枷
僕は彼女と喧嘩をしたままだ。
そしてこの喧嘩は仲直りという結末を迎えることはない。永遠と僕は彼女と喧嘩をした状態で生きていかなければならない。
僕は温くなった発泡酒の残りを飲み干して、それを目の前の背の低いテーブルに潰して置いた。これで三本目だ。僕は比較的アルコールに対しての燃費が良いので、三本も飲めばもう目の前がグニャングニャンと踊り始める。もう見ているのか見ていないのか自分でも分からくなってきたテレビ番組がCMになったので倒れそうになりながらも立ち上がった。
リビングとつながっているキッチンを目指して転ばないように歩いて行く。ファンが異音を上げている冷蔵庫の扉に手を掛けた。因みに酔いの所為で距離感が分からず、一度空振りした。
よく冷えた新しい発泡酒を取り出し、それをアルコールで火照った額に当てながらリビングに戻る。冷たい缶が、まるで水滴を吸い取るスポンジのように身体の熱を奪っていき、とても気持ちが良い。
再び座椅子に腰かける頃には既にCMは終わっていた。缶のプルタブを起こす。プシュッとこ気味良い音が鳴った。
あの夜は、何が原因で彼女と喧嘩をしたのだろうか。
それを思い出すには少々時間が経ち過ぎていたし、今宵は既に酩酊していた。どんなに思考と記憶の海を潜ろうとしても、しかし脳の表面からは抜け出せなかった。彼女の泣いている顔だけが鮮明に思い出される。彼女が泣いているのを見たのは、あれが最初で最後だった。
いよいよテレビ番組の中の人物が何を言って、そして何で笑っているのか分からなくなってきたのでリモコンを探し出して電源ボタンを押した。テレビの画面が暗転する。そして立ち上がり、先程開けたばかりの発泡酒を片手にベランダに出た。
夜特有の、何処か退廃的で寂しげな空気が身を包む。取り込むことを忘れた洗濯物を暖簾のように掻き分け、向こう側へ出た。目の前の小さな公園が見下ろせる。隅に設置された街灯がオレンジ色の光を放って、その下に置かれた誰も居ないベンチを照らしていた。ここから出も見える程、大きな蛾が一匹飛んでいた。
僕は昔から虫だけは駄目だった。蝉もバッタも蝶々も、カブトムシはクワガタですら触れなかった。ムカデや蜘蛛なんかは論外だ。まあ、ムカデと蜘蛛は虫ではないのだけれど。
手すりにもたれ掛かる。そして発泡酒を一口の飲んだ。こめかみの辺りの血管がジュクジュクと音を立てていた。少々飲み過ぎたようだ。
ぼくは思った。
……このまま死ねないだろうか。アルコールに溺れたまま、眠るように死んで行きたい。これは贅沢だろうか。
あの日喧嘩をしたその次の日、彼女は友達と一緒に海外へと旅行に行った。この旅行自体は前々から計画されていたようだ。喧嘩をする前には、嬉々として僕に遊ぶ計画を喋ってくれていた。お土産は絶対に買ってくるよ。何がいい? 何が嬉しい? 彼女は必ず話の最後にそう言った。僕はなんて答えただろう? 食べ物が良いって言ったような気がする。食べ物ならば、人形やキーホルダーのようにずっと残らないから。食べてしまえば、後は梱包されていた紙や箱を捨てれば、もう何にも残らないから便利だと思ってそう答えたと思う。今ならなんて答えただろう。もしかしたらずっと残り続ける物を頼んだかもしれない。……まあ、もし残り続ける物を頼んだとしてもそれが僕の許に届くことは無いのだけれど。
暫くの間、ぼうっと無人のベンチを眺めていた。何も考えていないし、何も考えたくはなかった。そしてアルコールの所為で何も考えられなかった。ただ、弱い月灯りと、強い街灯の灯りに照らされたベンチを眺め続けた。いつの間にかあの大きな蛾は何処かへ姿を消していた。
最近はアルコールを摂取する量が目に見えて増えてきた。仕事をしている時以外は飲んでいないと彼女のことを思い出して死にたい気持ちに苛まれる。かと言って、他の事を考えなくなる程没頭できる趣味も無かった。ただ、アルコールを摂取したとしても、気が付けば彼女の事を考えているのだから救えない。しかし、飲まないと言う選択肢は僕には無かった。
発泡酒を煽る。既に温くなり始めていた。
夜空には少量の瞬く星と、指で摘まるほど小さな月が浮かんでいる。そう言えば、彼女は月が好きだったなと思った。しかし、僕はそこまで好きではない。いや、興味がないとったほうがいいのか。好きの反対は、嫌いではなく無関心なのだ。多分、月が今この瞬間に消滅したとしても僕は多分何も思わないだろう。
彼女は死んだ。
旅行先で乗ったバスが事故を起こしたのだ。前日が雨だったらしく、通っていた道が崩れて崖から真っ逆さまに落ちた。彼女の友達も助からなかった。彼女は落ちながら死の恐怖に苛まれたのだろうか。その時に、僕のことを思い出したのだろうか? 彼女の走馬灯に僕は出てきたのだろうか? 死に際に、彼女は僕のことを思い浮かべたのだろうか? もし、本当に走馬灯があるのならば僕は彼女の走馬灯に出たい。自分勝手だが、僕のことを受け入れてくれたのは彼女だけだった。
ただ、もし走馬灯に出られたとしても、僕と彼女の記憶は喧嘩をしたのが最後なのだ。それを書き換えることは出来ない。
これが、この世に残った僕に架せられた罰なのだ。もし、喧嘩なんかをしていなければ――もし、喧嘩をしたとしても仲直りをしていたら、僕はこんなにも辛い思いをしなかった。
彼女が死んだことよりも、彼女と仲直りが出来ないという事実の方が辛かった。そう思う自分が嫌になる。どうしたって人間は他人なんかよりも自分のことの方が大切だし、何よりも自分自身が可愛いのだ。
今までずっと、これからもずっと僕は彼女と仲直りできないという現実に潰されそうになりながら、しかし贖罪の方法を見つけられずに生きていかなければならないのか。
かと言って、自分で自分を殺すほど僕は強くなかったし、弱くもなかった。
発泡酒の残りを飲んだ。缶を潰す。月を見る。ベンチを見下ろす。気がつくと僕は泣いていた。泣きたいという感情は無いはずなのに、涙は止まることを知らないように目から溢れ、頬を伝い、顎先から滴っていく。
ふと、微風が吹いた。夜を纏ったそれは、僕の身体にぶつかり、頬を撫でていく。涙で濡れた頬が風に当たってひんやりと冷たい。
僕は再び首吊り死体のように吊るされた洗濯物たちを掻き分けて、部屋に戻った。
潰した発泡酒の缶をテーブルに置き、照明を消してベッドに倒れ込んだ。酔いのおかげでトロリとした眠気はすぐにやってくる。キッチンの方から聞こえてくる冷蔵庫のファンの低いノイズのような音が、何故か心地よく感じられた。
意識が遠のき、現実が夢という虚構に堕ちるその狭間。その一刹那に、今までで一番強力で、一番魅力的で、抗い難いほどの死への誘惑が脳裏を掠めていった。
だがしかし、僕は明日も死んでいるように腐敗しながら生きていくのだろう。
彼女と喧嘩別れをしたと言う、改変不可能な、完全なる、どうしようもない事実がずっと僕に纏わりつき続けるのだ。まるで足枷の如く、僕のこれからの人生についてくる。
僕は、僕は、もう幸せにはなれない。