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02.揚州反乱

 孫権にはこれまで孫堅や孫策に仕えた旧臣だけでなく、張昭らによって支配下や近隣の郡県から推挙された豪族の魯粛や、乱を逃れて移住していた諸葛瑾が加わった。そして呉郡呉県の陸遜、顧雍、朱桓、張允──即ち呉郡四姓の豪族もこのとき傘下に加わる。四姓はみな相当の家系を標榜する名門だったが、前項に書いたように確実なのは陸氏だけだった。

 四姓はこれまで呉郡の名門として寒門の孫堅とは一線を引いていた。彼らの気が変わったのは孫策の死であり、一方で孫権には彼らの助力を得る必要があった。


 呉郡四姓の名門たちのうち張允と陸遜は人事担当になり、顧雍は孫権の代理として会稽太守を代行し、朱桓は孫権の傍仕えになる。いずれも特別に高い地位ではない。高給の会稽太守にしても東西南の地域には都尉が置かれていたから北部の治安と人材推挙を担当していた。

 人事権は将来的に四姓の豪族がその勢力を広げるのに役立った。当初は不安定な郡県の豪族たちを懐柔しようと隗より始めたのだろう。



 200年、最初の反乱は廬江郡で起きる。かつて孫策が任じた廬江太守李術は、曹操の派遣した揚州刺史厳象を殺して自立し、江南からの亡命者を受け入れ始めた。

 李術は豫州の汝南郡出身と言う。199年に廬江太守劉勲を追い出した後に任命したのだろう。反乱の本意は判らない。これを受けて恐らく亡命者だった元の袁術の武将陳蘭や雷薄が廬江で暴れるようになる。

 当時、曹操は袁紹と官渡で戦っている最中だったにも拘らず、孫権と李術はそれぞれ曹操に訴え出た。一応199年から200年にかけて廬江の北にある汝南郡では袁紹に味方する劉備が活動していたが、多分既に曹仁によって追い払われていた。

 曹操は李術を救援することはなかったが、劉馥を送り、追って揚州刺史に任じた。そして劉馥は元々の刺史治所歴陽ではなく、不落の合肥に治所を置いて陳蘭や雷薄を懐柔した。

 一方で孫権によって201年までに李術は滅ぼされ、孫権は新たに孫邵または孫河を廬江太守に任じる。


 曹操が孫権と元々縁故のあった厳象の死後に、これまで懐柔に成果を挙げてきた劉馥を送ったことには、河北の平定を終えるまで孫権との敵対を避けようとする意図が見える。周瑜伝に引く江表伝では202年に曹操が人質を要求しているが、結局出さずに事なきを得た。


 203年以降、孫権は離反した郡県の回収と治安の回復を優先する。それは張昭の意向と一致していた。江夏郡はそのうちの一つで、最優先にされた。

 江夏郡は荊州の郡で、江夏黄氏の黄祖が劉表によって江夏太守に任命されていた。

 江夏黄氏には後漢書に尚書令黄香、三公を歴任した黄瓊の親子、黄瓊の孫で董卓のために獄死した太尉黄琬がいる。黄祖自身だけでなく息子の黄射が南陽郡と江夏郡の間に置かれた章陵郡の太守になっているから、この辺りに影響力を持っていたように見える。

 197年に孫策が拡張主義に走ったとき、周瑜を江夏太守に任命している。周瑜は孫策が死ぬまで江夏郡に留まっていたが、200年に呉郡へと撤収した。黄祖はこのときに江夏郡を取り返したのだろう。

 


 203年、孫権が江夏に遠征した矢先に、豫章郡と会稽郡南部の東治で反乱が起きた。

 孫権は江夏の戦場で淩操を失いつつも水上戦で黄祖・甘寧に勝利するが、城攻めをせずに引き返し、豫章郡の反乱の鎮圧へと向かった。また会稽郡南部の反乱は、会稽南部都尉の賀斉が鎮圧した。


 206年、丹陽太守孫瑜は、周瑜と淩統の協力を得て、麻砦と保砦に篭った異民族の反乱軍を撃破することになった。

 丹楊郡では後に問題ある地域を分割して新都郡を建てられるので、両砦はその辺りに有ったのだろう。丹楊は、204年に以前の丹楊太守孫翊が部下に殺されたり、205年に賀斉が上饒県(丹陽郡)の討伐をしているように不穏な状況にあった。


 一方、豫章郡は江夏郡と接していて、劉表の甥の劉磐による侵攻を抑えるために太史慈が海昏県に置かれていた。その太史慈が206年に死ぬ。

 同年、黄祖は武将の鄧龍率いる軍勢を豫章郡北部の柴桑に送り込んだ。地図を見ると柴桑は海昏の真北にあり、数十キロの距離がある。即応できそうな位置ではあるが、太史慈は晩年故に動けなかった。

 周瑜は麻砦を攻略すると、残す保砦の攻略を淩統に任せて鄧龍の迎撃に向かった。淩統伝では砦攻略に孫権が参加しているが、周瑜伝と孫瑜伝では触れられていない。

 以降、太史慈に代わって程普が豫章の防備に就いた。


 翌年、207年には江夏の黄祖に逆襲し、江夏の住民を拉致した。拉致民は本国に強制移住させて屯田をさせる労働力となる。呉の屯田については補給と輜重の話で少し触れた。

 この頃には陸遜が人事担当から移って呉郡の海昌県で屯田都尉に就いていたかもしれない。ただ孫策が存命だった頃にも廬江から住民を呉に移住させていたから、呉において屯田担当の官吏自体はもう少し前からあったのだろう。



 孫権は208年初頭の江夏遠征で黄祖を討って江夏郡を獲得した。ただ遠征より少し前に、江夏郡の北部を魏の張遼が制圧している。その辺りが黄祖の支配域に入っているかは判らないが。

 この年も丹楊で反乱が起きている。賀斉と蒋欽が反乱を鎮圧し、丹楊郡の南部を新都郡として分割して賀斉を新都太守にした。今後も呉では郡の分割が行われていく。その対象は主に辺境だから、人口の増減に合わせてのことというより武官の管轄区域として分けているように見える。

 周瑜が江夏遠征の後、鄱陽に赴いたのは、前年に鎮圧された彭虎の反乱の後処理だろうか。鄱陽は210年になって豫章郡から分割されて鄱陽郡となるが、ここは以降に主だった反乱地域となる。また鄱陽(豫章)における彭姓の反乱者には後々彭材や彭綺、彭旦が登場し、彭綺は魏志の方でも触れられている。有力者の一族だったのだろう。


 江夏での勝利の約半年後に荊州は侵攻され、劉表の子の劉琮は降伏した。逃れてきた劉備は江夏郡の夏口に留まり、諸葛亮を使者として派遣し、魯粛の強い主張か、もしくは孫権の意向によって曹操に対する抗戦が決定する。そして荊州を巡る赤壁の戦いがあり、続いて江北を巡って江陵の戦いが起きた。

 揚州刺史の劉馥はこの年に死んだ。そのため江北の争いの最中、かつて彼が懐柔した雷緒と陳蘭は曹操に反逆した。

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