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05.豪族政権への道

 221年、劉備の侵攻の際、呂蒙に後任と遺言されて江陵に駐屯していた朱然ではなく、陸遜が最前線の巫または秭帰へと派遣された。

 しかし劉備の攻撃を受けて陸遜は秭帰から撤収し、劉備は巫と秭帰を占拠した。


 夷陵の戦いのときは陸遜が最高司令官になった。

 陸遜の急速な昇進は、年少の親族の陸績が没した後より始まる。陸績は廬江太守陸康の子で、210年以降に偏将軍に任命されて交州へと左遷されていた。

 219年、陸績が没したのと同じ年に陸遜が偏将軍に任命される。その後の2年間で多分家柄と財力と兵力を背景にして一気に昇進し、陸遜より先に偏将軍になっていた朱然や潘璋、孫韶らを追い抜き、最高位に至った。

 陸氏ら四姓の影響力は揚州一帯に限られていたが、孫権の権力基盤としての必要性は政権内における彼らの官職に反映される。急速な昇進もその一端で、武官において孫権の親族や古くから従う武将がいたために文官同様の官職折半が困難だったため、呉郡の豪族を高官に宛がって影響力を強める必要があった。


 さて、劉備が巫から夷陵まで連ねた陣営は漢中の戦いの如く険阻な地に拠ったもので、伏兵を配した上で陽動を行って、呉の軍勢を挑発していた。

 陸遜は挑発に乗らず、222年の正月になってから攻勢を開始し、複数陣営への同時攻撃を主な戦法にした。閏6月までに全ての陣営を落とすことで劉備を破っているが、半年かけて陣地を虱潰しに攻略したともいえる。

 この戦いの最中、孫権は魏から呉王に封じられたが、孫権は王には立たなかった。また魏に従って延康や黄初に改元することも無かったともいうが、後になって改元していなかったことに修正したことが呉簡から推定されている。



 222年8月、劉備が白帝城に逃れた後、孫権は許昌に赴いて曹丕に謁見した。その翌月に魏は呉へと侵攻を開始する。

 10月になると孫権は劉備に和睦の使者を送り、11月になって呉王に立つと共に黄武と改元した。12月には蜀との講和が成り、魏との和平交渉を絶った。


 洞口を攻めた曹休は嵐で壊滅した呂範の軍勢を賀斉の軍が補填したことも知らずに勘違いで撤退し、濡津を攻めていた曹仁も自分の息子が負けると撤退、南郡の江陵を包囲した曹真は半年近くの長期戦になって春に撤収した。

 この戦いでは、揚州牧の呂範が総司令官になっている。呂範は100人の難民名士を食客として抱えていた有力者であったため、嵐で1万の水軍が壊滅してもお咎めはなかった。



 孫権が呉王になったとき、太子として長子の孫登が選ばれる。彼には後ろ盾も無く太子になる意思もなかった。

 長男に継がせるという方針は亡命した名士たちに対する配慮であり、また豪族への配慮として孫登の教育者として江北及び江南豪族から人材が2人ずつ選出された。


 しかし皇后は立てられなかった。 当時孫権に寵愛されていたのは琅琊出身の王夫人であり、間もなく孫和が生まれている(224年頃)のだが、孫権は呉出身の徐夫人か、歩隲と同族の歩夫人かで迷っていた。

 210年代頃に歩夫人が寵愛されていた頃、歩隲に対して特別の厚遇はなく220年まで交州に送られている。彼の勢力は長沙に移った頃には強くなっていたが、それに対する抑圧もあった。226年頃には陸遜が兵士による開墾奨励策を提唱したのをきっかけに、長沙での募兵を願うも却下されている。またその頃の歩隲の役割は前任者である呂岱の職務を引き継ぐものでしかない。

 一方で呉郡の徐夫人は、孫権が211年に拠点を移してから別居するようになっていた。220年代には彼女を皇后にすべきという意見が強かったというが、呉の豪族たちによる推薦でもあったのだろう。孫登はこの意見に賛同しつつ、太子には自分ではなく孫和を立てようとしたという。琅琊王夫人は徐州からの難民だろうから、当時の威勢よりも影響力を重視したのか、わからない。



