がありません。エリナ、手伝ってください」
イシスの細い指が、冷たい石の文様をなぞる。彼女の精密な制御と指示に従って、エリナが慎重に、かつ力強く魔力を流し込んだ。
火、水、風、土——。
重厚な駆動音が響き、数百年閉じられていた扉がゆっくりと口を開けた。
「すげぇ……。ロゼさん、」
フィンの称賛に、イシスは複雑な心境を飲み込み、頬を緩めた。
——役に立てた。
力ではなく、知恵で。少しずつ、けれど確実に、自分はこの場所の一部になろうとしている。
「待って、そこは踏んではいけない——!」
イシスの警告より一瞬早く、ダリウスの足が床の隠し魔法陣を起動させた。
眩い光が部屋を満たし、重力の感覚が消失する。
気づいた時、イシスは一人、見知らぬ狭い通路に放り出されていた。
「……ダリウスさん? エリナさん?」
返事はない。不完全な転送魔法陣による強制分断。
イシスは冷静に周囲を確認した。幸い、すぐ近くから足音が聞こえてくる。
「ロゼさん!」
「フィン! 無事だったのね」
駆け寄ってきたのは、フィン一人だった。
「他の皆とは離れちゃったみたいです……。どうすれば」
「大丈夫、落ち着いて。この魔法陣の核を停止させれば、空間の歪みは戻るはず」
二人は通路を進み、魔力の源泉となっている台座を見つけた。
高純度の魔石が、不気味な脈動を繰り返している。
「これを壊せばいいんですね!」
「待って。今の私が出せる最大の魔力でも、石を砕くには足りない。フィンの矢で、この台座の側面の『結び目』を射抜いて。そこが魔力の供給路になっているの。そこなら、物理的な衝撃で魔力の流れを乱せるから」
フィンの放った矢が、正確に急所を貫いた。
魔石の光が霧散し、風景が反転する。次の瞬間、二人は元の広間へと引き戻されていた。
「ロゼ! フィン! 無事か!」
駆け寄る仲間たちの輪の中で、フィンは興奮気味に叫んだ。
「ロゼさんがいなかったら、僕、今頃どうなっていたか……!」
「いや、実際に魔法回路を壊したのはフィンの矢だから…」
「おいおい、そんな謙遜するなよ。冒険者パーティーってのは、足りないところを補い合うもんだろ?」
——足りないところは、お互いに補い合いましょう。
かつて学生時代、自分がユリウスに贈った言葉が、皮肉にも今、自分を救う言葉となって返ってきた。
イシスは頷いて、服についた埃を払い、立ち上がった。
「さあ、行こう。この不気味な静寂も、もうすぐ終わりだ」
リーダーのダリウスが、前方の闇を見据えて言った。
「もう少しで、この遺跡の心臓部——最深部だ」
一行が巨大な石扉を押し開けると、そこには円形の広大な空間が広がっていた。
天井は高く、中心には月光を模した魔導光が冷たく降り注いでいる。
その光の中に、巨躯を横たえる「それ」がいた。
古代魔法によって命を吹き込まれた守護者——巨大な石像、ゴーレム。
侵入者を感知した瞬間、重い岩の擦れる音が広間に響き渡る。赤く灯る眼光が、冷徹に五人を捉えた。
「来るぞ! 総員、散開せよ!」
ダリウスの咆哮と同時に、ゴーレムの巨大な拳が地面を叩きつけた。爆鳴と共に石畳が砕け、凄まじい衝撃波が足元を襲う。
「くっ……! なんてパワーだ!」
衝撃を殺しきれず、エリナやフィンが体勢を崩す。
ダリウスはすぐさま踏み込み、大剣をゴーレムの脚部へと叩きつけたが、硬質な装甲に弾かれ、火花が散るだけで浅い傷一つつけられない。
「物理攻撃も、私の魔法も通じないなんて……! ダリウス、下がって! このゴーレムは『魔力分散装甲』を纏っているわ!」
魔法使いのエリナが焦燥を含んだ叫びを上げ、後退しながら杖を構え直す。
「魔力分散装甲だと!?」
「ええ、現代の魔導書にある記述通りなら、表面に微細な魔力の膜を張って、あらゆる衝撃を外側へと逃がしているはずよ。だから一点集中、ありったけを込めて魔力の膜に少しでも穴をあけることができれば…」
エリナの指摘は、魔法使いとしての正当な知識に基づいたものだった。
ダリウスが舌打ちし、守勢に回る。
だが、その背後で戦況を凝視していたイシスの瞳は、より深い階層の真実を見透かしていた。
(……いいえ。あれは単なる分散装甲ではないわ)
イシスは砂埃に塗れながらも、ゴーレムの胸部に刻まれた複雑な文様を凝視した。
エリナの言う通り、現代の魔法理論ではそれが正解だろう。
しかし、この遺跡の年代、そして刻まれた文様の様式から推測すれば――。
「エリナさん、違います! それは分散装甲ではなく、外部からの衝撃を内部の核石へ『循環』させているだけです!」
「循環!? 何を言っているの、そんな術式……」
「第三期ヴェルディア様式です! 衝撃を受ければ受けるほど、内部の魔石が活性化して出力が上がる仕組みになっています。だから、先に核石を壊さなければ!」
エリナが絶句する。彼女の持つ「現代の常識」のさらに先を行く知識。
「ダリウスさん、あれを見て! 胸部の中心、文様の継ぎ目です!」
「核石だと!? だが、あの分厚い石の装甲が邪魔で届かねぇぞ!」
ダリウスが歯噛みしながら、迫りくる巨腕を間一髪で回避する。
イシスは砂埃の中で目を細め、ゴーレムの挙動を凝視した。
呼吸、魔力の脈動、石が擦れる音――そのすべてから、わずかな違和感さえ逃さぬように。
(……見えた!)
