06.帝位に登る
226年7月、石陽を攻めた孫権と朱然らは、文聘の抵抗を受けて攻め落とせずに帰還し、撤退中に文聘及び司馬懿の追撃を受けて敗走した。また襄陽を攻めていた諸葛瑾と張覇は、徐晃と夏侯尚の前に攻めあぐね、転戦してきた司馬懿に敗れた。さらに227年に入ると曹休の攻勢で皖城は攻め落とされ、この機に首都警備の任にあった韓綜が魏に降伏。魏は江夏郡南部都尉を設置し、司馬懿は荊州方面軍の司令官として宛に駐屯した。
諸葛瑾は徐州琅琊からの移住者で、魯粛と同じ頃に孫権の傘下に入っている。武官でありながら軍事は苦手で、軍功はまるで無いものの高官に至る。張霸は不明。
先に総司令官を務めていた陸遜や呂範はこの戦いに参加しなかったようだ。事情は判らない。
この頃、蜀の諸葛亮が新城太守の孟達に離間するよう図っていた。孟達は219年に関羽を裏切ったことでよく知られている。
孟達は魏に降った後、新城太守となった。新城郡は房陵、上庸などからなる郡で、当初は呉・蜀の両方の国境と接していた。諸葛亮と孟達の繋がりは費詩伝によれば225年末から226年初頭に生じ、以来度々連絡を取り合っていたという。また晋書の宣帝紀によれば呉との繋がりもあったというし、水経注の沔水編では魏興郡の木蘭寨に向けて呉が孟達救援の兵を出したとあるが、呉書ではあえて触れていない。
孟達は227年の末に反乱を起こすが司馬懿の軍勢に敗れ、蜀と呉の救援は司馬懿の派遣した別将に阻まれて救援出来なかった。
石陽の戦いの後に陸遜は諸葛瑾と共に法律の改正作業を行っている。呉では基本的に漢代の法律が採用されていたが、一部が呉郡の豪族と江北移民によって折り合いをつけた法律に改められた。
法令の一つは武将に対する刑罰の緩和であり、この頃相次いで起きた魏への亡命に対応している。当時の亡命者として呉書に晋宗、王靖、韓綜、翟丹の名が見え、また魏書賈逵伝に張嬰、王崇がいる。これは228年に起きた翟丹の亡命の後に施行されたのだが、230年に台湾と日本に派遣され、その任務を果たせなかった衛温と諸葛直は誅殺されている。
他には恐らく230年代のことだが、武将や名臣の息子が罪を犯して処罰されることが多くあり、大抵は辺境に配流されている。
それまでも虞翻や孫輔が配流されているのを見ると差はあるように見えない。むしろ私情に左右されがちな処罰内容が画一的になったというべきだろうか。
一方、逃亡した将軍に対しての処刑は相変わらず三族まで及んだ。
もう一つは徴用の削減と減税だった。
この頃の徴用には、武昌から建業に首都を移す作業があった。武昌は前述したように要害の土地で、対蜀を想定して都とされていたのだが、両国の関係改善に伴って、より物資輸送面で優れた建業に移されることになる。
当時、納税は税米と調布と銭があり、他に都市部では貨幣で支払う市税もあり、荊州から豫州へと徴収物を輸送するのに長江が用いられていた。宮殿についても各地で木を切り出て輸送することを避けて、かつて利用していた太初宮を補修するだけに済ませたという。
税米は畝毎に掛る税で、呉簡によれば少なくとも1畝につき米1斛2斗が徴収されている。旱で収穫のなかった田地は課税対象から省かれたようだ。
調布は1畝につき2尺。銭は数十銭程度だったが貨幣価値は変動し易く一定ではなかった。米は一戸毎の徴収、布は一戸毎に加えて集落毎にも徴収されていた。
減税の実施は229年で、孫権の皇帝即位の祝賀として行われた。
228年、呉と蜀は208年以来の共同作戦を行った。諸葛亮にとって最初の北伐であり、孫権にとっては一昨年の雪辱戦だった。
諸葛亮は荊州北部ではなく、より困難な道のりで涼州へと進軍する。当時、涼州では魏は蜀に対して全く備えをしていなかったという。しかし228年春の第一次北伐は、街亭で馬謖が敗れて敗退した。
一方、孫権は228年の春頃に出征の準備をしていた。
目指す場所は豫州弋陽郡の西陽である。西陽は当時の呉の首都武昌からまっすぐ北にあるが、孫権は合肥に近い廬江郡の東関から出陣しようとした。しかし、その計画は蜀の失敗により取り止められる。
半年後の秋8月、今度は魏が呉へと侵攻した。魏の曹休が皖城に出陣して尋陽を目指し、司馬懿は漢水を南下し、賈逵は西陽から東関に進軍した。 孫権はまず皖城を回復し、続いて曹休を誘い込んで石亭まで深入りさせて撃破した。
蜀では11月、再び魏への遠征が決定した。まだ魏の荊州・豫州・揚州・徐州の軍勢は江東に向けられていたし、雍州の郭淮は羌族と交戦していた。
諸葛亮は12月に陳倉を包囲するが、準備されていたため攻め落とせなかった。魏の曹真が不十分な戦力で涼州に出征すると、諸葛亮は多少の被害を魏に与えて成都へと帰還した。
229年、孫権は帝位に登る。文武の官職はみな昇格し、庶民はこの年の租税を免除される。文武の最高官職の丞相と上大将軍には呉郡の顧雍と陸遜が選ばれた。
百官の体裁が整うと、人事権を持つ尚書の地位は実質を失い、その代わり百官の監査に関わる官職が宮廷内の権力闘争において重要になる。
9月に孫権が建業へ遷っても、太子の孫登には宛がう宮殿がないため武昌に留められ、陸遜と潘濬が後見人になった。それまで孫登と共にいた同世代の貴族の子弟たちもみな成人していたが、30歳を過ぎるまで傍仕えを続ける。
また陸遜が武昌に遷った代わりに、歩隲が長沙から宜都郡西陵へ赴任した。歩隲は蜀との国境に駐屯するに当たり、諸葛亮との交流を持った。しかし諸葛亮時代には荊州西部における対魏の軍事作戦は採用されず、国境地帯での軍拡も推奨されなかった。
蜀との交流に於いては、229年に皮算用的な相談が行われた。魏が滅んだ後の国境線の決定である。
この結果、幽州、豫州、青州、徐州が呉に属し、兗州、冀州、并州、涼州が蜀に属すことになる。また司州は函谷関で分割して、蜀が西側、呉が東側になった。