चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-
花の精
僕は花と話すことができる。より正確に言えば、花の妖精とおしゃべりすることができる。
物心付いた頃から、僕は周りの植物たちの呼び掛けに気付いていた。母が植えた庭のガーベラ、道端の小さな蒲公英、並木道の銀杏など、彼らは僕が傍を通るたびに歌うように話しかけてきた。
「坊ちゃん! ご覧、私は今年もこんなにも綺麗に咲いたんだよ」
「あら、あたしの方こそ負けないくらい素敵よ」
「まあまあ、争うのはおよしよ。皆それぞれ美しいじゃないか」
そして、僕が彼らに小さく手を振ると、妖精たちも嬉しそうに手を振り返してくれるのだった。
果樹園のリンゴは、秋になると果実を実らせた枝を重そうに撓らせて、
「坊や、坊や、お前にいくつか分けてあげよう。ご覧の通り、今年もたくさん生ったんだよ」
と、特に美味しそうな実を選んで落としてくれるのだった。
梨や桃も、嬉しそうに我先にと手招きする。栗の木だけは、遠慮がちに幹の陰からこちらを窺って、
「落ちて頭に当たると危ないよ」
と小さな声で注意してくれた。
大きな池では、蓮の精が気持ち良さそうに泳いでいたり、水面に上がってきた魚たちと遊んだりしていた。畔の枝垂れ柳は、彼らが戯れる様子を涼みながら眺めている。時々、妖精たちが彼の長い髭によじ登って笑い合っていた。
冬になると、多くの妖精が植物と一緒に眠りに就く。次にやってくる季節に向けて土の力を蓄えるのだそうだ。真っ白い雪で覆われたまちの景色は、僕にとって寂しさの象徴だった。いつもどこにいても周りで騒がしくしている花たちが、静かに眠って目に見えないので、僕は冬が好きではなかった。
もちろん、冬に咲く花はある。しかし、彼らは僕に対してひどくよそよそしく、つれない態度でいた。殊に、雪の華は僕と目が合っただけですっといなくなってしまうので、一度も話したことがなかった。
雪の季節が過ぎ、春が来る。春の花たちは、長い間の寒さを耐え漸く地上に出られたことを喜び、連れ立って舞い踊る。その様子は正に華々しい。蝶や蜂などの虫たちも、妖精たちと一緒になってくるくる回る。
「ほら、あなたも一緒に!」
傍にいた赤い妖精に手を引かれ、花たちと輪になって再会の喜びを分かち合う。こうして春の訪れを実感するのが、僕の中で一つの恒例行事となっていた。
こうして、季節は一つずつ巡っていくのであった。
***
朝。僕の一日は妖精の声に起こされることから始まる。
「起きて。ねえ、起きてよ」
リナは、僕の一番お気に入りの花の妖精だ。何年か前に、まちを散策していた時に路地裏で一輪だけ咲いていた紫色の綺麗な花に一目惚れしたのだった。今はその花は鉢植えにして窓辺に置いてある。リナの花は朝に咲き、昼には萎れてしまう。それに合わせて彼女も朝は日の出とともに元気いっぱい、昼には眠ってしまうのだった。
夕方や夜、あるいは冬の外の世界を知らない彼女は、そういった話を聞きたがった。毎朝早くに僕を起こしては、
「ねえねえ、ミヒャエル、今日もお話聞かせてよう」
斯うせがむのだ。だいたいいつも僕は寝惚け眼でのらりくらりと躱そうとするのだが、結局は根負けして彼女に様々な話を聞かせて遣るのだった。
ところで、妖精はそれぞれ大きさが異なる。お伽噺などでよく描写されるような小さな者や、反対に巨人のように大きな精霊もいる。人間のおとなと同じくらいの背丈の者もいる。それは植物の種類によって異なったり、あるいは同じ種族でも全然大きさが違ったりするという例もある。リナの精は、ちょうど僕の掌に乗っかる程度だった。だから普段は僕の肩の上にちょこんと座っていたり、頭の上に寝そべっていたりするのだった。
この日、僕は寝起きが悪かった。というのも、前日に夜更かしをして、あまり眠れなかったのだ。リナはそのことを知らないので、いつもと同じように僕の頭の周りをぐるぐる回るっている。
