9.その誇り、捨てたらなにも残らない
『家同士の思惑なんざ関係ねぇ。俺は俺の価値観が理解できる女がいい。あんたじゃ無理だ。……はっきり言う。お飾りの正妻すら、俺には必要ない。だからあんたも、金輪際俺と縁を持とうだなどと考えるな』
そんな言葉を突きつけた時、高級振袖を身に着けていたお嬢様はどんな顔をしていただろうか。
ショックを受けていたか、それとも怒っていたか。
それすら、もう思い出せない。
なのに未だに、掛けられた言葉だけが時折思い出される。
『残念ですわ。西園寺様とご縁を結べること、光栄に思っておりましたのに』
(どうして今更、こんなことを思い出す……。あんなつまらない女、何をしてても関係ないはずだろうが)
その日、西園寺恭一は珍しく一人でぶらぶら買い物に出ていた。
普段なら薔子を連れて出るか、もしくは部下に買いに行かせるのだが、この日はたまたま時間があったためなら外に出るかという単なる気まぐれだった。
行きつけのホテルに入り、そこの宝飾店で薔子に似合いそうな金色の薔薇細工を見つけ、買ってやろうかと目を細める。
彼らは大体5人で一緒に行動しているが、薔子がいなければただの似たもの同士……同属嫌悪で潰しあってもいいほどのギスギスした関係だ。
だから行きがかり上薔子を平等にシェアした形になってはいるが、実際は独占したくてたまらないし、このように彼女に似合うプレゼントを贈って気を惹こうとすることもある。
薔子に出会う前の彼ならきっと、一人の女に全てを賭けようとする自分自身に嫌悪の目を向けたかもしれない。
阿呆かお前は、独占できない女をいつまでも囲い込んでどうする、不毛なだけだろ、と。
彼は幼い頃から酷く冷めた子供だった。
周囲は彼に愛情を示してくれていたが、それは西園寺の御曹司としての立場ありきのものであって、彼自身に向けられたものではない。
それを幼心に察した彼は、たくみに周囲と距離を置きながら『いつかきっと、あいつらを見返してやる』と心に誓ってきた。
金と地位に目がくらんでいる周囲を常に見下し、寄ってくる女達を適当に追い払って、さすがは御曹司だ、さすがは西園寺様だと言われるように勉学に励み、常にトップの成績を保ち、それが当たり前だという顔でまるで帝王のように悠然と構えていた。
そんな彼が、ふとしたきっかけで母校に立ち寄り、そこで出会った高梨薔子という女生徒に強く心惹かれたのは、もはや運命だったのかもしれない。
彼女の奏でるヴァイオリンの調べは物悲しく、それでいて官能的で、彼の心を無性にかき乱した。
話してみると薔子は自分と良く似た価値観を持っており、酷く愛情に飢えていた。
かといって簡単に与えられる愛情を甘受するでもなく、周囲に頼らず一人で生き抜いていこうとする姿に彼は己の理想を見た。
どうしようかと迷いつつ、まぁもう少し他も見てみるかと一度店を出た彼は、ふとラウンジに目をやった。
そこではどこかで見覚えのある振袖姿の女性が、スーツ姿の男性と談笑している。
どこで見たんだったか、と西園寺がすぐに思い出せずに首を捻っていると、視線を感じたのか先方の男性が向かいに座った女性に、西園寺がいる方を手で指し示しながら何か言っていた。
見られているようだけど知り合い?というような言葉なのだろう。
女性は身体ごと振り返り、西園寺にぴたりと視線を合わせてから数秒静止した後、また視線を男性の方に戻す。
いいえ、存じません。
そんな言葉が聞こえるようだ。
そこでようやく、彼はあの振袖姿の女性がかつて自分が一方的に婚約破棄を告げた、名家のご令嬢だったことを思い出した。
かつて、と言ってもそう昔のことではない。
その頃彼は既に薔子と再会しており、同じ価値観を持つ者達にも出会っていたこともあり、お飾りの正妻なんて必要ない、金輪際俺に関わるなと言い置いて関係を絶った相手だ。
あれはただ、価値のありそうな男と縁を結びたいだけの、ただのつまらない女だった。
そんな女に仮にも妻の座を与えたくなくて、婚約者面をされるのも不愉快で、だからさっさと捨ててやった。
なのに。
なのにどうして、あんな……『つまらない男』を見るような目で見られなければならないのか。
(ああ、そうだ思い出した……あの時、あの女が浮かべていたのは)
『残念ですわ。西園寺様とご縁を結べるものと、光栄に思っておりましたのに』
西園寺恭一に対する恋情でも、ましてや愛情や未練でもない。
怒りも悲しみも、落胆も執着もそこにはない。
ただ、残念な男に向けるような、憐憫の色があっただけだった。
ホテルの従業員に聞いたところ、あの二人は結婚間近で現在式の準備を進めているのだという。
あの男は西園寺でも聞いたことがあるようなそこそこの家柄の出だが、次男であったため彼女の家に婿入りするのだとか。
