第四話
田中が署に戻ったのは午後8時を回った頃だった。現場ではなおも鑑識作業が続いており、本来ならば責任者として事件の全容把握に努めなければならない。それでも戻ることを余儀なくされたのは署長から緊急の呼び出しを受けたからだった。部下の二人と共に戻ってみると何やら心配そうな顔つきの署長が玄関で待っていた。
「戻ってきたか」
「まだ作業が残ってるんですが」
「そんなことよりだ、お前は何の文句も言わずに人の言うことが聞けるか?」
「え、俺に聞いてます?」
そんなやり取りに鈴木と吉野が笑う。田中にそんなことできるはずがないという反応だった。署長も田中の性格は知っているはずである。それでもこんなことを聞いてくるのには訳があった。
「君に客人が来ている」
「俺にですか?」
「それもとんでもないお偉いさんだ」
「田中さん、また何かやらかしたんですか?」
吉野に失礼な物言いをされて、田中は一応思い当たる節がないか考えを巡らせる。ただ、署長に応接室まで連れていかれる間では明確な理由は分からなかった。客人はそこで待たされているらしい。
「くれぐれもよろしく頼む。今や扇署全員の未来が君に委ねられているに等しい」
「じゃあ次から雑用は持ち回りにしてくださいね」
「待たせるわけにいかない。早く」
「僕たちはどうします?」
「いいよ一緒に来て。変なこと口走る前に止めてくれ」
田中は鈴木と吉野も同席させることにする。署長は部屋から少し離れた場所でそんな三人を見送る。何故一緒に来ないのかと振り返るとあしらわれた。
「で、誰なんです?」
田中は来客が誰なのかまだ聞いていない。身分の高い人間だということは分かったが、シェルター内には署長以上の人間などごまんといる。そうして部屋の前で足踏みしていると部屋の中から声が響いてきた。
「来られたのなら入ってください」
声から若い女性だと分かって田中は首を傾げる。意を決して扉を開けると、スーツを着こなした女性が部屋の中央に置かれたソファーに深く腰掛けていた。田中と目を合わせるとゆっくりと立ち上がって長い髪を耳にかける。
「田中さん、お久しぶりです。覚えておられますか?」
「あなたは確か、九里さんでしたっけ」
「覚えていましたか。まあ、多少なり恨みを持っているでしょうし、私もあなたの名前を聞いてすぐに分かりましたよ」
「あの、こちらの方は?」
田中と九里には面識があった。しかし、その過去を知らない鈴木が鼻の下を伸ばしつつ驚いた様子で尋ねてくる。九里の年齢がまだ若いことが意外だったらしい。外見だけでは署長が怖がっていた理由が見当たらない。
「民自党総裁の神原のもとで第一秘書をしております九里といいます。どうかお見知りおきを」
「神原ってあの」
「どうか、先生もしくは議員をお付けください。このシェルターの総理ですよ」
九里が柔和な態度を崩すことなく鈴木に要求する。その覇気に負けた鈴木はかすれた声ではいと呟いた。代わりに吉野が質問を続ける。
「田中さんとはどんな繋がりが?恨みって?」
「大した話ではありません。そうですよね?」
「ああ」
「本部で手に負えないと評価されていた田中さんに左遷を伝えたのが私だったというだけです。けれど元気そうで良かった。こんな場所でも良い部下に恵まれたようですし。他のキャリア組の同期と比べて昇進が二回りほど遅れているようですが」
九里はその容姿で人を惑わせ、巧みに毒舌を扱う。そして、なにより厄介なことは誰よりも輝かしい経歴を歩み続けていることだった。鈴木はまた蕩けたような表情で九里に見惚れ、吉野に呆れられる。
「あそこは息がつまって仕方がなかったからちょうど良かった。それに君が言ったんだ。人の上に立つ資格なんてないって」
「そんな優しい解釈をされたんですね。本部にいる価値がないと言ったつもりでした」
「政治家の言うことを聞かない奴なんて扱いづらかっただろう。俺だってあんな自己中心的な人間を相手にするのはもうこりごりだ」
