第九話
九里のお墨付きによって田中らは事件の捜査を再開した。ただし、署長に気付かれるわけにはいかず、神原への定期報告を怠るわけにもいかない。裏をかいて捜査を行うため、田中は囮役を買って出ていた。
「まだ回るんですか?」
「ああ」
「歩いて?」
「足を使うパトロールが一番重要なんだ」
天井のライトが最も輝く正午頃、田中と九里は扇署管内の街を目的もなく練り歩いていた。田中らは交通課の手助けとしてパトロール業務につくように指示された。これを疎かにするとまた勝手な行動をしていることに気付かれる。神原に報告する内容を生み出すためにも重要だった。
田中は散歩気分で仕事をしている。今は住宅街から中心部に続く道を歩いていて、ガードレールを挟んで車道側ではひっきりなしに車両が往来している。歩道を歩く人の数も多い。私服の田中が外見で警察官だと気付かれることはない。一方、スーツ姿の九里はすれ違う人から必ず視線を貰っていた。当の本人は足を気にしてそれどころではない。
「休憩するか?」
「い、いえ」
「協力してくれるなら別行動になったって良いんじゃないか」
「駄目です。そんな些細なことで疑われたいですか?私が監視していることで神原の過干渉が抑制できているんですよ」
信号に引っかかって立ち止まると九里は片足立ちしてヒールを脱ぎ、踵の辺りをさする。ただ、バランスを取ることもままならず、よろけたところで田中が手を貸す。午前中ずっと歩いたことで靴擦れを起こしたらしい。田中が可哀想だと思って見ていると嫌な顔をされる。心配する気持ちは半減した。
「パトロールにヒールなんて履いてくるのが悪い」
「車両で回るものと思ったんです」
「署長に使わないだろって鍵を取られてさ。遠出させたくないんだろう」
信号が青に変わったが、田中は九里がヒールを履くまで待つ。靴が触れると顔を歪ませていたため、相当辛いのだと分かった。
「ちょっと行くと吉野のお気に入りのカフェがある。そこで休憩しよう」
「サボるつもりですか?」
「そうだ。こんな平和な街を歩いてたって仕方ない。九里さんに怪我させて秘書業務に支障が出たと神原が文句をいえば、怒られるのは俺だ」
「回りくどい人ですね。素直に心配だと言えばいいのに」
「素直に休みたいと言ってくれれば気にしてやる」
お互いに厄介なプライドのせいで会話がぎこちなくなる。ただ、九里はすんなりとカフェまでついてきて、中に入るとカウンター席に座って一休みした。田中がぼんやりとメニュー表を見ている間も九里は忙しそうに端末で仕事をしている。ヒールを脱いだ足には絆創膏が貼ってある。マスターとは面識があり事情を説明して貰ったのだ。
「まだありがとうと言ってなかったか」
「何のですか?」
「捜査を認めてくれた」
「黙認です」
九里は端末から顔を上げることなく答える。可愛げのない態度に苦笑いするしかないが、そのおかげで田中らは些細な正義を守ることができた。それは心からの感謝に値する。
「俺は政治家が何か隠してると思ってる」
「あまり大きな声で言わない方がいいですよ」
「九里さんもそう思ったんでしょ?本部のあの非合理的な捜査には政治家が関わってるって」
「元来、政治家というのは隠し事をして嘘をつくものです。そうして自らの立場を維持して周りを蹴落としていきます。よくあることです」
「そうだろうな」
田中は九里に意味深な視線を送られてアイスティーで喉を潤す。そんな世界は羨ましくないが、シェルターの平和のためには仕方がないと理解している。美しくなくともそんなやり取りがなければこの世界は簡単に壊れてしまう。九里の物言いはそんな当たり前を受け入れろというものだったが、その瞳は少し悲しそうだった。
「でも、そんな嘘があんなにも明確な悪意を覆い隠す可能性があると初めて知りました。これまでにも気付かず受け流していたのかもしれない。けれど、あれが私の両親や兄弟だったらと思うと」
「やっぱ正義に燃えてたんだな」
