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序章


「その手を離せ」


張り詰めた空気の中で、男の声だけが不自然なほど冷静だった。鋼を思わせる低さ。感情を削ぎ落としたような、剣聖ユリウス・カーライルの声。

その声を聞きながら、イシスは思う。

――ああ、今日も完璧だ。

端正な顔立ち、揺るがぬ姿勢、わずかな隙も見せない佇まい。いつも通り。何一つ、変わらない。

賞賛にも似たその思考に、喜びはなかった。


「近づくな!」


背後の男が腕に力を込める。喉元に押し当てられた刃が、皮膚を割るほどの圧を伝えてくる。冷たさよりも、生々しい存在感があった。


「この方を誰と心得る!」

「剣聖の名を冠する帝国最強の騎士、ユリウス・カーライル様だ! そしてお前が恐れ多くも人質に取っているお方は、閣下の奥方、イシス・カーライル様! 貴様、楽に死ねると思うな!」


騎士の一人が叫ぶ。

半ば錯乱した犯人を刺激するには、あまりにも直接的な言葉だった。だが、その叫びに周囲がざわめくことはない。

誰も慌てていなかった。

それは、この場にいる全員が知っているからだ。人質の首に刃が触れていようと、距離があろうと、ユリウスの剣の方が早い。彼ならば救える。必ず。

だから誰一人として、イシスが傷つく未来を想像していない。


「グレイ。刺激するな」


低く抑えた声で、ユリウスが部下を制した。


「……はっ。失礼しました。しかし、ユリウス様であれば――」


言葉は、最後まで言われることはなかった。言うまでもないからだ。


「ふん……だからだ」


犯人が、歪んだ笑みを浮かべる。


「テメェの名声は、この国じゃ知らねぇ奴はいねぇ。神話じみた強さもな。だから――絶対に見捨てられねぇ、一番大事なモンを連れてきた」


最強の敵を倒す方法。それは、力で上回ることではない。

――最強の存在にとって、唯一の弱点を突くこと。

その理屈を、イシスは静かに理解していた。


「……ふふ」


不意に、イシスが小さく笑った。喉元の刃が、わずかに食い込む。


「何がおかしい!」

「いいえ。ただ……」


イシスは、穏やかに言った。


「あの人は、私でなくても同じようにしたでしょうね」


男が眉をひそめる。


「あの人は誰も見捨てない。いえ――見捨てる必要がないのです」


それは誇りでもあり、呪いでもあった。剣聖ユリウス・カーライルは、失敗しない。救えない状況に立たされることが、そもそもない。

だからこそ、誰も疑わない。この場もまた、彼の勝利で終わると。

イシスは、ほんのわずか声を落とした。犯人に聞こえぬように。けれど、聞こえていると分かっていて。


「……ユリウス」


彼の名を呼んだ瞬間、初めて彼女は夫を見た。その瞳は、いつもと変わらず澄んでいて、揺れていない。

静寂。風さえ、止まったようだった。


「お互いから、解放されましょう」


その言葉は、囁きのように小さく。けれど、間違いなくユリウスへ、はっきりと告げていた。

その言葉に、ユリウスの表情が崩れた。ほんの一瞬。剣聖としてではなく、一人の男として。

何かを察したのか、彼は目を見開いた。――彼女は、自害するほどに。この結婚に、自分に、絶望していたのだと。

だが、その身体は動かなかった。

イシスは、その隙を逃さなかった。

男の腕を、刃ごと掴む。粗い布越しに感じる、男の震え。冷たい刃の感触。そして――ためらいなく引いた。

鋭い痛みが走り、次の瞬間、生温かい液体が喉元から溢れ出す。血の匂い。視界が滲む。


「なっ……お前、何を――!?」


男が動揺し、体勢を崩す。後方は断崖。反射的に、イシスのドレスを掴んだ。


「夫人!」

「イシス様!」


怒号が響く。騎士たちが駆け出す。だが、距離がある。間に合わない。

イシスは、最後にユリウスを見た。

彼は立ち尽くしていた。抜き身の剣を持ったまま、ただ、彼女を見つめていた。その顔は――剣聖ユリウス・カーライルが、決して人前で見せることのない、深い絶望に歪んでいた。

――これでいい。

そう思った瞬間、足元が消えた。

風が、身体を攫う。世界が反転し、騎士たちの叫びが遠ざかる。

滝壺の白い飛沫が、視界を満たしていく。それは死への落下ではなく、すべてを断ち切るための、落下だった。



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