表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/14

08.改革の試み

 230年台、呂壱が官府や諸地域から送付される文書監査役の中書となる。これまで看過されてきた不正は摘発され、容疑者は拷問にかけられた。

 高官や地方の太守は主要なターゲットになった。明示されているのは丞相顧雍と左将軍朱拠、そして江夏太守刁嘉と建安太守鄭冑である。また時期を考えると当時公安督だった周胤も候補に挙がる。

 いずれも他者の弁明によって赦免された者だから、それが期待できない者は処分されたままだっただろう。呉郡の豪族に限らず、屯田兵を用いて耕地の拡大に努めた有力者が罪に問われ、その資力は国家に還元された。


 呂壱の改革は酒造・酒専売権にも及んだ。禁酒は魏や蜀でも以前採用されたことが有る。蜀では酒造りの道具も一時禁止されたというから、酒造も禁じられていた。

 禁酒は不作のときに採用されるものだから、当時の呉の状況なら必要だっただろう。しかし何かあるたびに宴会をして酒を飲むのが名士の習俗なので、名士層の不満も爆発した。


 呂壱は238年に処刑される。孫権は呂壱事件の後に人事の採用法を改めた。そして名声のある人物を光禄勲府の中郎将に抜擢することを取り止め、四科試験を設けた。魏の模倣で、秀才・孝廉・孝悌・能従政のことだろう。以降の五官中郎将は他国への使者としての役割が多くなったように見える。

 呂壱ら中書の長官には闞沢が任命されていたようだが、彼が罪に問われることは無かった。闞沢は呂壱の処刑に際して寛大さを求めたが、容れられなかった。



 財政対策には他にも大銭の鋳造がある。これは謝宏と謝淵が提案した対策であり、これによって富裕者が溜め込んでいる貨幣を市場に流通させようとした。

 既に以前蜀の劉巴が実行して国庫を満たすことに成功していた。またかつて後漢の劉陶は大銭の鋳造について農民が貨幣を用いることが無い以上、貧富の差を解決するには無意味だと訴えていたことがあるが、この頃の呉では貨幣による納税が行われている。

 そもそも呉には銅山があり諸外国と比べて金属は得やすい。魏では貨幣経済は崩壊していたが、呉では機能していた。しかしその価値は、穀物価格や貨幣の流通量に依存するため、この年間を通じて高下していたように見える。


 謝宏は大銭を鋳造して通常の貨幣と交換させることで国庫の銭を増やし、市場に供出することで商業を盛んにしようとした。

 236年には500銭で1枚、238年には1000銭で1枚の大銭を鋳造したという。

 1畝につき数十銭と書いたが、農村では貨幣経済が弱く、農地に掛かる税金が少なくさせられていたように見えるので当時の貨幣価値の推定の参考にはしない。しかし地代として月毎に500銭を支払っている例が呉簡にある。

 一方、都市では市場に課税されていて、市の規模や季節によって斑があるようだが月毎に3千から8万銭程度が徴収されている。市は県の下位構造である郷単位で開かれた。他に呉簡には丘という単位もあるが、こちらははっきりしない。

 年単位とか郡単位で換算してみたりすると、朱拠の私兵に着服嫌疑が出たときの3000万銭であったり、劉助への報酬100万銭、また呂蒙が関羽を討ったときに報酬として得た1億銭と比較して妥当に見えるだろうか。


 しかし結局、流通させる銭が足らずに大量鋳造するために、民間から銅の供出を強制する必要が出てしまった。また大量生産は材質を悪化させるため、質的に競合するであろう盗鋳は厳しく禁じられた。


 さて、大銭や取り潰しによって膨れ上がったはずの国庫だが、これを庶民に配分したのが240年11月に起きた飢饉のときだった。

 この頃、経済的な混乱が大銭によって引き起こされたと上言された。貨幣の大量鋳造による貨幣価値の低下は価格統制によって抑えることが出来るものの、凶作が起こると価格統制は従来の供給不足に加えて農村の破滅を引き起こすことになる。

 それまでの間、孫権は充実した国庫を利用して連年とはいえないまでも反乱鎮圧と戦争を繰り返していた。



 236年には徴兵を不服として鄱陽で彭姓の豪族が再び反乱を起こした。内陸の異民族は諸郡に跨って大規模な反乱をするが、それぞれが独立的であったため戦術的に連携できず各個撃破された。

 翌年、陸遜による彭旦討伐によって彭姓の豪族反乱は終結する。そして238年に呂岱が廬陵で残党狩りを終えると、揚州は今後20年ほど平穏で統制の取れた期間に入った。というより呂壱事件に伴う政治方針の転換から揚州での労働力収奪が行われなくなり、他の地方での収奪が増進されるようになったのだろう。


 対魏戦争において蜀との連携は見られなくなる。

 諸葛亮が死んで軍権が蒋琬に遷ると、蜀の戦争計画は混乱に向かう。蒋琬の計画は大量に小舟を作って長江を下り荊州北部を攻めるものだったが、馬岱や姜維は涼州での小競り合いを継続していた。

 呉では蜀が攻めて来る可能性があるとして荊州西部の軍備を整えようという歩隲の求めがあった。歩隲は事ある毎に軍備増強を訴えているように見える。内乱や戦争とはあまり縁の無い地域だったから開墾が狙いだろう。宗預伝にはこの頃に呉が南郡の巴丘を増兵させると蜀では巴東の永安を増兵したとあるから、その中間点であり歩隲が拠点にしていた西陵での兵力増強は見られなかった。

 しかし両国間の不信を表すかのように、どちらかが魏と交戦している年に他方は戦争を行っていない。蜀は諸葛亮の死後、235年と240年に魏と交戦した記録があるのに対して、呉は236年、237年、241年、242年に戦争を起こした記録がある。呉の主な目的は掠奪であり、陽動として消極的な包囲戦を行うことがあった。この傾向は蜀で再び政権が交代するまで続いた。


 それとは別に237年には公孫淵が再び呉に接触してきた。

 公孫淵伝で一応事情は触れられているが、再発した鮮卑の反乱が235年に鎮圧されて魏が再び遼東に目を向けるようになり、これを受けて236年に高句麗が孫権の使者を殺して魏に帰順したために、高句麗と対立する公孫淵は魏から離反せざる得なかったと背景を考えることも出来るか。

 孫権は以前裏切られたにも拘らず公孫淵に救援を送った。いや、そもそも裏切りなどは重要ではない。公孫淵への救援は同盟再構築のための手段であり、その有益性はともかく互いの敵は一致していた。

 しかし孫権の救援が遼東に到着する前に公孫淵は滅ぼされた。



 238年2月に孫権の歩夫人は亡くなり、皇后の位を追贈された。徐夫人は亡くなっていただろうし、歩夫人の娘たちにはそれぞれ名士の庇護者だった全琮と、呉郡の朱拠が充てられていたから不満は生じないように思われた。


 呂壱事件後には荊州に配置された豪族たちがその権利を行使して勢力を強めていた。

 それまで膨大な数の官吏によって統制されていた多くの農民は豪族の傘下に移っていく。爵位を与えられた名士や将校の多くも同様であったため、彼らの力を一つにまとめることが後継者の孫登に期待されていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