「どうでしょうか。私はこの仕事を誇りに思っていました。両親も喜んでくれて、だから親孝行になっていると。だけどふと感じた。今している仕事、両親には話せないなって」
九里の声には感情が全く乗っていない。それでも田中にはその苦悩が届いた。カウンターの奥ではマスターがグラスを一つずつ丁寧に拭っている。
「俺はこれまでの人生、親を困らせてばかりだった。博士まで取っておいて警察に行くと言った時はめちゃくちゃに反対されたし、あの左遷の時には言っただろうと怒鳴られたりもした」
「でも田中さんには信念がある。どんなに圧力をかけられても崩れない信念が」
「その恩恵を受けてるのは自分だけ。代わりに周りが迷惑を被ってる」
「私にはない気がします。総裁の秘書を任されて外面だけ整えて、大切な価値観を次から次へと失っている。そう思った途端に怖くなった」
九里からはっきりとした不安が吐露され、驚いた田中は硬直する。しかし、良く考えずともそれは当たり前のことだった。人の言うことを聞いていれば円満に話がまとまる世界では自分で何かを決断する必要などないが、それは自分を殺しているに等しい。九里が感じた恐怖はその中に内包されていた。
それから静かな時間を過ごしていると吉野から連絡が入る。部下二人は田中の代わりに捜査をしていて、一度話し合いをしたいという内容だった。田中は二人をこのカフェに呼ぶことにした。
「この人にここ、教えたんですか?」
「やっぱり落ち着いてていいね。それで、何か分かったの?」
四人になったことでテーブル席に移り、そこで吉野と鈴木から捜査の進捗を聞くことにする。不満げな吉野が端末に写真を表示する。そこには一人分の作業着が映し出されていた。
「監視カメラは今回も使い物にならなかったですが、目撃証言が出てきました。遺体発見の23日前、近所に住む主婦がこの作業着を着た男数人が廃工場を出入りする様子を見ていました。時刻は午後8時過ぎで、その時は工場が再開するのかと思ったそうです」
「それで、どこの作業着なんだ?」
「それが調べてみたところ国営工場のものでした」
「国営工場?」
田中はもう一度作業着の写真を注視する。上着は薄い緑色でズボンは黒色をしている。何が特徴的なのかは分からないが、田中はこの作業着に違和感を持った。
「実は目撃者の旦那さんがかつて国営工場で働いていたそうで、定期的に洗濯をしていたため覚えていたそうです。この襟元の刺繍と胸元のワッペンが特徴的で、いずれも国営工場の作業着にのみデザインが許されています」
「模造品の可能性は?」
「ないとは言い切れません。ですがほとんどありません。民間には緑の染料が流通してないんです。原料が植物らしく管理が徹底されています。盗品の可能性はありますね」
「なるほど。盗品かは調べれば分かるな」
田中は何げなく次の手を考える。管理の厳しい資源であれば盗難などの情報は必ず残されている。それを追跡すれば犯人に繋がる手掛かりが見つかると考えたのだ。しかし、そんな意見に九里が懸念事項を伝えてくる。
「国営工場の管理は極めて厳しいです。たとえ警察の捜査であっても国の許可がなければ立ち入りはできませんし、恐らく許可は下りないでしょう」
「どうしてそんなに管理が徹底されてるんだ?」
「私たちの食料から様々な電子部品まで、ありとあらゆる生活必需品が生産されているからです。そのどれか一つでも生産が停止すればシェルターは直ちに危機的な状況に陥ると想定されています」
「国への申請か」
田中は次から次へと湧き上がる問題に頭を抱える。言葉にしなくともこの場の全員がその問題を共有していた。
「他に分かったことは?」
「いえ、今のところは」
「本部もカルトの線で何も進展してないようです。シェルターにある全ての宗教もしくはそれに準ずる施設への捜索の結果、何も見つからなかったとのこと」
