第一話
サイレンを鳴らした警察車両が赤色灯を回転させながら猛スピードで空中を突き抜けていく。眼下の道路はいつも通りの大渋滞で、運転席に座る田中はあくびをかみ殺しながらそんな風景を眺めていた。視線を少しだけずらすと、今度はカラフルな塗装が施された住宅が目に映る。この色使いには人間の精神を安定化させる効果があるというが、目がチカチカしてむしろ気分を悪くした田中は手元の資料に意識を戻す。その数分後、目的地に到着したことをナビから知らされる。
車両は田中に揺れを感じさせることなく高度を落としていき、最終的には学校の体育館ほどの大きさをした建物の前に着陸する。プロペラを回転させていたモーターが停止すると車内は無音となり、シートベルトのロックが外れる。田中は車両から降りると大きく伸びをして上着を羽織った。
「くせえな」
周囲には異様な臭いが充満している。早朝ということもあって天井からの光量が足りておらず、辺りはまだ薄暗い。田中の影はシェルターの外縁部に向かって身長の何倍にも伸びていた。
田中は口で息をしながら建物に向けて歩き出す。事務所の窓からは電灯の光が漏れていて、時折人の動きが確認できる。田中は腕時計で時間を確認してから扉に手をかけた。
「田中さん、お疲れ様です」
「おう。どんな感じだ?」
「ちょうど話を聞き終わったところです。これから現場に案内してくれます」
「吉野は?」
「臭いにやられてトイレに籠ってます」
サイズの合っていない制服を着た筋骨隆々の男が小さく見えるタブレットを片手に説明してくる。彼の名前は鈴木といい、田中の部下として動いている。その前には作業着姿の初老の男が立っていた。机には人数分の湯飲みが出ていたがどれも手がつけられた様子はない。
「扇署の田中です」
「緑川下水処理場所長の上田といいます」
「ひとまず盗まれた現場までお願いします。説明は歩きながら彼から受けますので」
「ではこちらへ」
上田は二人にヘルメットを渡し、事務所奥の扉を開ける。その先には通路が続いていて、上田の話では処理場まで繋がっているとのことだった。田中と鈴木は横並びになって歩く。
「盗まれたのはおよそ30キロのリン酸塩だそうです」
「リン酸塩?」
「はい。下水処理で回収される資源だそうで、毎日1から2キロが生産されて施設内の倉庫に保管されています。それが一ヵ月に一度、国営工場へ納入されているらしく、盗難があった昨日はまさにその搬送日でした」
「そのリン酸塩って何に使うんだ?」
「それはえっと、上田さん、これ何に使うんですか?」
鈴木が前を歩く上田に問いかける。律儀に手すりを握りながら進む上田は振り返ることなく説明した。
「詳しいことは知りませんがね、何やら加工して肥料にするんだとか」
「でもこれ、下水から出てきたやつなんだろ?それで俺らの飯作ってんのか」
「食べ物だったものが食べ物になる。当たり前のことでしょう」
上田は平然と言っているが、後ろの二人は顔を見合わせて嫌な顔をする。処理場に近づくとともに臭いは強くなっていき、余計な想像だけでさらに気分を悪くしてしまう。田中は鈴木に続きを促した。
「発見は今朝の6時頃。従業員が倉庫からトラックに運ぼうとした際に気付き、直ちに上田さんに報告。国に納入しているという事情もあって慌てて通報したそうです。昨夜の22時の見回りで異常が確認されていないため、犯行時間はその間ということになります」
「それは臭いのか?」
「いいえ。純粋な無機塩ですから臭いは全く。ここからが処理場となります」
田中の目の前に様々な配管が通った空間が現れる。水が流れる音が響き、不快度はピークに達する。ハンカチで顔を覆ってみるが意味はない。鈴木は何ら対策をしていなかったが、その顔は酷く歪んでいた。
「このタンクからリン酸塩が回収されます。5キロ溜まると袋詰めして向こうの倉庫に移します。倉庫は外とも繋がっていて、リン酸塩の他にも下水処理に必要な薬剤などが保管されています」
「施錠は?」
「しっかりと。鍵は事務所にありますが当直が管理しています」
「そいつはどこに?」
「話を聞いた後、帰ってもらいました。事務所内の監視カメラを確認しましたけど、その方は当直中一度も外に出ませんでしたし、鍵が保管されてる棚に近づきもしませんでした」
「なるほど。ここに監視カメラは?」
「ありません。まさか盗難があるなんて想像もしてなかったもので」
「そうですか」
倉庫の中は電気をつけていても薄暗く、様々な物資が高く積まれているため狭苦しい。リン酸塩が保管されていた場所を示してもらっても通路と勘違いするような場所で、元は何がどれだけあったのか想像もつかない状況だった。しばらく見て回った二人は、結局何も分からずに倉庫の扉から外に出してもらう。
「私たちに説明していないことで他に気になることはありますか」
「あの、私は逮捕されるんでしょうか?」
「上田さんが?どうして?」
「国から管理を委託されていた資源を紛失してしまったんです。重要だということはよく承知していました。責任は私にあります」
「だとしても逮捕されるべきは盗んだ犯人でしょう」
「その通りです。我々が必ず捕まえますから安心してください」
「ですが」
田中と鈴木が言葉を掛けても上田から不安の色は消えない。この世界の成り立ちを考えればそれも無理はなかった。
「今日はもう結構です。また何かあればこちらから連絡します」
「よろしくお願いいたします」
「じゃあ一旦車に戻ろう」
話を終わらせると、田中は駐車場に向かって歩き始める。鈴木も上田に頭を下げてからついてきた。
「このあたりの監視カメラを全部調べろ。外縁部だから逃走経路は絞られるし、30キロの荷物を人の足で持ち運んだとも思えない。すぐ割り出せる」
「そうします。でも下水処理場に盗みに入るなんて前代未聞ですね」
「リン酸塩だっけ?資源とはいえ糞から回収したもののために一生を無駄にするなんて普通じゃないな」
田中は周囲を見渡した後にシェルターの中心部を眺める。遠くにはぼんやりと高層ビルが立ち並んでいて、それらはもう少しで天井に達してしまいそうである。一方、工場を挟んで反対側には漆黒の壁が広がっているだけだった。警察さえ立ち入ることのできない外壁は全て軍の管理下にある。重罪を働いた者がそんな危険な場所に逃げ込むとは考えづらかった。
「もう終わったんですか?」
車まで戻ると、そこでは吉野が気怠そうにして待っていた。上着を肩にかけて、白のワイシャツはヨレヨレになっている。トイレの中で随分と苦しんだようだった。
「俺が来ることなかったな。後は二人に任せる。何かあったら連絡よろしく」
「分かりました」
「私も帰りたいなあ。鈴木さんだけでやってくれません?」
「何言ってんの。今からここら回ってカメラのチェックするから」
「えー!?」
二人が言い合っている中、田中は先に車に乗り込んで電源を入れる。これから署に戻って提出が明日までの報告書を作らなければならない。ただ、帰りは緊急性がないため地面を這って戻る必要があった。往路と比べて倍以上の時間がかかることが見込まれる。
空を見上げると天井のランプは明るさを増していて、空気を循環させるための大きなファンが高速で回転しているのが見える。時計はちょうど12時を示している。昼食は署まで我慢することにして、空腹を紛らわせるために帰りは自分で運転することにした。