04.魏への降伏
215年以降、荊州東部と関羽の駐留する西部の境には緩衝地帯が置かれたが、呂岱伝によればしばしば両者の間に間接的な衝突があった。小競り合いは魯粛の仲裁のお陰で深刻化しなかった。
魯粛は217年か218年に死んだ。彼の死によって荊州国境の紛争を小規模のまま押さえ込むことが出来なくなったし、また魏への敵対という方針も薄らいだ。
魯粛の次の荊州担当には叩き上げの武官の呂蒙が選ばれた。呂蒙は蕲春郡の尋陽、江夏郡の陽新に加えて魯粛の封土だった漢昌郡の四県が与えられる。いずれも国境付近の封土だった。当時の武官たちの封土はみな同様のようで、同様に蒋欽が208年より荊州南部国境付近に、呂範が長江沿い一帯に、甘寧が江夏郡の国境辺りに封土を得ている。
また孫権の甥で孫静系宗族家長の孫皎には江夏郡に封土が与えられ、孫河の子の孫韶も揚州長江沿いに封土が与えられている。彼らは孫策政権の頃から独立した兵力を保有していた。
216年に曹操の侵攻で始まった濡須口の戦いは、217年2月に孫権の撤退と曹操陣営における疫病の流行で終わった。
孫権は217年春に魏への降伏の使者として徐詳を送った。偽って降伏したという話もあるがどちらにしても同じ事なので重要ではない。全面的な降伏ではなく、諸侯として臣従する形式をとった。
魏への降伏後には通婚が行われる。貢物も連年贈るようになり、互いの使者が行き交った。魏は人質を度々要求したが、孫権は拒否し続けた。
先に呉が奪ってきた皖などの領地はそのままに呉のものになった。また呉の降伏後の218年に蜀の劉封が魏から奪い、呉の陸遜がさらにそれを奪った荊州北部(房陵郡・南郷郡)は220年までに魏に返還される。
魏の曹丕は長江を境にして荊州を分割した。江南部分はそのまま荊州として孫権を荊州牧に任命し、江北部分を郢州とする。
実利面では魏が譲歩したようにしか見えないが、特別なことではないのであまり気にしない。
219年には関羽討伐が行われる。この頃、関羽が于禁を破った後に曹仁を包囲していた。孫権が魏に関羽討伐への協力を打診すると、曹操は両者を争わせることにした。呂蒙が総司令官になって孫皎が後詰めを担当し、他に蒋欽・陸遜・虞翻・諸葛瑾・潘璋・朱然らが参加する。
陸遜は関羽討伐より対外的な軍事計画に携わった。とはいえ陸遜は宜都郡を落とした後はすぐに宜都太守に遷り、周辺地域の支配権の確立と関羽に対する退路の遮断を担当する。陸遜の抜擢は兵力を特に多く保有していたからか。
呂蒙、蒋欽、孫皎は戦後間もなく死ぬ。孫皎と蒋欽の兵士は子供の世代に引き継がれたが、呂蒙の兵士については触れられない。
以降、陸遜は朱然とともに荊州に長く駐屯し続ける。彼の一族は呉郡の豪族であって揚州では強い影響力を持っていたが、荊州ではその限りでなかった。それゆえに豪族としての力を発揮できない場だったが、その代わり223年以降は呉における蜀との交渉の全権委任者としての立場が与えられた。
武陵や桂陽での反乱は記録されるが、零陵や長江領域は安定していたようだ。関羽を打ち破って荊州西部が呉の領土になった後、多くの武官には江北や荊州の最前線ではなく揚州江南の封土が与えられるようになっていた。
陸遜は上表して荊州の諸官職に蜀に移らなかった荊州の名士・豪族たちを採用するよう訴えている。ただ伝に名が残されているのは潘濬程度で、彼は少なくとも229年頃に荊州の行政を担う一人になっていた。
他の四姓のうち陸績は交州で軍務に就いて亡くなり、朱桓と顧雍は内地の軍中にあり、張温だけが都にいた。張温は最も高位の人事官である選曹尚書の官位につく。
