第十二話
国営工場への立ち入りを終えた翌日から、提供を受けた従業員の名簿と睨み合う地道な捜査が始まった。この中に廃工場を出入りしていた者がいると信じ、その特定を進める算段である。しかし、被害者は社会と繋がりを持っていなかった異邦人であり、その点で絞り込みは困難を極めた。目撃証言があった当該時間に勤務していた者は排除できるが、それ以外の足取りは一人ずつ追跡しなければならない。
そんな捜査が数日続いても進展は全く見られず、全員が長期戦を覚悟し始める。毎日報告を求める署長の顔には次第に焦燥が浮かび、機嫌取りのために他の班にも応援に入ってもらった。
「大変そうね」
「こんな捜査は初めてだ。これまでのどの事件よりも難しい」
「殺人検挙率100%に傷がつくんじゃない?」
「そんなこと誰も気にしてないよ。署長の心配は政治に歯向かった行方だし、本部はそもそも解決する気がない」
「それで今の目標は?廃工場にいた人間を探すこと?」
九里の質問は言葉通りの内容ではない。田中は手に持っていた端末を置いて背中を伸ばす。腰の骨から乾いた音が数回鳴った。
「それができたら解決だ」
「ふうん。らしくない」
九里の言い方は癪に障る。しかし、実際のところ本質に触れようとしていないのは田中であり、声高らかに文句は言えない。本質とはこの事件を正しく解決することを意味し、この膨大な作業員名簿と向かい合うだけでは辿り着くことのできない真実だった。
「手順を間違えるとどうなるか、九里さんなら分かるはずだけど」
「もし関与した作業員を見つけられたとして、その後は?」
「自供させれば」
「それだけだと難しいでしょうね」
腕を組む九里は即答して他の案を求める。現在の捜査は実行犯の炙り出しを目的としているが、当然それが終わりではない。自供だけでは弱いと九里が考えているのも、その背後の存在が念頭にあるからだった。
「指示を出した証拠が出てこれば良いけど直接手を下したわけではないし、凶器を持っているなんてありえない話だ」
「本人から聞き出せばいいんじゃない?」
「それが一番現実味を帯びてないだろ。隠し事をして嘘をつくもの。九里さんが教えてくれた」
これまでの捜査から、この事件の背後にいる存在を田中はおおよそ把握している。明瞭な証拠があるわけではない。犯人もそれを利用して真相を闇に葬ろうとしている。だからこそ間違った手を打つことはできなかった。
「ところで、他の二人はどこへ?」
「今日は少し違う捜査をしてもらってる」
「どんな?」
九里の目は何も隠すなと言っている。もともと田中にとって悩みの種だった九里も、今では一定の価値観を共有できていると考えて対立はしない。
「被害者のことをもう少し。これが初めてだったのかを知りたい」
「他に被害者がいると?」
「犯人の動機を考えればな」
「動機、分かったの?」
「予想だけど。でも今は言わないでおく」
田中は再び端末に視線を落とす。九里から不満気な吐息が漏れるが、田中も心のない悪魔と間違えられたくない。自分自身でも間違っていることを願っており、根拠がないまま話したくなかった。
吉野と鈴木が戻ってくると署内会議が開かれることになった。そこには署長の他に追加の捜査員も同席する。次第に扇署が一体になりつつあった。
「今日の進捗を報告しろ」
「じゃあ吉野と鈴木から」
田中が指名すると吉野が端末を片手にその場に立ち上がる。周りは吉野に視線を集めてメモの準備をしている。田中の班がこれほど中心的な役割を担ったことは初めてだった。
「被害者がシェルターに避難してきた異邦人だったことは前回の報告通りですが、具体的な失踪時期が分かりました。異邦人の身柄はまず国のシェルター出入管理局に移され、そこで事情聴取が行われます。それが終わると異邦人生活支援局に移り、シェルターでの生活に参加するため、教育を受けることになっています。今回の被害者はこの受け渡しの際に失踪していました」
「つまりどういうことなんだ?」
「はい。一般的に異邦人の存在はシェルターの安全保障に直結するため、支援局に情報が伝えられるのは移送の直前になるそうです。今回、支援局に身柄引き渡しの連絡はなかったらしく、一方の管理局では移送済みとして処理されていました。そのため発覚が遅れた可能性があります」
「えらく都合の良い話だな」
署長の意見に田中も同意する。異邦人の管理がこんなにも杜撰に行われるなど考えづらい。支援局は管理局からの情報がない限り異邦人の存在を知る由はないが、管理局が移送後に全く関与を示さないというのは不可解だった。
「この点を踏まえて管理局にこれまでの移送人数を回答してもらったところ、驚くべきことに支援局が引き取った人数と今回の被害者を含めて10人分の差異がありました」
「かなり多いな。報道で何人と伝えられている以上、そんなに失踪していると気付かれそうなものだけど」
「いえ、異邦人の発表を行うのは支援局ですので私たちが把握することは難しいです。また、失踪者の捜索協力を求めたのですが、引き継ぎにはさらに警察本部が関わっていて、三者の押し付け合いで上手くいきませんでした。以上です」
吉野が報告を終えて席に座る。署長は俯き気味に難しい顔をしていて、沈黙が続くと田中に視線を寄こす。田中は座ったまま簡単にこちらの捜査状況について伝えた。
「国営工場の従業員に関しては5%も終わっていません。対象者が極めて多く、事件発生がおおよそ一ヵ月前ということもあって足取りの追跡が困難となっています」
「それで、今後の方針は?」
