第五話
「あなたたちは毎日こんな時間に来ているのですか?田中さんをはじめ多くの方々はすでに出勤して事件の対応をしています。ご存知ですか?」
「決められた出勤時間までには来てますけど?」
田中が鈴木に呼ばれて駆けつけてみると、いつも使っているデスクの近くで吉野と九里が言い合いをしていた。周りの警官は距離を置いて観察しているだけで止めようとはしない。吉野の将来は絶望的だなどと話している者もいた。
「何してる?」
「この人から急にふっかけられました」
「田中さんにも問題意識がないようですから私から代わりに。あんな事件があった次の日だというのに決められた時間にしか来れない危機管理能力を追及していたんです」
「それが出勤時間だろ」
「そんな考えが生産的ではないと私は言っています」
今日の九里はグレーのスーツを着ていて、この場の誰よりも身なりが整っている。決して階級の差が反映されているというわけではない。田中は吉野の側に立って九里と対立した。
「吉野らは明け方まで仕事をしてた。そのあと数時間の仮眠でまた戻ってるんだ。他の奴らもそう。そこを考慮してもらいたいもんだけど」
「万引きの捜査をしてるわけではないんですよ?あなたの見えないところで多くの政治家が成り行きを見守っています。現場の非生産的な警察官のせいで捜査に遅れが出ていると私に報告させる気ですか?」
「何様のつもり?」
「あなたには聞いていません。あなたの動き方に指示を出せるのは田中さんですから」
「九里さんの提案は受け入れかねます。もう会議始まるのでいいですか?」
こんな朝から九里と言い合う元気はない。田中は仮眠さえとっていない状況で、先程ようやくシャワーを浴びられたばかりなのだ。九里は両腕を組んでしばらく三人の観察を続ける。田中はまだ怒りが収まらない様子の吉野を引っ張って鈴木と一緒にその場を離れた。
「もうほんと、イライラする。私ただでさえあの日なのに」
「抑えて。反発すると余計に力づくで言いくるめてこようとするから。鈴木を見習ってさ」
「あのさあ。さっき鈴木、私を見捨てて逃げてったよね?」
吉野の怒りが飛び火する。今日に限っては二人の性格が反転したようだった。鈴木は困ったように田中に助けを求める。九里が来ただけで仕事環境は最悪となっていた。
会議ではこれまでの捜査報告から行われる。中心となって動いているのは田中の班であり、報告が終わると次は署長や管理官からの言葉に耐える時間となる。昨晩からの進展といえば大野の供述の裏が取れた程度だった。電力は盗電という形でおよそ三週間前から廃工場に供給されており、そこに大野が関与した痕跡はなかった。また、監視カメラの解析も進められているが、現時点では不審者の洗い出しには至っていない。そして、最後は九里の話題だった。
「九里先生と言い争いをしたんだって?あれだけ言うことを聞くようにと言っただろう」
「いや、あれは向こうが急に言い掛かりを」
「言い掛かりだろうが暴言だろうがお前たちははいと言っておけばいいんだ。分かったな?」
「いやでも」
「分かったな!」
「はい」
四面楚歌とはこのことで田中は渋々了承する。一人で仕事をしていた時とは違う。あの時は全てを突っぱねて最後に左遷という形に終わっても気にする者は誰もいなかった。しかし、今は後ろに二人の部下が立っている。九里に人の上に立つべきではないと言われた意味がよく分かった。
「私、あの人がいるところで仕事したくないです」
「吉野、駄目だって」
「鈴木はどっちの味方?いつもの熱血はどこいった?」
会議が終わってデスクに戻る間、吉野からそんな相談を受ける。決断を遅らせるほど亀裂は大きくなる。田中は分かったと頷いた。
「二人は被害者の身元の洗い出しを頼む。俺は動機を探ることにするよ。あんな殺し方した理由が何かあるはずで、政治が関心を寄せているのもそこだろう。だからこっちが九里を引き連れる」
「胃に穴、あかないですか?」
「多分ね。それに報告は俺からするようにって九里が言ったんだ。そっちは二人に任せっきりになるかもしれないけどよろしく」
「すみません」
「何かあったらすぐに連絡して。俺も九里の相手ばかりだと気が滅入るだろうから」
吉野は文句を突き付けたことを謝罪する。田中は冗談を言って二人を安心させることにした。デスクに戻った後、鈴木と吉野はソファーで仕事をしていた九里と顔を合わせることなく外に出ていく。するとすぐに九里が田中のそばに寄ってきた。
「二人はどこへ?」
「被害者の身元を調べてもらう」
「田中さんは?」
「動機の解明だ。お偉いさん方もそれが気になってるんだろう?」
「犯人を早急に逮捕してくれれば、先生方に無用な考えを持っていただかなくて済みます」