 孫権時代の任官・昇進は呉郡出身とそれ以外の出身が半々になっていたという。少なくとも太子四友の任命や、二宮の変までの官職整理はそのようになっている。

 役職ごとに派閥が固定化されていたわけではなく、欠員の補充に別の派閥が任命されることもあり、同じ派閥が任命されることもあった。一部の大抜擢を除き、序列に従った昇進の形を取っていたのだろう。

 この勢力バランスは強力に機能するときもあれば不安定なときもあり、それ故にいくつかの事件に繋がった。


 最初の事件は張温と暨豔、徐彪によるもので、官職の任命と弾劾が焦点になった。暨豔は呉郡出身で、太守の朱治によって採用され、遅くとも222年頃に選曹郎から選曹尚書に昇進し、224年頃まで官吏の選抜を担当していた。徐彪は広陵出身だから、長江沿いと呉郡の豪族が結託して他の勢力の追い落としを図ったのだろう。

 暨豔らによって弾劾の槍玉に挙げられたのは呉の初代丞相で北海出身の孫邵である。孫邵に丞相を辞任させただけでなく、官位を落とされた者や、兵士による監視をつけられた者もいたという。

 その一方、張温は既に人事職にいなかったにも関わらず、同郡出身の殷礼らを勝手に転任させた。


 224年、朱治が老齢で死ぬと暨豔らは処刑された。駱統が張温を弁明する際、広陵出身で鄱陽太守の王靖(225年、魏に亡命しようとして処刑される)と対立していたことを挙げて両勢力の結託に関わらなかったとして張温の関与を否定したが、張温は庶民に落とされた。

 孫邵は丞相に復帰したが翌225年没し、名士の張昭ではなく豪族の顧雍が丞相に任命された。顧雍は225年に尚書令から一旦太常に転任した後、丞相になっている。太常は宗廟の祭祀を担当する職だが、呉では閑職というわけではないようで、230年代には太常の潘濬が次の丞相になると考えられていた。



 蜀との同盟では、まず両国の外交のために陸遜に印綬が授けられた。とはいえ両国の使者たちは互いの皇帝に面会して友好を結んでいた。

 続いて南方の境界線が議題になる。当時の呉は交州全域及び益州永昌郡を自身の間接的な影響下に置いていて、劉璋の息子の劉闡を益州刺史に任命して国境に配していた。一方、蜀では劉備の敗戦以降、蜀南部の越嶲郡や益州郡、牂牁郡辺りで反乱が発生していて支配権を喪失していた。


 225年、蜀で諸葛亮による南方の反乱討伐が行われた。諸葛亮は春から秋にかけて半年で南方を平定し、帰還した後には費禕を使者として呉に派遣している。これには明らかに南方の協定の意図がある。

 劉闡は間もなく益州刺史を解任されて、江東へと帰還した。そして反乱を起こした南方の諸郡は再編され、興古郡、建寧郡、雲南郡が新たに設置されたが、その統治は現地の豪族に任された。


 孫権は226年に入ってから交州事情に手を加え始めた。ちょうど士氏の頭目の士燮が死んだ年で、この機会を狙ったものだった。

 孫権は交州を広州と交州に分割し、豪族ではなく本国の官僚に統治させるべく使者を派遣する。広州は南海、蒼梧、郁林、高梁の四郡で、呂岱が刺史となり、交州は交阯、九真、日南郡の三郡で、戴良が任命された。

 士燮の息子の士徽は九真太守に任命され、そして前任の九真太守だった叔父の士[黄有]は多分解任された。士氏は権益の削減に反発して挙兵し、呂岱の騙まし討ちによって打ち破られた。

 交州と蜀南方辺りに犇いていた独立的な勢力は駆逐され、二国の管理下に入った。



 この間、魏の曹丕は呉への親征を試みていた。消極論を唱えていた賈詡が223年に死ぬと、224年には広陵の泗口に行幸して孫権が徐盛の策で長大な防衛線を張っているのを確認する。225年には蒋済の反対にも関わらず大船団を率いて出征するが、長江が凍っていたので撤収した。

 226年、曹丕が病死した。その喪中に乗じて呉は魏の石陽及び襄陽へと侵攻した。


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