8.誕生日、君の笑顔が愛おしい
息抜きにほのぼの誕生日編。
かーらーの、急展開。
「カーシュ、たんじょうび、おめでとー!」
玄関を開けるなり、とてとてと走って突撃してきた小さな『彼氏』は、香澄の足元にぎゅうっと抱きついて離れない。
(こ、これは動けない……っ)
歩こうとすれば小さな身体を蹴ってしまう、かといってこのままじっとしているのも拷問のようで辛い。
ケヴィンはそんな香澄の内心などどこ吹く風で、時折すりすりと太腿あたりに頬ずりしたりしてくるものだから、始末に終えない。
彼女を純粋に慕ってくれている上での行動だとわかっているから尚更だ。
「ケヴィン君、ちょっとだけ退いてくれない、かな?」
「やー。カーシュ、まだかえっちゃやーなの!」
「帰らないから!まだ来てすぐだから帰らないから、ね?」
「こーら、ケヴィン!お父さんがお風呂入っている間になにフライングしてるの!おめでとーって言うのは皆が集まった後だって言ったでしょ!?」
「しらなーい」
「なんですってぇ?」
こんな時だけ大人びた仕草でとぼけて見せる5歳の幼子、その襟首を捕まえようと腕を伸ばしてくるのが彼の叔母にあたるリリーナ・S・黒崎だ。
彼女の教育モットーは、子供であろうと大人であろうと同じ人間、である。
小さい頃から悪いことは悪いと叱り、いいことはいいと褒め、のびのびと、だが人としての倫理観を持った子に育つようにと日々ケヴィンに接している、のだが。
どうにも父親譲りの暢気でおおらかな気性が受け継がれたらしく、これはダメだと言い聞かせてもすぐその言いつけを破り、へらりと笑って見せるところがケヴィンにはある。
バタバタといつもの追いかけっこを始めた若き叔母と小さな甥を眺めつつ、いい加減入ってもいいのかな?と香澄が周囲をうかがうと、いつからそこにいたのか笑いを堪えながら黒崎が扉の影から現れた。
ずっと見てたのか、と思わず香澄の目がじっとりしたものになる。
「酷いです、止めてくれても良かったのに」
「ああ、すみません。僕は基本的に、ケヴィンの味方ですから。ほら、リリーナがああいう感じでしょう?だから僕は基本放任主義で見守ることにしているんです。さ、どうぞ」
「…………お邪魔します」
まだムッとした表情を隠そうともしない香澄の前に立って歩きながら、黒崎はとうとう堪え切れなかった笑いを声に出し、「失礼ですよ」と不機嫌さ倍増の香澄に注意されている。
「本当にすみません。桐生さんは今日の主役でしたよね」
「そうですけどなにか?」
「そんなに怒らないでください。……ところで今日でおいくつに?」
「……いい加減にしないとセクハラで訴えますよ」
「どこにですか?あぁ、うちのボスならお風呂ですけど、突撃します?」
「しませんっ!」
(もうやだ、この人苦手!!)
彼女の親友リリーナが気の強い迫力美人であるからか、その夫である黒崎は物腰柔らかで何事もなければ終始穏やかである。
ただし、それは表向き。
素顔はかなり意地悪で、時として腹黒、本心を決して見せない策士であると香澄はそう認識している。
仕事上どうしても付き合わなければならない相手、プラス親友の旦那様という関係性がなければ近づきたくない種類の人間であることは間違いない。
どうぞ、と迎え入れられたリビング。
そこには、恐らくケヴィンが頑張って飾り付けしたのだろう、色紙で作ったお花や色とりどりの万国旗が飾ってあり、現在勉強中のひらがなでデカデカと【かすみ だいすき】と書かれた画用紙まで座席においてある。
さすがにこれほどまでの大歓迎とは思っていなかったのか、香澄は唖然としながらリビングをぐるりと見回し、目をぱちぱちと瞬いて驚きを示した。
「…………これはまた……随分とストレートなラブレターですね」
「驚くポイントはそこですか。まさかラブレターをもらうのは初めてだとでも」
「く・ろ・さ・き・さん、いい加減にそういうネタやめましょうよ。今度こそ訴えますよ?」
「そうよ、ヒビキ。あんまりカスミをいじらないであげて?この子、そういうのビンカンなんだから」
「……リリーナも、そういう誤解されそうな言い方やめてね」
「あら残念。楽しいのに」
(そうだった、彼女もそういうタイプだった……)
黒崎と違って腹黒さは全くないが、リリーナも言いたいことはすっぱりと言うタイプで、尚且つ楽しいことは率先して力いっぱい楽しむというところがある。
香澄が嫌がればやめてはくれるが、それでも時には夫婦してからかいのネタを振ってくることもあるので、この二人が揃ったら要注意だ。
「とっ、ところで……リリーナ、ケヴィン君は?」