「んー、うるさいなあ……」
「ちょっとお、うるさいとは何よう。お話してくれなきゃ、あたしが退屈しちゃうじゃない」
「いいから寝かせてくれないか」
「だめ! ちゃんと起きて!」
「ああ、もう、面倒くさいなあ」
僕は頑なに布団を頭まで引っ張り上げて起きようとしなかった。リナはその様子を見て当然機嫌を悪くしたらしく、
「もう知らない!」
と言ったきり姿を隠してしまった。僕が後にやっと起き上がった時も、傍にいなかった。ちょっと頑固過ぎたかな、いつもはこんなことないのだけれど。僕は少し反省する。しかし、リナもリナで少しくらい分かってくれても良いはずなのに。
おかげで一日中気分が晴れなかった。
***
夕方、朝と同じくどんよりした気持ちで歩いていた。気晴らしに、と散歩していたのだが、どうやら無駄だったようである。
ふと、道端に見慣れない橙色の花が座っているのに気づいた。近寄ると、彼女は僕の方を振り向き、見つめてきた。不思議な感覚が僕を支配した。
――彼女を手に入れたい。
後で知ったことは、妖精は僕に対して「誘惑」を仕掛けていたようだ。斯くして僕はその花を丁寧に摘み、家へ持って帰ったのだった。
彼女の名前はベッカといった。ベッカは割と派手な見た目をしていたが、口数が少なく、僕の方を見つめていることが多かった。正直に言うと、彼女が何を考えているのかは判断できなかった。しかし、別段それを気にすることなく僕はベッカの花を余っていた鉢に植え、部屋に飾った。窓辺はリナの花が先に陣取っていたので、ベッカは机の隅に設置した。リナはまだ姿を消したままだった。仕方なく、僕はベッカに話し相手になってもらい、今朝のことを話した。
ベッカは黙って聞いていた。僕が話し終えると、
「ずいぶん大切にされているみたいネ、その子」
「まあね。長い間ずっと一緒にいるからさ。でも、こんな風に喧嘩をしたのは初めてだよ」
「ふうん。妬いちゃうワ」
その後も何日もリナは帰らなかった。リナの花も開くことがなく、ずっと閉じたままだった。余程傷ついたらしい。帰ってきたらちゃんとお話してあげよう。
リナの花をぼんやりと見遣る僕を見て、ベッカが不敵に笑ったのを、僕は知らない。
***
ある朝、閉じているリナの花弁を何気なく見て、僕は悲鳴を上げることになる。
リナの花は、オレンジ色に染まっていたのだ。
その色は、ベッカに酷似していた。
さらに、鉢を持ち上げると、ボロボロに朽ちて変わり果てた姿のリナの精が現れた。死んでいる。
部屋を振り返ってベッカを見ると、妖精は今まで見たこともないくらい顔を歪めて笑っていた。
「あははははは! おっかしい、本当におかしい!」
「これは君の仕業か」
「そうヨ! あたしがその子を殺してあげたノ。」
ベッカはこれまでの口数の少なさが嘘のように、高い声でまくしたてた。
「あなた、その子にご執心だったのデショウ? それが気に食わなかったノ。あなたと出会ってすぐに、わかったワ。だから、その子を殺して、代わりにあたしがあなたの一番になりたかったノヨ」
「君の目的はそれだけかい?」
「ンー、それもあるケレド。むしろ、それは目的というより、手段だった。知ってル? あたしは本来このまちに在ってはならない、イントルーダー。あなたに愛されることで、あなたに育ててもらうことで、この地において我が種の個体数を確実に増やす。それが本当の目的ナノヨ」
妖精は僕に顔を寄せてきた。
「ねえ、もう邪魔なあの子をいないワ。だから、あたしがあなたの一番、デショ?」
「ああ、うん。そうだね」
僕も彼女に近寄った。
「一番、殺したい相手、だよ」
言うが早いか、僕は机の上に転がっていたハサミでベッカの茎を切断した。妖精は、信じられない、という表情をしている。胸の辺りで分断され、床に倒れた。彼女の目はしばらくぎょろぎょろ回っていたが、やがておとなしくなった。その体は見る見る朽ちていき、消えた。
…Die Blütenfeen