お幸せそうなカップルですね、と何も知らないホテルマンがそう言う。
西園寺もそれに、そうだなと答えるしかできなかった。
(どうして俺が、あの程度の女に憐憫の目を向けられなきゃならないんだ)
馬鹿にしやがって、と彼は小さく悪態をつく。
確かに、このところ彼の周囲はめまぐるしく変化しており、これまで通りの順風満帆な生活を送れなくなってきている。
最年少の専務取締役として就任したはいいが、本社の老害ども……古株の取締役達からの風当たりは思った以上に強く、だが専務としての権限は与えられていたので幾度か大きなプロジェクトを立ち上げ、ことごとく成功させてきた。
個人的感情を差し引いても欲しいと思えた高梨薔子が入社したことで、彼女が入った営業部は益々活気付いて業績もうなぎのぼりに急上昇していく。
彼女が入ってからは、専務としてよりむしろ営業部の統括責任者としての仕事ばかりこなしてきたが、それもひいては会社の業績に繋がるのだからと自由にやらせてもらっていた。
周囲が彼らにいい顔をしていない、ということくらいとっくに気づいていた。
だが滑川も言っていたように『休憩時間に何をしていようと自由』だと割り切り、自分達は何も人に恥じるようなことはしていない、これは不安に陥った彼女を落ち着かせるためなんだと自分達の行いを正当化してきたのだ。
何も言われないのは当然だ、それだけの実績を自分達は出しているのだから。
と、高を括っていたところに舞い込んだ『新規プロジェクト』……それが会社側が彼らを囲い込み、隔離するための罠だったと気づかされた時、西園寺はこの会社からの独立を決意した。
元々そうするための準備は行ってきた、後は決断するだけだ。
窮屈な会社の檻にいつまでも囚われているのは、彼らの性に合わない。
ならばこの『プロジェクト』という手土産を持って、自分達を切り捨てたあの会社を見返してやればいい。
精々、恩を売りつけて悔しがらせてやればいい。
そう思って意気揚々と開発に取り組んだシミュレーションゲームは、だがしかし結果的に大損を出した。
売れなかった、というわけではない。
前評判やその美麗なムービーなどを気に入って購入した客から、次々とクレームと返品依頼が舞い込み始めたのだ。
これは予定外だった、予測すらしていなかった。
彼らは最高のチームで、最高のものを作り上げた、その自信があって販売に踏み切ったというのに。
そしてそのダメージは思わぬところへも飛び火した。
元データの提供を行ったとしてゲームのオープニングに協力企業として名を挙げた『Sai-Sports』が、そのゲームで被った損害を理由に筆頭株主から上層部の解任を要求されたというのだ。
公にはされなかったが、そこには当然会社を退社したとはいえまだ『外部取締役』として名を残していた西園寺恭一の名もあったという。
それを知らされてもなお、西園寺は己が負けたなどとは思わなかった。
切りたきゃ切ればいい、一度の失敗でぎゃあぎゃあわめくようなスポンサーはいらない、そう高飛車に構えていた。
イライラした気持ちに囚われかけて、彼はそれを振り払い気持ちを切り替えるためにも先ほどの店に戻り、薔薇の細工物を買おうとカードを差し出した。
が、
「申し訳ありません、西園寺様。こちらのカードはお使いになれません」
「どういうことだ?残高ならあったはずだが」
「カード会社の方で使用停止にされておりますので、今一度ご確認ください」
「チッ」
どういうことだ、と西園寺は実家に電話をかけた。
このカードは西園寺恭一個人のものだが、残高設定はあってないようなもので個人としての信用ありきで使えるという特別なものである。
それを使用停止にされるということは、西園寺個人が心当たりがない以上実家が関わっているとしか考えられないからだ。
どれだけ電話をコールしても、誰も出ない。
普段なら大勢いるお手伝いの誰かが電話を取るのだが、皆留守にしているということだろうか。
否、そんなことはありえない。
使用人の教育はどうなってるんだ、と彼は怒り狂いながらホテルを飛び出して車を駆り、実家へと向かった。
「帰って来たか、親不孝者が」
「どういうことですか、お父さん。カードは使えない、使用人は誰も出てこない、家財はなくなってる、俺が置いていた車すらないなんて。まさかギャンブルにでも手を出して……」
「お前がそれを言うのですか、この馬鹿息子!お前が……お前が悪いのですよ」
「な、っ」
『Sai-Sports』は元々西園寺家が出資して初めた会社だった。
その関係で西園寺家の縁者が何人も入社して要職についていたのだが、最初はそれなりに真面目に仕事に取り組んでいた彼らも、西園寺家の御曹司である恭一が専務取締役という役職にいきなりついたことで、自分は西園寺の縁者だ、つまり専務の後ろ盾があるんだとありもしない権威を振りかざしはじめたのだという。