「あぁ、あの子なら逃げられちゃった。私もさすがに、入浴中のお風呂場には入っていけないもの」
ということは、賢明なる5歳児は入浴中の父に助けを求めに突撃したらしい。
「なら、開始までちょっと時間がかかりそうだね。どこで待たせてもらったらいい?」
「そこでいいんじゃないの?せっかくのお誕生席……って言うんだったかしら?カスミのための席なんだし、座って待ってればいいわよ」
「そうですね。じきにアッシュも出てくるでしょうし、料理も少しずつ運んでしまいますから」
「あ、それじゃ手伝」
手伝います、と当然のように立ち上がりかけた香澄に、リリーナと黒崎はシンクロしたような動きで、同時に掌を前に出して『ストップ』の形を取った。
「お客様は」
「座っててくださいね?」
「…………はい」
やっぱりこの夫婦には敵わないなぁ、と彼女は苦笑して椅子に座りなおした。
「やあ、カスミ。お待たせ」
「カーシュ!」
「こら、ケヴィン。お前はこっち」
「むー……」
ややあってアッシュとケヴィンの親子二人がリビングに顔を出した。
ケヴィンも風呂場に入っていたのか、二人とも髪がしっとりと濡れている。
「結局、ケヴィンもお風呂入っちゃったのね」
「あぁ、なんでも怖いオニババに追っかけられてるからとか言ってたぞ」
「なぁんですってぇ?こんな美人に向かってなんてこと言ってくれるのよ」
「怒るな怒るな。カスミがびっくりしてるだろう。なぁ?」
仲のいい家族だなぁ、とそんなのほほんとしたことを思いながらほっこりしていた香澄は、急に話題を振られてきょとんと目を見開いた。
真っ直ぐ向けた視線の先に、濡れた前髪をかき上げながら微笑むブルーアイズ。
ドクン、と鼓動がひとつ大きく跳ねた。
(あ、あれ?……あれ、あれ、あれ、……あれぇ?)
これはなんだ、これは、これは、かつて何年も前に覚えのある、この甘酸っぱい感情は。
きゅんと胸が締め付けられるような、この気持ちは。
「え、えと……」
「ん?」
「あの、」
「なんだ?」
これはあれだ、きっとあれだ、間違いなくあれなのだ。
(濡れ髪で色気マシマシイケメンマジック!そう、きっとそれ!!)
錯覚なんだ、と自分の心に言い聞かせて彼女は一度深呼吸してから、視線を戻した。
今度はアッシュがきょとんとした顔で、香澄の言葉を待っている。
その子供っぽい表情にまたしてもきゅんとしたものを感じたが、これはそう『萌え』なんだと香澄はそう自己暗示をかけた。
「えぇと、つまり……濡れた髪のままじゃ風邪引きますよ、ってことです。待ってますから、ケヴィン君と一緒にドライヤーかけてきてください」
「あ、あぁ……そうだな。うん、そうしよう」
困ったように微笑んで、アッシュはケヴィンを抱き上げると洗面所へと戻っていった。
その後姿を見送ってふぅっと深く息をつく香澄を、黒崎夫妻はどこかおかしそうに見つめていた。
改めましてお誕生日おめでとう!
と全員が席についたところで祝ってもらった香澄は、こんな楽しい誕生日はきっと初めてだと涙ぐんだ。
物心つく前に母が亡くなり、父は誕生日を祝ってくれてはいたがこんな大掛かりな誕生会などする暇もなかったし、祝ってくれる友達がいても大体学校で「おめでとう」と言われるくらいだ。
高価なプレゼントを貰うよりも、こうして心から祝ってもらえる方が嬉しいのだ、と。
リリーナが腕を振るった料理は本当に美味しくて、その後に出されたケーキはケヴィンが選んだのだと教えられて驚き、更に例の熱烈なラブレターをくるくると巻いてリボンで結んでプレゼントされたり。
あっという間の2時間だった。
途中からケヴィンが眠そうに目を擦っていたこともあり、明日も仕事だからここでお開きにしますかと黒崎が声をかけ、やだやだ泊まってってとぐずるケヴィンをアッシュが寝かしつけに行き、その隙にリリーナと香澄はこっそり退散することにした。
送っていくわよ、とハンドルを握るリリーナは勿論それだけが理由ではないようで。
助手席でうとうととまどろみ始めていた親友に、彼女は超特大の爆弾を投下した。
「ねぇカスミ、うちの兄さんなかなかお買い得だと思わない?今ならもれなく、全力で慕ってくれる可愛い息子つき。お金持ちだし美形だし、人気高いのよー?手が届くのも今のうち、なんてね。ね、どう?」
「……は、……へ?」
「ちょっと、なに寝てんのよ。だーかーらー、うちの兄さんをもらってくれる気あるのかないのかって聞いてんでしょー!?」
「うわぁっ、えぇっ!?な、なんでそんな話!?」
「だって。カスミ、わかりやすいんだもん」
「…………さいですか」
彼女的には必死に誤魔化したつもりだったのだが、リリーナ……と恐らく黒崎の目は誤魔化せていなかったらしい。
