07.拡張主義の復活
孫権は帝位に登った後、遼東及び海南島、夷州・亶州への遠征を試みる。海南島はかつて朱崖郡に属していたが、漢の元帝の頃に反乱が繰り返されたため放棄されていた。漢代の調査では広さは千里四方、16県、戸数は23000といい、後漢書東夷伝には倭や儋耳と法俗が似ると言う。
真珠を始めとした珍奇な物産が多くあるが、都から遠すぎて本土から移住してきた官民の不法は取り締まれず、反乱鎮圧のための遠征も困難だった。
陸遜の強い反対により、海南島への遠征は取り止められた。しかし夷州・亶州への遠征は行われる。
外洋への進出は、まだ行われたことがなかった。中国の楼船は多くの人員を詰め込める利点はあるものの、横波に弱く、帆も貧弱で、航海可能な時期も限られていた。
しかし技術の発展が長距離の航海を現実に近づける。
海上で使える方位磁針はまだ無かったが、呉では少し後に天球儀が開発されたり、円周率の導出も試みられたりするような、外洋航海に必要な天文学的な知識が積み重ねられていた。
夷州への出発は230年正月。
季節ごとに変化する台湾周辺の海流において、冬場は寒流が強まり、季節風もあって建業から速やかに台湾へ向かって流れていく。しかし日本や琉球へ航海するならば季節外れになる。外洋航海の主力は海流だし、帆があれば逆風でも進めるが当然遅くなる。
帰還はその1年後の231年2月頃。帰り着くまでに8-9割が病死していた。当時、脚気は湿気の影響だと考えられていたという。
台湾に派遣された武将たちは地元民数千人を拉致して帰還したものの、亶州を発見できなかったとして処刑された。
229年、孫権は遼東に使者を派遣した。
前年、公孫淵が遼東の支配権を継承したとき、遼東はこれまでの半独立的な状態から変わって、魏と呉の両方から干渉を受けるようになった。当初は魏の使者は威圧的な態度で、呉の使者が融和的な態度で公孫淵に接していたが、232年には両国が軍隊を派遣して小規模な衝突が発生した。
233年に公孫淵は中立的な態度を改めて魏に属し、呉は公孫淵の攻撃によって使節団を殺された。孫権は公孫淵の討伐を計画するが、多くの臣下によって止められた。
魏による遼東介入の本格化は、鮮卑の動向と関連するだろうか。一応、右北平以東の鮮卑の領域は長城より離れて存在したため、遼東の公孫淵には殆ど影響が無かった。しかし右北平以西では国境の諸郡では小競り合いが続いていた。
当時、魏は北方の鮮卑に対して田豫が対処を任されていたが、部族同士を互いに争わせるやり方では鮮卑の団結を避けることは出来ても国境の動揺を収めることは出来なかった。
228年に田豫が解任されると、幽州刺史王雄の慰撫政策によって鮮卑の部族間争いは一旦鎮静化し、魏の幽州政策はそれまで絶域だった東方にも関心を向けた。
孫権にとって友好の相手は何処でも良かったようで、公孫淵との友好に失敗すると今度は高句麗を選んだ。しかし通商路には公孫淵の支配域を通る必要があり、また高句麗と公孫淵が敵対的な関係だった為に、呉にとって貴重な馬を除けば殆ど得るものは無かった。
今のところ蜀は有用な同盟関係だった。出兵は毎年のように行われ、蜀との間接的協力は度々為された。しかし両国の軍隊を合体させることは無く、同じ戦線で軍事行動を行ったのも孟達救援のときだけだった。
とはいえこのとき蜀との同盟関係が機能していたと鍾離牧伝で触れられている。
231年から234年までの間、蜀と呉の呉側国境にある武陵郡で異民族反乱が起きていて、呉主伝によれば5万の数を動員することになった。
蜀・呉の国境付近で軍を動かすと、両国の関係に亀裂を生じさせかねない。そこで孫権は武陵の住民や蜀を動揺させないように、蜀の蒋琬の義弟で武陵出身の潘濬を討伐の司令官に任命した。諸葛亮が北伐するために漢中に駐屯していたとき、蒋琬は首都の成都で留府長史として政務を代行していた。
荊州西部だったためか潘濬指揮下の武将に呉郡の豪族は選ばれていない。
この反乱の背景には、打ち続いた戦争と異民族への課税がある。
230年から234年までの毎年行われた呉の出征は満寵伝に纏まっている。233年までのものは陽動或いは労働力の掠奪が主目的で、あまり成果が上がらなかった。
234年の共同作戦はより綿密なもので、蜀の北伐と時期を合わせて行われた。諸葛亮は234年2月に漢中を出発して4-5月頃から五丈原で司馬懿と対陣し、8月に死んだ。
このとき諸葛亮は五丈原から荊州西部に駐屯する歩隲に書簡を送っている。協力の依頼だとしたら遅すぎるから情報交換だろう。
呉の軍勢は同年5月に進発して主力軍で合肥を包囲し、別働隊は長江沿いに駐屯する。当時、合肥の守りは薄くて容易に攻め落とせると踏んだのか、または何かの計画があったのか、孫権は別働隊を機能させること無く包囲を続けた。
7月に疫病が流行し、また曹叡が洛陽から中央の戦力を率いて侵攻すると、呉の軍勢は全て撤収した。
232年、顧雍の孫の顧承、陸績の子供の陸宏・陸叡が成人し、後見人の陸瑁と共に官途に就いた。呉郡の名門4人が宮廷に入ったとき、太子孫登は武昌から離れて建業に遷っていた。太子四友もこれに従い、陸遜は武昌に留まって軍務にあたった。
234年には顧承及び太子四友の諸葛恪・陳表が揚州の異民族討伐に赴き、それぞれが私有の屯田兵を加えると共に、揚州の異民族に対して税を課すようになった。
231年から度々行われた異民族狩りと出征の多くは掠奪や徴税の強制だけでなく、労働力を得るためでもあった。
呉では常に人的資源は不足していて、王朝を通じて用水路の整備するだけの膨大な労働力を確保することも出来なかった。溜池の整備や開墾作業は太守が民衆に労役を課すことで、太守であるところの豪族に有利な形で実現した。
234年頃、格差が大きく広がっていた所に不作が起きた。嘉禾年間(232-238)という農事の吉祥を示す元号で示されるように制定が決まった231年頃には豊作だったはずだった。それで穀物の供給が増え、穀物価格は低下し、多くの土地と労働力を持つ立場が有利になった。
234年9月と235年8月には霜が降って凶作となり、236年には5月まで雨が降らず旱となる。235年に孫権は江北での屯田を推進するも、魏の軍勢によって略奪されて台無しになり、財政改革が必要になった。