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第八話

 大学から署に戻った田中は即座に署長室に呼び出された。政治の世界は邪魔な人間を排除することに関しては仕事が早い。九里が電話してまだ一時間ほどしか経っていなかったものの、署長の顔は真っ青となっていて田中は全署員の目の敵となっていた。

 「田中、お前は一体私に、ひいてはこの署にどんな恨みがあるんだ?」

 「そういったものは特に」

 「だったらなぜこんな簡単な命令一つ従うことができない?」

 「本部が間違った捜査をしているからです」

 田中は署長室の真ん中に立たされていて、部屋の隅では九里が成り行きを見守っている。いたずらをした子供が教師に呼ばれた状況に似ているが、ここに正義は何一つない。署長は保身に走っていて、田中も自らの独断専行を理解している。違いはこの事件を解決する気概があるかどうかだった。

 「捜査停止を命じる」

 「本部は我々の報告を受けて今後どのような方針を取るんですか?」

 「お前には関係ない」

 「これまでを改めて本部が正しい捜査を行うならもう関与しません。ですが」

 「関係ないと言っただろう!」

 田中が食い下がろうとすると署長が怒鳴り声を上げる。その様子を見て、署長も捜査の状況を聞かされていないのだと分かった。政治と本部、さらに田中の勝手な行動に挟まれて苦悩しているらしい。しかし、署長にはこんな時こそ正しい決断が求められる。田中にはその務めを放棄しているように見えた。

 「こんなことばかりしていては君を本部へ戻す手助けができないかもしれない」

 「そんな飴は要りません」

 「部下二人のキャリアも気にしてあげろ」

 「キャリアを盾に人の正義感を歪めようなど言語道断です」

 「お前は全く」

 こんなだから組織に向いていない。署長の口から出てこなかった言葉が田中の耳に届く。署長の言う通り、田中には吉野と鈴木の将来を考える責任があり、政治側の要求を突っぱねることはマイナスにしか働かないと知っている。それでも、追求すべきは後輩の昇進よりも正義である。綺麗事を目に見える形にすることがモットーだった。

 「謹慎処分はどうにか回避できた。次はバッジを返してもらうことになるかもしれん」

 「それについてはご尽力ありがとうございます」

 「私ではない。九里君が神原先生に一言添えられたそうだ」

 「はあ」

 意図が分からなかった田中は九里の方を向く。しかし、腕を組んだ九里は壁に寄りかかって俯いており、その表情は見えなかった。政治家同様、何を考えているか分からない人間である。

 「その代わり、今後しばらく田中の班には雑務をしてもらう」

 「いつも通りってことですね」

 「交通課に出向いてテロ対策だ。政治大会を控えてパトロール業務がひっ迫してるからその応援に行け」

 「分かりました」

 「以上。期待を裏切るな」

 署長はそう言い終えた後、手を小さく振って部屋から出ていくように指示する。田中はもう一度抵抗してみようかとも考える。しかし、最終的には頭を下げて素直に部屋を出た。九里も後ろについてくる。

 「神原に何言ったんだ?」

 廊下を歩いている最中、田中は問いかける。署長いわく、九里が神原に干渉して謹慎処分の回避に努めてくれたという。それならば神原の捜査に対する認識も九里次第で変えられるかもしれない。田中はそんな考えを持ったが、九里は黙ったままだった。

 「まだ俺たちについてくるのか?」

 「当然。どうして監視が外れると思うわけ?」

 「九里さんの仕事を楽にしてやれる方法があるけど興味ない?」

 「ないです」

 九里は即答し、取り付く島もない。デスクに戻ると吉野と鈴木が待っていた。

 「どうでした?」

 「交通課に臨時異動だ。雑用してこいって」

 「なんだ、長期休暇かと思ったのに」

 吉野が中途半端な処分を聞いて鼻を鳴らす。一方の鈴木は安堵している様子だった。裏でどんなやり取りがあったのかは分からない。それでも九里の顔を立てておくべきだと思った田中は離れた場所に座っていた九里を呼ぶ。面倒くさそうに寄ってきた九里は三人の前で仁王立ちした。

 「九里さんが謹慎処分の回避に動いてくれたらしい」

 「感謝しろって?マッチポンプなんじゃないの?」

 「こら吉野!ありがとうございます」

 吉野は相変わらず九里を良く思っておらず、鈴木が割り込んで感謝を述べる。図体に比べて小心者な鈴木に吉野は睨みを利かせる。九里はそれらを聞いても表情を崩さない。田中は背もたれに体重をかけて今後のことを考えた。

 「九里さんは本部の捜査について何か知ってる?」

 「知っていたとして教えると思いますか?」

 「教えてくれたらもう勝手はしないと約束する、と言ったら?」

 田中は真っ直ぐ九里を見据えて駆け引きに誘う。九里は髪を触って最後に耳にかける。そして肩をすくめた。

 「乗らない方が良さそうですね。田中さんが約束を守る保証なんてないし、次に勝手をしてもあなたたちが仕事を失うだけ」

 「相手が優秀だと交渉も大変だな」

 「どうも」

 「だったら自分の心と話し合ってみてよ。政治の都合なんて知らないけど、ここは人の死と直接触れて嫌でも正義感が前面に出てくる現場だ。身近な人に不幸が起こっても政治のためだと割り切れるか」