彼ら四姓の庇護者は孫策政権時代から呉郡太守として勤めていた朱治で、四姓の輩や子弟はみな呉郡の役所に勤めていた。朱桓とは同じ朱姓だが、こちらは丹楊出身。朱然と同族になる。張温は呉郡や丹楊出身の人材をここから推挙し、都合の良い役職に宛がうようになった。
221年以降、張温は人事部門から外されたが、彼の任命した部下とともに派閥を作った。
関羽討伐後、武陵蛮の住む武陵には呂岱が駐屯地の江夏から派遣された。武陵から南進すれば交州に行き着く。当時は交州のうち鬱林、蒼梧、南海の三郡は呉の直接統治下に有り、合浦、交阯、九真、日南は士氏の影響下にあった。海南島や雷州の辺りはまた別になる。
当時、士氏の士燮は益州郡の雍闓に働きかけ、蜀からの離反と呉への帰属を促している。雍闓は蜀が任じた益州太守を殺して呉に属すが、蜀と呉の対立が終わった後に切り捨てられることになる。
220年、中央に召された歩隲に代わって呂岱が交州刺史となる。そして呂岱によって合浦の一部が高涼郡として分割され、当地の有力者に委任された。反乱者たちの多い郡だったという。
歩隲の転任の理由には、当時彼の交州における勢力が大きくなっていたことが挙げられるだろうか。歩隲は1万人の兵力兼労働力と共に帰還し、改めて長沙郡に赴任した。陸績が交州で任務を果たせず亡くなったのに対し、歩隲が成果を挙げたことは彼の威勢を高めることにも繋がった。
後に孫権の皇后となる歩夫人の扱いはこのときから高くなり始める。ただ当時は陸氏の一族と関係のある徐夫人を皇后にすべきだという意見の方が強かった。
一方、江北では魏への降伏の後より撤兵作業が進められていた。呉では関羽討伐の軍功において武官の多くが最前線の封土を与えられるではなく、封爵されるようになる。爵位名からして揚州内地に封土が改封されたのだろう。
魏では南方の備えだった張遼が陳郡に返されている。しかし両軍共に撤兵は十分に行われてはいなかったようで、ただ曹操と孫権の講和条約のみが両者の対決を避けさせていた。
220年に入って曹操が死ぬと、両国は再び紛争状態に立ち戻る。魏の曹休は、呉の軍勢が江北の歴陽に駐屯した際に攻撃を仕掛けた。また少数の偵察部隊を派遣して横江から長江を渡り、呉の守備隊と小競り合いとなった。一方で呉は軍勢を派遣して襄陽を奪うが、豫州牧の賈逵が十分な備えをしていたため豫州までは侵犯しなかった。
また同年秋ごろに、魏に属していた夷王の梅敷が1万戸を率いて呉に降伏したという。三国志に梅姓は少ない。江夏辺りの異民族の首領に梅頥がいる。廬江の梅成は陳蘭らと共に異民族を引き入れたというし、この辺りの異民族の関係者であって、魏や呉に仕えたり離反したりを繰り返していたのだろう。後々には梅敷は再び呉から離反したようだ。
襄陽は曹仁に攻め落とされ、横江では呉の軍勢に多数の死傷者が出る。歴陽は曹休が攻略し、さらに長江を渡って蕪湖にある数千の陣営を焼いたという。
孫権は本格的な戦争になることを避けるために釈明の文章を送り、7月には貢物を贈った。8月には再び魏の使者が往来する。
221年4月、孫権は江夏郡の鄂に都を移し武昌と改称し、また周辺の五つの県と合わせて武昌郡とした。いずれも元々武官の封邑であり、要害の地勢のために軍事的に有用でありつつも地味の悪い土地だった。
7月に劉備が荊州への侵攻を開始した後、8月に入って孫権は武昌で城壁の建造を始めた。また魏との和平を維持するために于禁を魏へと送り返し、孫権は対蜀戦に注力する。