03.呉の拡大
赤壁の戦いの後、後詰めだった曹仁が江陵から撤退して荊州における曹操の影響力が弱体化すると、孫呉は荊州、交州、江北への拡大の時期に入った。
一方、反乱の記録はまだ揚州の内地が不安定だったことを示す。毎年のように起きる反乱は、彼らを鎮圧する武将が私兵と労働力を獲得することを許した。賀斉だけでなく呉郡四姓のうち張允以外も内地の平定を担当していたことがあった。
荊州北部には南陽郡と江夏郡と南郡があり、南部には長沙郡、桂陽郡、零陵郡、武陵郡がある。
このうち南陽郡は全域が江北で、刺史治所があり、劉琮が降伏したときに曹操の手に渡っている。また江夏郡はその一部が曹操の支配域で、太守には文聘が任命されている。
呉の江夏郡と南郡は長江領域にあり、孫権は江夏太守に程普を任命し、南郡太守に周瑜を任命する。南郡のうちの一部が劉備に与えられる。劉備は長江沿いの公安に駐屯し、魏に対する盾としての利用が期待された。
荊州から揚州にかけて流れる長江の水利は、軍事利用という点で有益だった。その一方で魏との国境地帯になったため、流域に住民はあまり定着しなかった。
残る荊州南部の諸郡は、10年ほどの荊州滞在で高い求心力を得ていた劉備に貸し与えられる。劉備は南郡の江北部を関羽に任せて荊州南部の平定に向かうと、武陵太守金旋の抵抗を受けるも、他は難なく投降させた。魯粛が当初荊州の統治を劉備に任せることを提案したのも、荊州における劉備の影響力を鑑みてのことだろうが、反対意見もあった。
呉による荊州統治の困難さは、後々反乱という形で出てくる。
210年に周瑜は死んだ。代わって漢昌太守(長沙の北部を分割して設置。劉備の意向でもあるか)の魯粛が
軍勢を引き継いで漢昌治所の陸口に駐屯し、江夏太守だった程普が南郡太守を引き継いだ。このあたりの国境線の先には、北に襄陽郡(南陽郡南部を分割して設置)、北西に漢中郡、西に巴郡がある。
当時の魏の即応戦力として襄陽郡の襄陽に楽進が駐屯している。211年からは征南将軍曹仁が同郡の樊城に駐屯するが、荊州江北での対応を関羽に任せているのか、孫権はそちらに向けて積極的な攻勢を行おうとはしない。楽進伝によれば、この頃楽進は関羽ら劉備陣営の手勢を散々に打ち破っていたという。
漢中郡には張魯がいて、211年に呂岱が働きかけをしたが上手く行かなかった。
そして巴郡即ち益州への侵攻は、周瑜と甘寧が遠征を薦めていたが、当時は劉備が協力に同意せず実現しなかった。劉備は211年に蜀入りし、益州の劉璋と一旦は協力して曹操と敵対する方針を取った。
交州は今の広東・広西一帯の地域で、廬陵の南に位置する。揚州からだけでなく荊州・益州からの道もあり、中原動乱の避難先の一つとされ、多くの名士が移住している。また許靖のように交州を経由して大回りで蜀入りする者も居た。
呉から交州への最初のアプローチとして、いつ頃かは判らないが孫権の従兄の廬陵太守孫輔が交州刺史に異動している。少なくとも孫権引継ぎ時に廬陵が離反しなかったことから、それ以降のことだろう。孫輔の交州における活動は何も記録されてない。多分名目上のものか、或いは赴任する前に曹操との内通を疑われて幽閉された。
当時交州には朝廷や劉表によって任命された刺史・太守も置かれたままだった。交州の有力な豪族士氏は朝廷によって交州の統治を預けられていたが、一方で劉表の配下が官吏に任命されていた。
晋書地理志によれば203年に張津が交州刺史に任命され、また士燮が交阯太守になっている。当時、刺史治所は蒼梧郡の広信県にあったが、許靖伝によると遅くとも208年までに蒼梧郡で異民族反乱が起こっていて、張津は部下で都督の地位にあった区景に殺された。
新たに劉表の任じた交州刺史は後に蜀漢の高官になる頼恭で、蒼梧太守にも呉巨を任命している。
早くとも208年以降、頼恭と呉巨の間で諍いが起こり、頼恭は荊州へと戻って劉備に属した。
210年、鄱陽太守の歩隲が交州刺史に任命された。
薛綜伝では呉巨が歩隲の赴任を求めたという。にも関わらず歩隲は呉巨と区景を処刑し、豪族士氏の降服を受け入れた。士燮は交阯太守とされ、また士燮の子の士廞が人質として呉に送られた。士廞は後に武昌太守に任じられているが、武昌は221年に設立された郡で、221年から229年まで都が置かれていた場所だから名目的なものだろう。