「ひとまずこの地道な捜査を続ける他ないかと。他の失踪者についても、まずはその行方を追うところからでしょうか」
「私から少し構いませんか?」
田中が消極的な計画を述べていると急に立ち上がった九里が会話に割り込んでくる。今や九里はこの署内で認められる存在となっている。その理由の一つが田中と共に署長に直談判をしたという話が広まったからだった。
「実は田中さん、この報告が上がってくる前に行方不明者が他にいる可能性に気付いていました。そんな考えに至った理由ついて聞いてみたく思います」
「九里さん!」
「どういうことだ?」
「他に被害者がいた場合、新しい仮説が立つからだと思います。ですが、私は教えてもらえませんでした」
「田中、説明しろ」
九里は意地悪い顔で田中を一瞥してから席に座る。自分に隠し事をした罰だと言わんばかりの表情で、田中は大きくため息をついた。
「その可能性があると思っただけです。理由は分かりませんが、被害者の遺体には処理が施されていた。突発的な殺人という線は捨てきれませんが、それにしては大胆な行動です。なので犯人は過去に同様の行為をしていたのではと想像しただけです」
「私から補足しますと、目撃証言のあった国営工場の作業員が仮に関与していたとしても、反復的に異邦人を殺害し、その遺体をあのように処理する理由は見当たりません。田中さんはあくまでも彼らは実行犯で、指示役がいたと考えているようです」
九里はまるで田中の思考を覗いたかのようにペラペラと喋る。政治の世界だけでなく警察に居ても頭の切れる人材として重宝するだろうと心の中で褒めて、隠し事はするだけ意味がないと理解させられる。
「政治家の関与を疑っています。署長も感じたと思いますが、本部の怠慢な捜査も上から指示があったためだと考えています」
「言葉には気を付けろ。根拠があるのか?」
「絶対的なものは何一つ。ですが、心当たりはあるはずです。俺が暴漢に襲撃されたこともありました。しかし、もっと直接的なことが」
署長は白髪頭を掻いて背もたれに体重をかける。田中が視線を送った相手が想定外だったのではない。証拠がないまま結論が導かれようとしていることに恐れを感じていた。
「九里さんは捜査状況を把握するため、ここに寄越されたのだと思います。表向きはシェルターの政治が猟奇殺人に関心を持っているとのことでしたが、実際は捜査の手がどこまで迫っているのか知るためだったのでしょう。だからこそ捜査が進展するといつも邪魔が入りました」
「九里先生の意見が聞きたい。まさかそんな直接的な指示を受けて来たわけではないはずだ」
「もちろんです。ですが、私も田中さんの言う通りと思っています。そして、そんな裏の目的に加担していたとなれば後悔するしかありません」
「九里さんは何も知らなかったはずです。こんな優秀な人に腹の底を見せるリスクを負う必要がない」
田中は正直な所感を伝える。これは九里の協力に対する恩返しでもあった。九里こそ今まさに大きなリスクを背負っている。支え合わなければ簡単に潰されてしまう。
「田中、また何かとんでもないことを言い出しそうだな」
「相手はこんな状況も見越しているものと思います。どんなに疑われようと証拠がなければ逮捕はできない。立場を考えれば当然のことです。場合によってはとかげの尻尾切りで打つ手がなくなるかもしれない」
「あくまで主犯の逮捕を望むわけだな」
「ここの全員がそうだと認識しています。しかし、時間をかけて実行犯を逮捕する捜査方法では私たちは負けるでしょう」
「直接対決でもするつもりか」
「そうです。逮捕のためには確実な証拠を手に入れるしかない。恐らく証拠という証拠は全て処分されていることでしょう。だとしてもそれ以外に道はない」
田中は九里に背中を押される形で無茶な提案をする。当然、署長だけでなく他の捜査員も驚いて口をあんぐりと開けていた。失敗すると責任の連鎖がどこまで続くか想像がつかない。最悪の場合、扇署の上層部と捜査に関わった全員が処分という可能性もあった。
「勝算はどのくらいだ?」
「高くて1割、はあってほしいという願望です」
「ゼロではないんだな?」
やけに署長は強く確認してくる。いつものへっぴり腰は見られず、その場の全員が覚悟を感じ取る。
「可能性はあります。間違いなく」
「どうやって接触する?任意聴取なんて無理だぞ」
「それは私がどうにかします。但し、相手は田中さんでお願いします。私がここに送られたのも、田中さんが捜査を取りまとめていると知ったからでした」
話がとんとん拍子で進み、田中は途端に背筋に寒気を覚えた。田中はこれまで同じ哲学で捜査に臨んできた。だからこそ左遷された時も不安はなかった。しかし、今回は違う。真実を明らかにするためではなく、生きる権利を奪われた名も知らない人間のために正義を示そうとしている。そんなことは初めてで、失敗した時の代償は計り知れない。
「田中、もう一度聞く。いけるんだな?」
「はい」
そんな声も裏返ってしまう。吉野と鈴木はそんな田中を誰より驚いて見ていた。だからこそ田中の側に立って署長の説得に回ってくれる。九里も小さく頭を下げている。周りを蹴落として手に入れた立場を守るためではない。
「分かった。神原との接触を命ずる。私が押し付けた事件だ。ここで引き下がっては私のキャリアの最後に相応しくない」
「ありがとうございます」
会議が終わると田中の周りに三人が集まってくる。その日は窓の外が明るくなるまで神原を追及する論理について意見が交わされた。