01.難民たちの政権
かつて呉越係争の地で、楚の侵攻を受けて春申君の知行地になった呉だが、秦の統一後は会稽郡が設置され、郡県制度下に置かれる。会稽の入り江は有用な港で、外洋に出るときは大抵ここが利用された。ただ外洋貿易はあまり重要ではなかった。
項羽の叔父項梁は会稽郡で挙兵した。戦国七雄の王たちは秦の俘虜にされたが、当時の名族や傍系の王族は諸国に残っていて、その影響力は傀儡として利用できる程度に大きかった。漢代に入るとそんな有力豪族も関中に送られることになる。楚の三氏や田斉王家の傍系は長安やその近辺で暮らし、その一部が漢代に名を残した。
漢代の江東には劉姓の王である劉濞が呉王に据えられると、豫章の銅鉱山を利用した貨幣鋳造と塩造によって、民衆への賦税が必要ないほど財貨を蓄える。ここからは商業の発展とその利潤の大きさが窺える。劉濞は呉楚七国の乱を引き起こして殺された。
武帝の時代に入ると貨幣鋳造と塩の売買は国の管理下で行われるようになったが、塩の売買を監督する塩官は後漢の和帝の頃に廃止された。
後漢書には陸遜と周瑜の祖先が登場する。独行列伝の陸続の項には、光武帝の頃に陸続の祖父陸閎が尚書令になったとある。また周瑜の曽祖父周栄の伝もある。周栄は永寧年間(120-121)に尚書郎になり、その後代々高官に就いた。ほかに賀斉や鍾離牧の祖先の名が見える。
呉郡の陸氏だけは非常に名の有る家柄で、ほかは精々数代の家系だろうか。霊帝末期において、周瑜の家は裕福だったし魯粛や全柔なども富豪だった。孫堅の妻の呉夫人も同様だろう。
魯粛は6000斛の米(100t位か)を蔵に備えていたという。鍾離牧伝に20畝(1畝=500m^2程度)に稲を植えて60斛の米を得たとあるから、魯粛は田地2000畝(1km^2)ほどを擁していた計算になる。
全柔も数千斛の米を船に積んで、息子にあまり入用でない物を買いに行かせた。
後漢の豪族は塩造や銅鉱の利益ではなく田地を買い集めて広げることで富裕になった。
2年と140年に行われた人口調査を見ると、揚州で人口が大幅に増加していて、資料は江南豪族による溜池の開発を指摘する。
一方、江北の九江郡と廬江郡は減少している。こちらは赤眉から統一戦争の頃に騒乱に巻き込まれたほか、元々廬江舒県は漢代から士人を輩出していたし、九江には刺史の治所寿春があり、早期に発展していて伸び代が無かったのだろうか。
さて、孫堅は代々県の地方官の家系で、挙兵したときには親戚や知り合いの小役人が側近に就いた。小役人たちは様々な地方の出で、孫堅含め取り立てて書くことがない寒門出身者だった。
孫堅は184年の黄巾反乱で貢献して長沙太守になる。近隣の郡の太守からも信任を得たようで、江夏太守劉祥と交友があった。
190年、董卓に対する挙兵のとき、孫堅は袁術の上表で豫州刺史に任じられる。
この頃、朝廷によって任じられていた豫州刺史は孔伷だったが、既にその任には就いていなかったようだ。
孔伷は董卓の人事で任用された名士で、反董卓連合に加わってから、陳温が没するより先(193年以前)に死んでいた。190年に死んだのだろう。
その後、周昂は孫堅から刺史の印綬を奪って兄弟の周喁に与えた。周昂兄弟は会稽出身の名士で、周瑜とは別の氏族になる。当時は曹操や袁紹と協力関係にあった。
191年、孫堅は陽人の戦いで勝利して洛陽を制圧した。そして袁術伝によれば袁紹の差し向けた周昂が孫堅の陣地を奪ったため、孫堅は呉に撤収する。
この2-3年の間に江夏太守劉祥が南陽の民衆によって殺された。またこの少し前に荊州刺史と南陽太守が孫堅に殺されている。191年頃には反董卓連合から離脱した袁術が南陽に拠点を置き、新しい荊州刺史として劉表も大体同じ頃に刺史治所の襄陽に赴任した。
192年、孫堅は劉表の支持者だった江夏郡の黄祖を撃退して襄陽を包囲するも戦死し、孫策が後を継いだ。
孫策は舒県(廬江郡)、曲阿(呉郡)、江都(広陵郡)、曲阿と渡り、193年には丹楊郡治所の宛陵県で丹楊太守呉景の所に落ち着いた。194年には家族を江都の名士張紘の元に預けて九江郡寿春の袁術の傘下に入り、これまで後方に置いていた孫静らを呼び寄せ、袁術から父の残した兵士を受け取った。そして朝廷によって揚州刺史として赴任してきた劉繇と、揚州を巡って争うようになる。