また刺史治所は蒼梧郡の広信から南海郡の番禺に移された。つまり呉の実質的な支配圏はまだ交州のほんの一部だった。
揚州の江北地域には九江郡と廬江郡があったが、曹操は赤壁の戦い以降、新たに九江郡西部を蕲春郡とした。
九江郡への進出の試みは、208年に合肥城の包囲と、張昭による当塗(匡琦)城への攻撃で始まった。しかしどちらも失敗に終わる。
また209年に廬江郡で起きた陳蘭と雷緒の反乱の際、孫権は韓当に支援をさせようとしたが、魏から張遼・臧覇・李典が派遣されて失敗した。
211年、孫権は張紘の進言を受けて、拠点を呉郡呉県から丹楊郡北部の建業に移した。建業は呉県より長江に近く、魏の合肥城に向けて軍隊を動かすのに便利だった。
徐盛、孫瑜、孫韶が揚州の長江流域の守備に就き、内陸では賀斉らが反乱を抑えていた。徐州への攻勢は確認できない。
212年、曹操は長江沿いの住民を強制移住させようとしたが失敗し、蕲春郡から広陵郡までの数十万人の移住者が江南に入った。曹操が江西の隙地に屯田兵を送り込むと、軍事衝突を警戒して孫権は濡須口に砦を築いた。
212年10月、曹操は呉への侵攻を再開した。この機に乗じて劉備は蜀取りを開始し、呉と蜀の国境線上では小競り合いが起きるようになる。
213年1月に濡須口の戦いがあり、1ヶ月後に曹操は撤収した。そして張遼・楽進・李典が新たに合肥に駐屯した。
214年5月、曹操が江西の皖城に再び屯田兵を送り込もうとすると、孫権は皖城に侵攻した。皖城はかつて廬江太守李術の拠点であり、孫権が201年頃に破って支配下に置いていたが、江北の諸地域同様、赤壁での曹操の進軍過程で曹操の勢力圏内に入っていた。
呂蒙・魯粛・淩統・甘寧らが派遣されて皖城を攻め落とすと、廬江・蘄春・九江の三郡の南部地域──つまり江南への大量移住の後で無人になっていた江西の隙地がそのまま孫権の勢力下に入った。
曹操は皖の陥落後に合肥へと向かったが、孫権は侵攻して来なかった上に荀攸が途上で死んだ。
皖の陥落とほぼ同時期、214年の夏、即ち4-6月頃に劉備は蜀を平定する。孫権は荊州の武陵を除く3郡の返還を求めて、諸葛瑾を使者として派遣した。要求が通らないと、孫権は長沙・零陵・桂陽の3郡の太守を任命し、また呂蒙に2万の兵を率いさせて3郡の奪取を命じた。
長沙太守廖立は真っ先に蜀へと逃亡し、呂蒙が桂陽に進むと桂陽太守も逃亡した。そして呂蒙が零陵に進んだ頃には、公安に戻ってきていた劉備が関羽に益陽への進軍を命じた。
益陽は長沙郡にあり、魯粛が駐屯している。その先に長沙郡の治所臨湘県があるから諸郡の回収を目指したのだろう。
呂蒙は零陵太守郝普を降伏させた後、関羽の動きに応じて益陽へと向かった。
益陽では魯粛が1万の兵を抱えていたが、関羽の率いるのは3万だった。呂蒙の率いる軍勢を魯粛の軍と合わせれば3万になり太刀打ちできる規模になる。
魯粛の軍は資水を隔てて関羽と対峙していたとき、魯粛の傘下にあった甘寧が関羽を浅瀬で阻むことに成功し、戦線を膠着させることが出来た。
そして魯粛が赴き、呂蒙の到着を待たずに関羽との停戦会議が行われた。
このとき孫権自身は赤壁に近い陸口に留まり、魏の動向を窺っていた。当時の曹操は張魯討伐に向かっている筈だから、曹仁や張遼に対する警戒だろう。
ところで南郡の江陵には太守の程普がいた筈だが、江陵のすぐ近くの公安に劉備がいたため対応出来なかった。
215年7月頃、劉備は荊州の分割で講和した。蜀と呉の荊州分割の際、蜀に零陵・武陵・南郡、呉に長沙・(漢昌)・桂陽・江夏を分けた。蜀と呉の領土に配慮した東西分割で、互いの都合による譲歩と合意が透けて見える。
劉備からすれば曹操による漢中の平定いう危難があり、孫権からすれば機会喪失の可能性があった。212年の意趣返しといった所か。
8月、劉備との講和後、曹操の軍勢が帰還するまでの合間に、孫権は軍勢を纏めて合肥へと進軍したが、攻め落とせないまま疫病が流行したため撤退した。