09
朋彦は朝早く学校に行き、体育館の更衣室に《視覚透過装置》を隠した。鞄の中に入れたままでもよかったのだが、ふとした拍子に露見することを懼れた。
練習は早番だった。この場合、卓球部は練習後にランニングを行なう。朋彦は、落合がどのタイミングでどんな言葉を部員たちに発するのか、いつもよりも鋭敏に感じ取っていた。
芳野からは、昼過ぎにSNSで経時簡易短信が届いていた。部活動が終わった後に時間をずらして、第一地学準備室に集合する手はずになっていた。第一地学準備室は生徒玄関の近く、二階にある。壁さえなければ(あるいは壁を透かして見るならば)、生徒玄関を覗くに格好の場所にある。そして、放課後は誰もそこを訪れない。
富良野盆地の晩秋においては、すでに西日が落ちて久しい。必要な部屋や廊下には明かりがともっている。第一地学準備室は、昼間のうちに内側から鍵を開けておいた。
体育館で練習を終えた朋彦は、校舎に付属する脱衣室で着替える。そのまま歩いて生徒玄関に向かう。今は誰もいない。内履きを下駄箱に入れ、外履きを手に取る。トイレの傍らにある中央階段を利用して二階に上がる。二階を見渡すと、生徒が使用する教室の界隈には明かりが見える。一方、逆は暗闇だ。
光のある廊下と、それがない廊下とがある。肝心の第一地学準備室は光が次第に届かなくなるところに位置していた。スイッチ一つですぐに境界の変わる、光の淡いだ。
暗いところに足を踏み入れようとすると、後ろから小さく穏やかな足音がして、「荒木君」と呼びかける声もした。
結局芳野と共に第一地学準備室のなかに入る。ドアの近くのスイッチに手を伸ばすと、LTGライトの光が部屋に満ちる。第一地学準備室のドアには簡易的なカーテンが付属しており、光があまり漏れず、かつ外から内をうかがうことができない仕組みになっている。
カチリ、と芳野が半電子鍵を施錠した音がした。そのころにはすでに、朋彦は部屋の中央にある大机に《視覚透過装置》を展開していた。
「ねえ、錠剤は……三つか。どーする? 私は覗くとして」と芳野が語りかける。
「俺も男子がいたずらしてるのを覗くかどうかってこと?」
「そう」
朋彦は少しだけ考える。とっても可愛い女の子が何か通常ならば見えざるものを覗いている。傍らにいる自分。もし自分は覗かないでいたら、ずいぶん間抜けな光景に思えてきた。
彼女は壁の向こうの何かを見ていて、自分はこの第一地学準備室で適切なものを見ないで何もしないでいるのだ。それは避けたいと思い、朋彦は「俺も覗いてみるよ」と答える。
「覗き方はどーする? 《共有透過視野》で見る? それとも錠剤2つ使って《複眼透過》でいく?」
《共有透過視野》も《複眼透過》も、透過ガジェット一つに対して、透過行為者が複数名の場合の透過方法だ。
《共有透過視野》は、片方の透過視野を、もう片方の人間が共有して透視するもの。《借用透過》とも呼ばれる。借用する側には若干の訓練が必要で、目をつむって自らの視覚を惹起させないことが肝要になる。途中で目を開けてしまうと、自分の視野と、相手の透過視野とが混交してしまい正確な透過は望めない。この方法のメリットは視野を借用する者は錠剤を服用しなくて良いこと。透過ガジェットの遠隔電位に任せて、瞼の裏側に相方の視野が展開される。
朋彦は視野の借用に失敗してやはり間抜けに取り残されることを考えていた。それに哉子の部屋を覗いてこの方、錠剤を費やして特に何かを覗きたいとも思わなかった。
「《共有透過視野》ってしっかり目をつむって動かないでいて、情報享受にコツがいるんでしょ? それなら《複眼透過》のほうが気が楽かな」
「荒木君がいーっていうならそれで」
《複眼透過》は、錠剤を二つ使って、一つの透過ガジェットを共有して利用する方法。互いに互いを気にせず透視できるけれども、透過ガジェットの処理は純粋に二倍になるから、若干視覚の精度が落ちるのだそうだ。
ケースから錠剤を取り出す。すぐに芳野も錠剤を手に取った。
日中の経時簡易短信で芳野が述べていたことがある。サッカー部は、悪事を働くときは見張りを立てるのだと言う。今はそれが逆にヒントになる。第一地学準備室の外を望む窓にはカーテンがかかっており、窓の手前にはソファがある。
二人でソファに膝立ちして僅かにカーテンを除けて、外を望む。下校していく幾人かの生徒が居るばかりで異状はない。ソファにやや距離をおいて座る。一分経つごとに、古い時計の長針が大げさな音を立てて先に進む。何度か窓の観測を繰り返した時、サッカー部の一人が玄関先に居るのに気づいた。
朋彦は芳野に目くばせする。芳野は小さく頷く。セミロングの髪のその先。自然に少しだけカーブした毛先が踊るように僅かに揺らめいたのを、朋彦は見た。
二人同時に錠剤をかみ砕く。玄関の2年A組の下駄箱があるであろう所を見据える。
透過ガジェットが鈍い電子音を出している。玄関があるべき向きに眼を凝らす。朋彦の視野は一度虹色になって、それから少し暗くなって、やがて向こう側を透過し始めた。