九里はそう言いつつ田中の隣に座る。そこは吉野の席であり、一瞬のうちに田中の背中に冷や汗が流れる。九里はデスクの上に散らかった資料や私物をさらに隣の鈴木の席に追いやっていく。これだけで十分な火種になりえる。後で元に戻しておかないとと思いながら、心の中で九里に悪態をついた。
「本当にずっとここにいるつもりか?」
「そのように指示を受けましたから」
「報告なんてそんな頻繁にはできない」
「私は田中さんの捜査に対する姿勢も見ています。緩慢な働きぶりだった場合、それを報告することは特に重要です」
九里は強い口調で恫喝する。それを見た田中は初めて出会った日のことを思い出した。あの時はお互いにまだ若く、九里にいたっては大学を出てすぐの年齢だった。声を上擦らせながら左遷を宣告した時に比べれば、政治の世界で成長したことがよく分かる。一方の田中も変化がなかったわけではない。部下を持ったことで考え方や動き方が抑制されるようになり、その結果九里の言いなりにならざるを得なくなっている。
「とにかく邪魔しないでくれよ」
「田中さんはこれから何を?」
言ったそばから九里は椅子を寄せてきて、端末に映った捜査資料を覗き込んでくる。田中が慌ててスリープ状態にすると、九里は睨みつけてきた。
「私に隠し事ですか?それは神原先生への隠し事と同義になります」
「進捗と俺のやる気だけ知っていればいいんじゃないのか?」
「ええ。私にも仕事がありますし全てに構ってはいられません。けれど、そんな非協力的な態度を取られると話は別です。私には全ての情報にアクセスする権利があります」
九里はそう言って端末を開くように要求してくる。田中はそんな横暴を前に考えを巡らせる。政治の汚いところは経験してきたのかもしれないが、この事件の悪意はそれとは全く異なる。九里を心配するわけではないが、不快にされたと言いがかりをつけられてはかなわなかった。
「目を覆いたくなるような写真だらけだぞ」
「死体のことですか?そうみたいですね。配管の上で干からびていたと聞いています。私がそれを見て泣き叫ぶとでも?」
「警察の慣れた人間でも困惑したくらいだ」
「構いません。どれほどの猟奇性なのか、私が見ておかなければ神原先生に正確に伝えられません」
九里はそう言って端末に触れる。こうなっては田中に選択肢はなく、警告はしたと自分に言い聞かせながらパスワードを打ち込む。開いていたファイルには何枚もの写真が添付されていた。
「これからの仕事は犯人がこんな行動を起こした理由を考えること。よくある殺しとは違う」
「うっ」
一枚目はプラスチック袋越しの遺体の写真だった。皮膚が剝ぎ取られていたわけではないが、全身は赤黒く変色していて筋肉の形がくっきりと分かる。九里は見た瞬間に口元を押さえ、その奥で歯を強く食いしばった。別の角度から撮られた写真もあり、田中は横目で九里を気にしながらスライドしていく。自分で言っていただけあってよく耐えているほうだった。
「なぜ、こんなことを?」
「それを調べる。今のところ遺体から水分を抜くためだったんじゃないかと思ってる」
「その方が処理が簡単だから?」
「上はそう考えてるみたいだ。体重も体積も減るからって。でも俺の腑には落ちない。バラバラにして下水に流すとかどこかに埋めて隠すっていうのは、確かに骨の折れる作業だ。とはいえ、これだって同じだろう」
写真は続いて、昨日の夜中に行われた司法解剖の内容に移る。九里はとうとう目を背けた。
「強引に意味を持たせるとすれば何か宗教的な意味合いがあったとか、単純に強い殺意があったからということになる。とはいえ、実際の死因は絞殺。今は分からないことだらけなんだ。だから全部の可能性を排除しないで調べる」
「そう」
九里はデスクの一点を見つめて静かに肩を上下させている。田中も実際の司法解剖の現場では同じ状態になり、今でも写真を見ていると心臓の動きが速くなる。九里が強い口調で捲し立てていたからと言って、こうなってしまうことを責めはしなかった。
「昨日、あの二人もこの現場に立ち会ったり鑑識との会議があったりと忙しくしてた。あまり眠れないうちに呼び出して、今も働いてもらってる」
「事情は誰にだってあります。それを言い訳にするなら辞めた方がいい」
「事情は誰にだってある。その通りだ。政治と俺たちの板挟みで九里さんがストレスを抱えていることだって分かってるつもりだ。だから俺たちの仕事にも少しくらい寄り添ってほしい。次からはその上で部下に声を掛けてくれ」
「指図しないで。最初からそのつもりだった」
九里は目を合わせることなく返事する。田中は曲がりなりにも意見を合わせることができたと考えて、自分の仕事に集中することにした。