思考の糸が繋がり、彼女の瞳に鋭い光が宿る。
「攻撃を放った直後です! 蓄積した魔力の熱を逃がすために、一瞬だけ排熱用の隙間が開きます。その刹那、装甲の強度が消失するはず!」
「分かった! それなら、僕の出番ですね!」
フィンが鋭い眼差しで弓を引き絞る。
ゴーレムが再び拳を天高く掲げ、破壊の衝撃を繰り出そうとしたその刹那。
「——今! 撃って、フィン!!」
イシスの鋭い号令と共に、フィンの放った矢が空気を切り裂いた。
矢は、開いた装甲のわずか数センチの隙間を寸分違わず通り抜け、その奥で拍動していた魔石へと突き刺さった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ゴーレムの体内から溢れていた魔力の光が乱れ、激しい音を立ててその巨体が膝をついた。
瓦解していく石の山。広間には、ただ土煙だけが舞っていた。
「やった……。勝ったぞ……!」
誰からともなく歓声が上がる。ダリウスが泥だらけの顔で笑い、イシスの肩を力強く叩いた。
「おい、ロゼ! お前がいなかったら、今頃俺たちはあの石の下敷きだったぜ。最高の功労者だ!」
「……いえ。私はただ、見ていただけですから。実際に戦ったのは皆さんです」
イシスは穏やかに微笑みを返した。
仲間たちの賞賛は温かく、初めて自分の知識が実戦で役に立ったという充足感はある。
しかし、彼女の視線は、自身の白く細い手へと落ちていた。
その手は、冷たく、震えている。
(知識で貢献はできた。でも……私は、一歩も動けなかった)
もし、フィンの矢が外れていたら。もし、ダリウスの回避が遅れていたら。
その時、自分に何ができただろうか。
今の、魔力出力さえままならない「ロゼ」という仮面の自分に、パーティーの仲間を守る術があっただろうか。
ルベドフィアの誇りも、剣聖の妻としての立場も捨てて、一人の人間として歩き出したはずなのに。
これでは変わらない。
(私は、まだ何もできていない。自分の手で、誰かを守れる強さを手に入れるまでは——)
勝利の喜びに沸く広間の片隅で、イシスは一人、静かに拳を握りしめた。
その瞳には、学生時代の彼女が持っていた、峻烈な決意の光が宿り始めていた。
扉の先には、崩れかけた宝物庫があった。
「これは……大当りだ。依頼報酬どころの騒ぎじゃねぇぞ」
ダリウスたちが歓喜する中、イシスは一冊の古びた魔導書に目を止めた。
『魔力循環の基礎理論』
——これを読み解けば、堰き止められた私の出力を取り戻す手がかりが得られるかもしれない。
イシスは、震える手でその書を抱きしめた。
その時、休息をとっていたダリウスが、ふと思い出したように口を開いた。
「なあ、そういえば聞いたか? 『剣聖ユリウス』が、またとんでもない戦果を上げたらしいぞ」
イシスの指先が、ぴたりと止まった。
「北の辺境で、古龍を単騎で討伐したって話だ。あの方は、もはや神話の登場人物だな」
「完璧すぎて、同じ人間とは思えないわよね」
エリナの言葉を、イシスは黙って聞いていた。
ユリウス。あなたは今も、一人で完璧であり続けているのね。
誰にも頼らず、誰にも弱音を吐かず。あの冷たい邸で、私が去った後も変わらずに。
胸の奥が、鋭い氷を押し当てられたように締め付けられる。
「ロゼさん? 顔色が悪いですよ、大丈夫ですか?」
「……ええ。少し、空気が薄いのかしら。心配いらないわ」
無理に作った微笑みは、暗がりに紛れて消えた。
ダンジョンを出た頃には、日が傾き始めていた。
ギルドに戻り、依頼達成の報告を済ませると、イシスは初めて「報酬」を手に取った。
ずっしりとした革袋の重み。
——自分の力で、誰かのために働き、手にした対価。
生まれて初めての、汚れなき自由の重み。
イシスの目に、堪えていた涙が滲んだ。
「ロゼ……?」
「……すみません。ただ、あまりに嬉しくて」
夜道を一人歩きながら、イシスは夜空を見上げた。
まだ魔力出力は戻っていない。戦う力も不十分だ。
けれど、今日、彼女は確かに一歩を踏み出した。
誰かの道具としてではなく、自分の意志で、誰かの隣に立つために。
「……もっと強くならなければ…」
冷たい夜風が髪を撫でていく。
遠くで輝く星は、かつて仰ぎ見た帝都のそれよりも、ずっと近く、暖かく見えた。
イシスは、新しい明日へ向かって、確かに一歩を踏み出した。