「また相手をすることになるんですよ」
九里と因縁がないと言えば嘘になる。しかし、あの日の九里はただ神原の指示を伝えただけだったと分かっている。自分の考えを押し殺す毎日を楽に過ごせる人間ならば天国のような場所なのかもしれない。田中はある意味で九里に感謝している部分もあった。
「それで、今日は何の用件でここに?もう左遷先なんてないはずだけど」
「神原にはあなたを辞めさせる力もあることをお忘れですか?」
「用件は?」
九里は人間の価値をその役職や階級だけで判断している。左遷されれば価値は下がり、昇進すれば上がると考えている。虎の威を借ることが当然で、最終的な未来のためならばそれを気にも留めない。価値観を対立させたとしても何ら生産的な議論は期待できなかった。
「あなたが担当している猟奇殺人事件のことです」
「まだ殺人と断定されたわけでは」
「現在までの捜査内容は署長から一通り聞いています。検視の結果、索状痕が見られたようですね。一報を受けて政治側も非常に注視しています。扱い方を間違えればシェルターの秩序が崩壊しかねない案件です。不安はすぐに伝播するものですから」
「そんな政治側の考えを持ってくるためにわざわざここまで?」
「いいえ。重要案件ですから政治は速報性高く正確な情報を求めています。私はそのために来ました。あなたたちの捜査状況を把握するためです」
九里がここに来た理由を明らかにする。それを聞いた瞬間、田中は思った以上の厄介事だと分かって溜息を吐いてしまった。それに九里の眉がピクリと動いたがいちいち文句は言ってこない。
「だったら本部の警官に任せればいいんじゃないか?こんな重大事件、普通なら本部が出しゃばってくるだろ。その方が君たちだっても都合がいいはず」
「本部は政治大会にかかりっきりでそれどころではありません」
「殺人の捜査よりそっちの方が大切だと?」
「当然です。政治が一体どれだけの命を預かっていると思っているんですか?あなたはいつもそうですね。物事の大小をすぐに見誤る。だからそんな不憫な生き方をしている」
「言わせておけばうちのボスの悪口ですか?」
九里はオブラートに隠すことを知らない。吉野が田中を庇おうとしてくれるが、そんな反抗も九里にとっては些細なものだった。
「自身が貶されたことに気付かなかったですか?田中さんには本部で仕事ができるだけの能力がある。あなたたちは今、それを食い潰しているんですよ」
「もういい。九里さんの用件は分かった。明日も俺が担当を外されていなければ協力する。それでいいな?」
「あなたに選ぶ権利はありません。ただそうなるということを伝えに来ただけです」
「じゃもういいか?今日の進展は署長から聞いた通り。次に情報を集められるのは翌朝の会議だ」
「ええ、それでは」
田中の承諾を強引に手に入れた九里はソファーにかけていたバッグを手に取って三人の横を通り過ぎていく。そんな後ろ姿を吉野の目が追いかける。
「捜査は深夜もあるんだけど?」
「何か分かれば私の端末に連絡を。基本的に田中さんからお願いします。まとまりのない報告は要りませんから」
そう言い残すと九里はヒールを響かせて立ち去っていく。姿が見えなくなってから田中はもう一度大きく息を吐いた。九里との会話は短時間であっても酷く疲弊してしまう。
「なにあの人。こっちが恥ずかしくなるくらい自分勝手な人ね。だから偉い人って嫌いなの」
「向こうの世界はあんなのが当たり前だ。一日一緒に居るだけで胃に穴があく」
「見た目は良いんだけどなあ」
「あんな馬鹿にされてよくそんな感想持てるわね」
吉野の目には九里がかなり酷く映ったらしい。田中は九里の態度よりも明日からのことを考えて憂鬱になった。
「とにかく晩飯を食べよう。その後すぐに鑑識班との会議だ」
疲れた体を癒してくれるのは食事しかない。九里への報告はそのまま政治家への報告となるため、余計に気を遣わなければならない。今晩の睡眠は絶望的だった。