九里が政治側の繋がりで手に入れた本部の捜査状況を教えてくれる。そんな状況を当たり前だと感じているらしく、本部に期待していない田中はもはやそれを聞いても何とも思わなかった。
「申請してみますか?」
「俺らには無理だ。できるのは署長だけ」
「署長に話を通さないといけないってことですか」
鈴木はグラスの中身を飲み干してマスターにおかわりを要求する。吉野はもっと味わって飲むように文句を言い、九里はそれを横目に田中に念を押す。
「申請すればどうなるか分かっていますよね?」
「バッジの返却だろうな」
「私もお咎めなしとはいきそうにない」
「覚悟の上でこの船に乗ったんでしょ?私もバッジなんて気にしない。鈴木は?」
「いやいや仕事がなくなるのは流石に。だからって手を引くのも嫌ですけど」
それぞれの意見を聞いて田中は考える。現在の問題点は正式に捜査に関わっているのが政治の息がかかった連中だけだということと、田中が進捗を公にできるのが犯人特定時に限られる点だった。そして部下を守る義務も背負っている。
「吉野、鈴木、二人はこれから交通課の補助に回ってくれ」
「何言ってるんですか?捜査を止めろってことですか?」
「いいから今は従ってくれ。俺たちが回った箇所は後で共有しておく。もし上から報告を求められたらそれを出すんだ」
「なんだか嫌な予感がするのは気のせい?」
九里は頬杖をついて田中の思考を読み取ろうとする。ただ、今の時点でははっきりとしたことは言わないでおく。田中が席を立つと九里もヒールを履き直す。
「俺と九里さんは一旦戻る。二人は時間まで頼んだ」
「田中さん、ずるいですよ!自分勝手です!」
「やっと気づいたのか。また後でな」
田中は伝票を持って会計に向かう。後ろではまだ吉野が文句を言っていて鈴木がそれを宥めていた。九里はもはや何も聞いてこない。諦めがついたのかそれとも覚悟を決めているのか、非難の目を向けてくることもなく大人しかった。
「もう一度言ってくれるか?」
「ですから。国営工場への立ち入りを申請してほしいんです。それができるのは署長だけですから」
「捜査はするなと言っただろう!」
扇署に戻った田中と九里はその足で署長室に向かい、捜査の進展について報告した。その結果、署長は顔を真っ赤にして怒り、今にもこめかみの血管が切れてしまいそうになる。田中はいつもと同じように部屋の真ん中に立っていて、九里は隣に立っている。署長は右手で何かの書類を握りつぶしていて、落ち着くためか深呼吸を始めた。
「他の二人は何してる?」
「指示通り、交通課の応援をさせてます。これはいつものように自分の独断専行です」
「九里先生は何を?」
「黙認していました。神原先生には後に自分から報告します」
「なぜだ。田中の悪い空気に当てられてしまったのか」
「私からもお願いします。最終的な判断は国が下しますが、申請をしなければ何も進みません」
九里はそう言って頭を下げる。田中がそれに驚いていると九里にヒールの踵で足を踏まれてしまう。田中もそれを真似て少しだけ頭を下げた。
「しかし、私の身になって考えてくれないか。そんなことをすれば私は」
「一度くらい保身ではなく正義で考えてみてはどうですか?」
「なんだと!?」
「その点は私からも口添えしておきます。全て田中さんの勝手であって、正式な申請が出来なければ政治家のもとへ乗り込むつもりだったと」
頭を下げたままの九里が根も葉もない嘘を口にする。今回巻き込んだことの腹いせかもしれない。田中は素で驚いてしまった。
「向こうの返答次第では分かってるな?」
「当然覚悟してます」
「分かった。聞いてみよう」
「ありがとうございます」
「部下二人が心残りですが」
「今回の命令違反に関与していないのなら別の班に入れる」
決断を下して落ち着きを取り戻しつつある署長だったが、入室時に比べて顔色が酷い。田中はもう一度頭を下げてから署長室を後にした。これからのことは国の判断に委ねられる。その間、田中は署に戻る途中に手に入れた求人票に目を通していた。