 今度は九里の人間性に賭けてみる。政治の仕事をする上で非情な判断には慣れているかもしれない。その結果、人間性まで歪められていればどうしようもない。それでも九里の心に何が残っているのか知っておきたかった。

 「政治は大局的な幸福を追求するものです。その影に少数の不幸が隠れてしまうことは仕方ありません」

 「今回もその前提通りだと思ってる?何の疑問もなく?」

 九里は黙り込む。田中はやはりそうかと感じた。九里は賢い人間である。同じ情報を手にしていながら、田中が感じた疑念を抱いていないはずがなかった。自らの立場を危うくしながら田中らの立場を守ってくれたこともそれが理由だと予想できた。

 「こっちはいつでも真実に辿り着くことができる。政治大会が終われば俺たちを拘束する理由はなくなるわけだし、解決までに余計な時間がかかるだけで犯人を見つけられる。だから今は九里さんの恩情に感謝して指示に従ってもいい」

 「田中さん。でも」

 吉野がそんな言葉に反発するが、田中は九里だけに話しかけて最後まで心の変化を期待した。九里の表情はなおも硬い。ただ、田中の主張を戯言だと退けることもできなくなっている。

 「このタイミングを失えば自分の中でも言い訳がつかなくなるんじゃないか。正義感を食い潰されても我慢できるほど神原の指示に崇高な理念はあるのか?」

 「もし、私たちが間違っていたらどうするつもり?」

 「さあね。でも一蓮托生だ。仕事を失えば一緒に探そう」

 「呆れた。こんな先を考えない人についていけと?」

 「そうだ」

 九里がここに寄越されて以来、表面上の対立ばかりが目立っていた。しかし、それが基本的な価値観の相違にまで至っているとは思っていなかった。これまでは政治の指示を遵守していたに過ぎない。実際は事件の早期解決を望む一人なのだ。

 「本部はまだ宗教関連で調べるつもりのようです。与党議員が襲撃にあって盲目的になってます」

 「やっぱりな」

 「だからと言ってまた指示に逆らうのは。これは忠告です」

 「悪いけど自分の立場は気にしないことにしている。部下には悪いけど」

 「私たちだって同じです。そういう風に教育されたので」

 田中に吉野が同調する。その中に勝手に含められた鈴木は吉野の横顔を窺っているが相手にされていない。九里の眉がピクリと動く。

 「政治に逆らうことの意味をまだ分かっていないみたいですね。田中さんがあの時左遷で済んだのは、政治家同士のパワーバランスが生み出した偶然の産物です」

 「より大きな実害が出るって言いたいんだな?」

 「そこまでの責任を私は取れません」

 政治の汚れたルールについては吉野の方が詳しく、今回も善意からこのように忠告してくれているのだと分かる。難しい顔をしているのはこの事件の取り扱い同様、田中らに降りかかる問題への身の振り方を気にしているからだ。最後の一押しは自分の仕事だと田中は自覚する。

 「あの3人がこのシェルターにどんな想いでやって来たのか。それはもう二度と分からなくなってしまったけれど、こんなのあんまりだと思う。外界の環境は厳しいと聞く。そんな中を命からがらやって来て、その最後が誰かの私利私欲の犠牲だなんて。無念を晴らそうと言ってるんじゃない。弱い人間の幸せを貪り食う奴がこのシェルターにのさばってることが気に食わないと言ってる。今、そんな当たり前の正義が握りつぶされそうなんだ。本部の警官は上の言いなりだし、うちの署長だってあの調子だ。俺が引き下がりたくない理由はたったこれだけなんだ」

 「厄介な人間ね」

 「そうかな」

 「偽善でもない人間は扱いにくいって言ってる」

 九里はようやく凝り固まった表情を変える。組んでいた腕を解き、三人に近づいて両手をデスクにつく。そして、最後の確認だと言わんばかりに顔を近づけてきた。

 「最後までやり通す覚悟は?」

 「なかったのはあなたでしょう?」

 「吉野ってば。僕もあります」

 「ってことだ。最初から俺の班はこうだったんだけどな」

 「分かりました。私のキャリア、あなたたちに預けることにします」

 九里は声のトーンを下げる。吉野はまだ九里を信じられないのか、その言葉の本心を探ろうと目を細める。ただ、その必要はないと田中は分かっていた。

 「正直じゃないな。正義に燃えてると言えばいいんだ」

 「一蓮托生。忘れないで」

 九里はぶっきらぼうに言い捨てて三人から離れていく。その後、元の席に座るなり頭を大きく項垂れさせていた。最も考え方を変えなければならなかったのは九里だ。その責任が案外重たいことに田中は今更になって気が付いた。

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