劉繇は呉景から丹楊郡を奪い取り、長江を挟んで袁術と睨みあっていた。荊州の劉表はちょうど益州の劉璋から攻撃を受けていたようで、袁術にとって西方に難は無かった。
193年辺りから中原の人々が江南に大挙して移住してきた。全柔家には数百家が来たとある。この年は各地で群雄たちの争いが激化した頃であり、その翌年には飢饉が発生していた。
この頃に移住した士人は三国志に書かれているだけでも20名を超える。士人たちは貧困に陥り、致し方なく劉繇、全琮、陸瑁、王朗らの庇護下に入ったが、落ち着いた頃になって中原へと舞い戻ってしまう者達も少なくなかった。
江東や荊州へと移ったのは主に徐州や豫州の人々で、関中の人々は益州に移っている。193年の徐州や豫州となると曹操による徐州戦役と封丘の戦いがちょうど一致する。
徐州の陶謙は194年に死んだ。陶謙は名士たちを冷遇したというが、実際、当時の徐州の名士たちは張昭や趙昱のように推挙されても任官を拒んでいたのだろう。
孫策陣営の主要な側近も江東に移住してきた名士だった。
まだ現地の豪族との交流は深くなく、袁術の指示で陸氏の廬江太守陸康を攻撃している。廬江の郡治は舒県だから周瑜一族の勢力圏の上に、董卓の乱の際に孫策たちはここに避難していた筈だが、まだ孫氏は多くの江南豪族たちにとって寒門扱いだった。陸康は長く抵抗を続けたが、城が落とされて間もなく病死した。陸氏一族の出仕は孫策死後のことになる。
にも関わらず豪族の周瑜と全柔は早期に孫策傘下に加わっていた。
周瑜の一族は元々は袁術に属していて、194年に孫策が長江を渡ろうとしたときから孫策陣営に協力していた。そして197年頃になってから鞍替えして孫策陣営に属した。彼と同様の立場の名士や豪族も居ただろう。
全柔の出身は呉郡の銭唐県であり、孫堅が170年代の海賊討伐で最初に名を上げた場所で、また孫堅の挙兵の日までその妻呉氏の家があった。195-196年頃に孫策が劉繇を撃退して呉郡・丹楊郡を手中に入れた後、全柔の家を頼っていた徐州の名士たちを取り込むことが出来た。そして内政から軍略まで多くのことを彼らに委任し、戦場に於いて孫策自身は陣頭に立つことを好んだ。
197年になると劉繇と王朗の陣営は壊滅し、朝廷の任命によって孫策は会稽太守になる。孫策はここで袁術との協力関係を絶ち、曹操と縁戚関係になった。
袁術は帝号を称すが、孫策だけでなく、徐州を劉備から奪い取った呂布もこれを機に袁術の元から去ってしまう。
ちょうど献帝の移住に関して袁紹と曹操の亀裂も生まれるが、まだ公孫瓚が健在だったため直接的な衝突にはならない。そしてたまたま曹操に対して張繍が叛逆するも、張繍は袁術ではなく劉表を頼った。
孫策は袁術に対して攻撃を開始し、丹楊太守袁胤を破る。しかし袁術の拠点寿春への途上で、朝廷によって呉郡太守に任じられていた陳瑀が孫策へ攻撃を仕掛けた。
陳瑀は下邳の豪族陳氏の一員だった。陳瑀はかつて袁術によって揚州刺史に任命されていたが、193年に離反して下邳へと戻る。
193年の下邳は徐州刺史陶謙と結託する闕宣が拠点にしていて、その翌年には曹操が陶謙を撃破して徐州虐殺が起きた。195年には劉備が陶謙に代わり、196年には呂布の拠点となり、198年になると曹操に攻略された。陳瑀は同族陳登と同様に、これらの派閥を移り渡っていたのだろう。
諸勢力の残党や養われていた名士たちの多くは、孫策に合流するか北方に逃れた。しかし一部は陳瑀の立場に立って孫策に敵対した。198年の陳瑀は曹操の支持者だろうから、孫策と曹操との縁戚関係は全く機能していなかったように見える。
結果的に寿春は曹操の手に落ち、劉勲率いる袁術残党の多くは曹操軍に吸収された。
曹操と袁紹の対立は199年から直接対決へと向かい出していた。
当時の孫策は厳虎のような地方豪族を組み入れた陳瑀ら敵対勢力を破って勢力を広げ、呉郡と会稽郡だけでなく丹楊郡、豫章郡、江夏郡、盧陵郡、鄱陽郡、廬江郡──つまり九江郡を除く揚州のほぼ全域に進出し、郡県の官吏を自身の支持者に挿げ替えた。
199年、劉備が曹操から離反し、沛と下邳を拠点にして抵抗を開始した。翌年になって孫策は許への侵攻か、或いは広陵郡への進出を図り、下邳陳氏の広陵太守陳登と戦いになる。その途中、孫策は取るに足らない刺客によって暗殺された。
孫策の揚州覇権は親族や古参の臣下のお陰で維持されたが、江夏郡、鄱陽郡、廬江郡の三郡は失落し、丹陽郡や豫章郡も不安定化した。