本人には気づかれてないよね?と恐る恐る尋ねる香澄に、大丈夫でしょとリリーナは軽く応じる。
「兄さん、あの通りの顔だからモテるにはモテるんだけど、彼女が出来ても長続きしないのよね。なんか女心がわかってない、とか言ってフラれるんだって」
「……あぁうん……なんかわかる」
「それに最近はケヴィンのことだけで手一杯って感じだし。付き合うならほら、ケヴィンの母親できる人じゃないと、ね?」
「そっか。そうだね」
「ケヴィンは姉さん達の忘れ形見だもの。自分の息子として育てるんだ、って兄さん張り切ってるし」
ケヴィンの両親は、アッシュとリリーナの長姉であるエレーナとその夫である。
彼らは息子をひととき預けて夫婦水入らずの旅行に出かけた、その先で事故で亡くなってしまった。
その旅行に行くことを勧めたのが、他ならぬアッシュ本人だったということもあり、彼は姉夫婦の死に大きな責任を感じているようだ。
忘れ形見のケヴィンは自分が育てる、親戚達の反対を押し切って彼はそう宣言したらしい。
「ところで、兄さんのことはどうするの?」
「どうするもこうするもないよ。会社の大事な取引先だから気まずくなりたくないし、これまで通り接しようと思っ、あいたっ」
「なぁに弱腰になってんのよ、元婚約者に往復ビンタした気合はどこいったの!」
前を向きながら、器用にピンポイントで額をデコピンしてきたリリーナは、ふぅっと息をつくと「まぁ、ね」と口調を和らげた。
二の足を踏む香澄の気持ちも、同じ女としてわからないわけではないのだ。
何しろ彼女は、信じた相手に一度盛大に裏切られている。
しかもその相手は同じ会社の美人社員で、こともあろうにその決定的瞬間を彼女本人が目撃してしまったのだから、そのショックはかなりのものだっただろう。
そこで冷静に証拠を残そうと、スマホの録音スイッチを入れることができただけ、褒めてやりたいほどだ。
本当は情けなかった、哀しかった、きっと泣きたかった。
なのに彼女は毅然と前を向き、けじめをつけるべく相手方の家へと乗り込んだのだ。
さすがに開き直ってくれた相手に往復ビンタをおまけした、というのは聞いた時胸がすかっとしたものだが。
「…………ねぇ、それともケヴィンにしとく?きっと、あの子の初恋ってカスミよ?」
「え、えぇっ!?」
「年の差20歳っていうのがちょっとねー、あの子が20歳になったらカスミは40でしょ。ちょーっときついかしら?」
「ちょっとじゃないでしょ。相当でしょ」
「だったら兄さんで妥協しとくのね。今ならケヴィンとのセット割引でお安くしとくわよー?私ら夫婦に一生このネタでいじられる、って対価が払えるなら送料無料で家まで送り届けちゃうわ」
「…………どこの深夜番組よ、それ」
がっくり項垂れた香澄を横目で見て、リリーナは心底おかしそうに笑った。
(やばいなぁ、見抜かれちゃってたかぁ……)
あのトキメキはイケメンマジックなんだ、濡れ髪の神秘なんだといくら誤魔化してみても、跳ね上がった鼓動を、熱くなる頬を誤魔化しきれるはずもない。
アッシュが気づかないでくれていたことだけが、まだ救いか。
ああは言われたが、香澄はまだアッシュに対する気持ちがどんなものなのか上手く言い表せないでいるうちは、彼に近づくのはやめようと思っている。
あれが一時のトキメキだけなのか、それとも本物の気持ちなのか、まだわからないのだ。
鈍いですね、と黒崎あたりには笑われてしまいそうだが。
それでも、今度は……今度こそ、慎重に見極めたかった。
ここで躓いてしまっては、あの無邪気な愛情を向けてくれているケヴィンを傷つけることにも繋がってしまう。
「香澄」
「はい?」
何気なく振り向いて、あ、しまったと香澄は反射的に逃げ出そうとしたが、もう遅い。
背後から抱え込むように腕を回され、その大きな手で口を塞がれてしまう。
「すまない、騒がないでくれ。危害を加えるつもりはない」
「!!」
(この声……山崎、さん!?)
どうして、と香澄は身を強張らせる。
今の会社に就職が決まった段階で、彼女は以前のマンションを引っ越して新しい部屋を借りている。
念のためにとスマホも新調したし、今の住所を知られるようなものは何も……否、彼らならその情報網を使っていくらでも調べられるだろうか。
「あまり時間がないんだ、このまま聞いてくれ。……俺は……俺達はもう、バラバラだ。西園寺も笹野も、しばらく立ち直れそうにない」
どうして、と問いかけたがっているのがわかったのだろう、山崎はふと自嘲する。
「そうだな、君は知る権利がある。なら、時間の許す限り話そう。因果応報な、俺達の転落を」