そして、悲劇は起こった。
恭一が好き勝手やってきたことで、耐え切れなくなった会社側が彼ら問題児を隔離した。
そしてそれに腹を立てた恭一が仲間達と独立起業したこと、そしてその会社で生産したゲームが大損を出したこと、何より彼らが社内で堂々と行ってきた『セクハラ』が問題視され、筆頭株主が上層部の解任を要求してきたのだ。
と、ここまでは恭一も知っている情報だ。
だがここから先が問題だった。
『Sai-Sports』に勤めていた西園寺一族の者は全て解任、ということになった。
加えて株主としてそれなりの自社株を所持していた者達が、解任されて収入源を断たれたことで次々と株を売却し始め、それを筆頭株主が経営する会社が買い占めていった。
つまり事実上、『Sai-Sports』の実権は筆頭株主の会社が握っているということになる。
更に、ネット上に拡散された『Sai-Sports』内で行われていた淫猥行為というスキャンダルは西園寺家をも揺るがし、『Sai-Sports』以外に経営に関わっていた会社は傾き、西園寺という名も社交界で嘲笑されるようになり、個人としても取引に応じてくれるところが減り始め、そして。
「古くからお付き合いのある家からも、今後のお付き合いを断られました。これまで通りの生活はもう送れません。この家も売りに出してありますから、お前が戻る場所はもうどこにもないということです。お前が西園寺の名前で購入したものは全て抵当に入っていますからね。マンションも、その車も、手放してもらいます。最低限必要なものだけ持って、出てお行きなさい」
「チッ、んだよそれ……」
西園寺家は、その殆どの私財を売りに出さねばならないほどに切迫してしまった。
それ故、あの一等地にあったオフィスビルも手放し、備品も全て引き払ったのだという。
『お前が悪いのですよ』
そんな母の声を背に、彼は家を出た。
もう二度と戻ることはない、変わり果てた実家を。
そして、無意識に車に乗ろうとしてそれはもう彼のものではないと思い出し、舌打ちして背を向ける。
駅へ向かおうとして、駅の場所がどこにあるのかわからなくなり、スマホで検索をかける。
やっとのことで駅までたどり着いたが、切符の買い方がわからずまたしてもスマホで検索。
どうにか切符を買えたものの、帰宅ラッシュ時であったためかホームに弾き出されてしまう。
「なにしやがる!俺を誰だと思ってんだ、あぁ?」
「てかお前、ナニサマだよ?」
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべつつ、これまで彼が散々見下し続けてきた普通のサラリーマンが、扉の向こう側に消える。
バーカ、と最後に捨て台詞のように吐かれた言葉に、周囲の無関係な者達の間でもくすくすと笑いが漏れ……西園寺は唇を噛み締めた。
どうしてこんな屈辱を味合わなきゃならない、どうしてこんなことになった?
やっとの思いで乗り込めた電車に揺られながら、彼は考える。
順風満帆だった人生、どこが分岐点だったのか、と。
どうにかマンションの前まで辿りついた彼は、抵当に入っていそうなものを全部置いて本当に必要最低限……数日分の着替えと洗面道具、財布に入れていた現金などを持って、翌朝早くに家を出た。
貴重品は金庫に入れてきた、カードは恐らくもう止められているだろうから使えない、かろうじて金目のものと言えるのは身につけてきたブランドものの洋服くらいだ。
それ以外の安物はそもそも興味がなかったため、持っていないのだ。
途中通りかかった電気店、ディスプレイされているテレビの何台かは最近急成長を遂げたIT企業の社長令嬢とその婿の結婚のニュースを映し出していた。
そのIT企業はつい先日、社長が筆頭株主を務める某スポーツ用品メーカーとの提携を発表し、話題を呼んだ会社だ。
(……そういう、ことかよ……)
もう、どうでも良かった。
どうにでもなれ、と思った。
そうしてふらりと家を出た彼が向かった先は…………。
「なぁ西園寺、そろそろ出てけぇへんか?」
「……お前まで俺に出て行けというのか」
「や、あのな?俺んちでよければおってくれてかまへんねん。けどな…………せめて押入れから出てくれへんか?」
自称倹約家である滑川の住む、2DKのアパート。
その狭い押入れに無理やり入り込み、彼は膝を抱えていた。
「…………今の俺には、ここがお似合いだぜ……」
(これアカンやつや……すっかり惨めな自分に浸りきっとる……)
どうしたらいいか、じっくり考えるのも煩わしくなった滑川は、他の仲間に連絡を取った。
その1時間後、更なる問題を抱え込むことになるとは思いもせずに。
西園寺、没落からのヒッキーED。
最後の最後までシリアスだといつから誤解していた?